26.対峙八

「え……?口を?何ですか?」


 言葉の意味するところが全くに理解できず、桔梗ききょうはひどく困惑したままに目を何度も瞬かせていた。一方でふではしれりと唇を緩ませると、何をそんなに困惑することがあるのかとでも言うように、うっすらと目を細める。


「口を、吸うのですよ。吸わせていただけませんか?」

「口を吸う……んですか?どうしてそんなことを。」

「どうしてと……桔梗ききょうさん。その歳で未通女おぼこでもあるまいし、分かるのではないですか?」

未通おぼ……って、あの、えっと……それは……。」



 やにわに桔梗ききょうは顔を赤らめると、慌てて視線をそらして目を俯かせる。

 その態度にふでは何となく察して、僅かばかりに驚きながら、ほうっと小さな吐息を漏らした。



「おや、まさか桔梗ききょうさん。貴女あなた様は生娘きむすめでありましたか……。道理で初心うぶなはずでございますね。」


 感心した口調で言うふでの言葉に、桔梗ききょうは途端に耳の先までカッと肌を朱に染めて喉を鳴らしてしまう。


「いや……あの……うあぅ……。」


 余りの恥じらいで狼狽ろうばいしてしまい桔梗ききょうの喉からは奇妙な声が溢れ出ていた。


桔梗ききょうさん、貴女あなた様。一体お幾つなのですか?確かめるのを忘れておりましたが。」

「数えで十五を越えました……。」

「十五を越えて初心うぶですか。そうですかそうですか。」


「えっと……その……やっぱり、この歳で初心しょしんなどと、駄目な事でしょうか?」

「いえ、そんなことはございませぬよ。いやはや、むしろ良いというものですよ。いや、宜しい。」

 酷く嬉しそうに言うふでの言葉に、むしろ桔梗ききょうは恥ずかしくなっていく。


「駄目なら駄目と言っていただいた方が気が楽です……。」

「なに、初心うぶと言うのも、それはそれで良いものですよ。」

 ふふっと声を上げて、ふでは人を斬っていた時よりもよっぽどに愉快そうな笑みを見せた。


 その表情は屈託がなくって、まるで童が遊びを知ったときかのような酷く無垢むくな笑顔だった。

 ただそれは、桔梗ききょうにとっては、むしろ嘲笑わらわれたように感じられてしまった。


「しかし……そうも笑われては嫌な気持ちにもなります。」

 口を拗ねらせて桔梗ききょうが言うと、ふでは目を丸くする。


「笑ってはおりませぬよ。ただ嬉しいだけです。男を知らぬのなど私からすれば素敵なものですよ。穢れておらぬということでしょう。」

「物知らずと言われてる気しかしませんが。その……口を吸うなどと言うのも良く知りませんし……。」


「まあ、なに難しいことではありません。単に唇を吸うだけでございますよ。口の中を舐めたりもしますが。」

「舐め……!?な、なぜそのようなことを?」


「心地好いからですよ。それはねえ。桔梗ききょうさん、それは良いものですよ。言うてしまえば、交合の前準備と言いますか。気分を盛り上げるためにやるものですがね。それだけで恭悦なものです。」


 交合の前準備と言う言葉に、桔梗ききょうは身を構えてしまう。生娘であることは恥ずかしかったが、桔梗ききょうには性行をする意気地もなかった。その前準備と言うものが、僅かに恐ろしく感じられてしまう。そしてなにより桔梗ききょうには不可思議にしか思えぬことがあった。


「交合の前準備って……あのそれは、筆殿ふでどのが女性にやって嬉しいものなのですか?」


 それは単純な疑問であった。

 初心である桔梗ききょうですら、交合は男女がやるものと知っていた。


 実際に見たと言うわけでもなかったが、そういうものだと聞かされてきた。好いた男とまぐわうのは心地好いと友人から教えられもした。一方で好きでもない者とするのは苦痛でしかないとも教えられ、この世界に生きていくならば、そう言う目にも合うだろうと、憐れみの目でもって言われもした。


 だからこそ、女同士で交合をするものなどと聞いたこともなく、それが気持ち良いのだというのも信じられず、なによりどうやってするのだと言うのも全く想像がつかなかった。

 桔梗ききょうの問いに対して、ふではすました顔で一つ頷いた。


「私はね。桔梗ききょうさん。私は女性が好きなのですよ。ええ。男などよりは断然に女の方が良いのです。」

「そ、そう言うものなのですか……。」

 力強くそう言ったふでの言葉に、桔梗ききょうは気圧されてしまう。


「なにより桔梗ききょうさんは美人ですからねえ。」


 そうふでは言い付け加えた。


「だから、貴女あなた様の口を吸わせていただければ、気持ち良かろうと思うのです。それでどうなのです?口を吸うて良いですか?」

 甘い声で問いながら、そっとふでの指先が桔梗ききょうの頬へと触れる。


 するりと頬を撫でて徐にふでは顔を近づけていく。

 徐々に、徐々に、と近づいていく顔に桔梗ききょうはくっと身を強張らせてしまう。互いの唇が触れる、僅か手前でふでは動きを止めた。


「うぁ……。」

 余りにふでの顔が近いことに、桔梗ききょうは緊張してしてしまい、自分の心臓がばくばくと音を立てて慌てていくのを感じた。


 月の明かりに照らされたふでの顔は肌の一片までもがくすみがなく見えて、間近で眺めてみると、その通った鼻筋や緩い眦、長いまつげなどが目に留まり、何故だか妙に綺麗に見えてしまって一層に胸が高鳴ってしまう。


 ぎゅっと手を握りしめて、桔梗ききょうは心を想い定める。


「あ……あの、それは痛くありませんか?」

「傷つけぬようには致しますがね。もし桔梗ききょうさんが痛いのが好みなら、痛くすることも出来ますよ。」


「い、いえっ。痛くないのなら……。筆殿ふでどのの助けになりますなら、私はやりますので……あの、口を吸うて下さい。」

 身を投げ捨てる思いで桔梗ききょうはそう口にしていた。


 好きでもない相手とするのは苦痛でしかないとも言い説かれていたが、傷がつかぬのなら別に良いとも思えた。なによりも、ここまで命を助けてくれたふでに何か恩を返したい思いが強かった。


 言葉を聞いたふでは、ほっと喉の奥から声を漏らしていた。

 受け入れられると思っていなかったのか、一瞬目を軽く見開いて、桔梗ききょうの表情を眺めた後、目を細めて嬉しそうに頷いた。



「そうですか。そうですか……それは嬉しうございます。」

 そう言ったふでの声は酷く喜色きしょくを含んでいた。


 背中を包んでいた手をするりと放すと、ふではそのまま桔梗ききょうの顎へと手を当てた。指先でくいっと、顎先を押し上げる。



「顔を上げて下さい。」

 促されるままに桔梗ききょうが僅かに顔を上げると、その視線がふでの眼差しと交じり合う。


 薄っすらとふでは微笑んで、桔梗ききょうへと顔を近づけていく。

 仄かに桜色をした桔梗ききょうの唇へとふでの口が重なって、ふにりと優しく粘膜が包み込む。



「んくっ……。」

 唇に酷く柔らかいものが触れる感触に驚いて、桔梗ききょうは小さく声を漏らしてしまう。


 それは想像していた以上に余りにも柔らかく、そして温かで厭らしかった。

 僅かに口の端が荒れていて、ささくれ立っている所はあったが、それでも驚くほどに心地よい感触だった。


 微かに震えて快感に痺れた桔梗ききょうの唇へと、言っていた通りにふでの口はゆっくりと吸い付いていく。


 下唇へとちゅうっと吸いあげて、軽く唾液の交わる音を立てる。


 口の中へと吸い込まれた肌は、緩くはむりと唇に挟み込まれる。


 ぴくりと桔梗ききょうの背筋が反れて、仄かな弧を描く。


 途端、腰へとふでの手が回されて徐に体が引き寄せられて、ぎゅっと密着していく。



「あふっ……ふぁ……。」


 小さな吐息が桔梗ききょうの喉奥から溢れていた。


 全身を温かくそして優しく抱かれて、唇の快感だけでは無い奇妙な安堵感を感じてしまい、柔和に包まれていく感触に、次第と桔梗ききょうは体躯と心根が蕩けていくような気持ちになっていく。


 はむっとふでが唇を吸うたびに、粘膜の柔らかい部分が擦れあい、口の中にとろりと粘っこい唾液が溢れてきてしまう。


 喉に溢れる唾液に溺れそうになり桔梗ききょうはこくりと嚥下させると、その動きででより一層に二人の唇が強く擦れあって、その余りの気持ち良さに思わず膝の力が抜けそうになってしまっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る