19.道行六 - 対峙一

「と、言いますか、もしかすれば、今すぐにでも襲ってくるかもしれないんですよね。」

 周りを見渡して桔梗ききょうは僅かに身構えた。

 道脇に立ち並ぶ針葉樹の木陰は酷く暗く、生えているだろうはずの草木の外形すらも見分けられない。そこに誰かが居るのか、何が存在するのかすらも判然とせず、耳をそばだててみても小さな虫や遠くで鳴く鳥の声ぐらいしか聞こえてこなかった。


 しかし、間違いなく自分を追ってくる男達が近くに居るのだろう、ふではそれが分かっているような態度を見せている。ただ、その気配が自分には全く感じられず、それが何よりも恐ろしくて、桔梗ききょうは不意に下腹部の根元から競り上がってくる恐怖に、ぞくっと背筋を震わせてしまっていた。


 そんな桔梗ききょうの震える傍らで、ふでは全く意にも留めず、あっけらかかんとした態度をで歩き始めると、

「そうかもしれませんがね。そうしゃちほこらずとも良いですよ。とりあえず歩きましょう。」

 と、言って軽くぽんっと背中を叩いた。


「わわっ……。」

 唐突に体を押されてしまい、慌てふためきながら小さな声を上げると、ふでの手に押し出されるようにして、桔梗ききょうは二三歩前に歩きだしてしまっていた。


 多少転びそうになりながら足を進めてしまった桔梗ききょうは、咄嗟に振り返ってふでへと非難がましい目を向ける。


筆殿ふでどの……、いつ襲われるともしれないのにそんな悠長で大丈夫なんですか……?」

「少なくとも、今襲ってくるわけではないようですからね。そう言う気配が見受けられません。それなら、ここでじっとしているより歩いた方が得と言うものではありませんか?」


 どうにも軽い調子で言ってのけると、ふではぽんぽんと気楽な様子で桔梗ききょうの背中を何度も叩いていく。

 それを嫌そうにして桔梗ききょうは手を伸ばし軽く払いのけた。


「分かりましたから、そう叩かないでください。」

 渋々といった足取りで桔梗ききょうは道を歩き出す。


 嫌そうに言いはしたが、ふでの軽薄な態度にどことなく緊張が薄れて心が軽くなった感じはしていた。ただそれも結果的にそうなっただけで、彼女が狙ってやったことではないのだろうと、桔梗ききょうは多少に気を許しそうになる心を思い留める。


 そう思ってぐっと手を握る桔梗ききょうの傍らでは、妙に機嫌の良さそうなふでが、軽く鼻歌を奏でながら空を眺めて歩き始めていた。


* * *



 鬱蒼うっそうと立ち並ぶ針葉樹林の間を通った山道を、酷く静かに口黙って顔を俯かせながら桔梗ききょうは静かに足を進めていった。道を照らす月は闇夜の空で煌々こうこうと輝き、半分に欠けた身体を西の山近くまで傾けて悠然ゆうぜんと佇んでいる。


 山野辺やまのべにかかった雲は、黒い空を背景に月影に照らされたことで、一層にその白さを浮き立たせ、妙に印象的に映えて見えた。

 ただ、そうやって上空に見える景色はそれなりに明るくとも、木々に囲まれた二人の通る道には枝葉の作る影が鬱蒼として多く、ともすれば数寸先の地面の形もあやふやなほどであった。


 緩い傾斜となった坂道を、一歩一歩確かめるようにして桔梗ききょうは足を進めていく。


 周囲の林の中はひっそりと音の凍り付いたかの如くに静まり返っていて、瞬刻しゅんこく流れた穏やかな風程度の勢いですら枝葉が大きくざわついて、まるで誰かが移動しているかのようにも聞こえてくる。


 木々の間で物音がするたびに桔梗ききょうはびくりとして足を止める。そうしてすぐに静まり返ったのを感じて、ほうっと胸を撫で下ろして、そんなことを何度も繰り返していた。

 本当にこんな静かな闇の中を、誰かが付いて回ってきているのか、幾度となく桔梗ききょうは辺りを見渡しては、緊張でからからになっている喉で無理やりに唾を飲み込んで、こくりと音を鳴らせた。


 不意にふでの掌が、その肩をぽんと軽く叩いた。


「ひぅっ!?」

 突然のことに大仰なほどおののいてしまって、桔梗ききょうの喉が奇妙な声が溢れ出た。

 その声が可笑しかったのか、ふではくすくすと肩を揺らして笑う。


「慌てすぎです。そう気を張り詰めていては、体が持ちやしませんよ。」

 ついっと顎を上げて、被っていた笠越しに空へと視線を向けながら、ふでは何とも呑気な雰囲気で言った。


 空の西方には月が大きく浮かび、残る一面にはびっしりと星屑がまたたいている。人里から離れているせいなのか、周囲が木々に囲われて暗いおかげなのか、一層にくっきりと星々が綺麗に見えていた。


「ほら空を見てごらんなさいな。月がくっきりとしていて、眺め頃でございますよ。」

「命が狙われているというのに、そうも大胆にはなれませんよ……。」


 肩をかっくりと落としながら、桔梗ききょうは空を見上げる気力もなくとぼとぼと足を進める。

 桔梗ききょうからしてみれば、こんないつ襲われるとも知れない中で、そこまで悠々として風景を楽しんでいられるふでが、信じられない思いであった。


 ふむっと上げた顎を一つ撫でてふでは首を傾げる。


「なに、ずっと貴女あなた様の身振りを観察しておりましたがね。腰を抜かしたり、転がったり、頭から地面に突っ込んだり、酷い有様でしたでしょう?あれでは私が居ないときに襲われたら、どうせ為す術もなく斬られておりましょうから、まあ、もうさっぱりと死んだものとして諦めておけば良いじゃありませんかね。」

 それは余りにもつっけんどんな言われようで、歯に衣着せぬ物言いに、ぐうっと唸って桔梗ききょうは言葉を詰まらせてしまった。


「あ……いや……そんな酷かったですか?これでも体術には自信があったのですけれど。」

 ははっとふでは軽く鼻で笑った。


「御冗談がお上手で。」

「冗談ではないんですが……。」


 下げていた肩を一層に落として、悲しそうに桔梗ききょうが呟くと、ふではむしろ小気味良く肩を揺らす。

 言ったことが面白いというよりは、桔梗ききょうの反応を楽しんでいるようだった。


「そうですね。体術と言いますか、身のこなし等は別に置いておくとしても、貴女あなた様は危機に対する反応が酷くにぶいですよ。愚鈍と言って良い。ですからねえ、私が守れなくなったら貴女あなた様は死ぬものと思うてて下さい。」


「いや、そんな覚悟そうそうできませんって……。」

「そうですか?そうですか。まあ、覚悟せずに死ぬのもおもむきがありましょうかねえ。そう言うぎわも私は好きですよ。」


「あの……私としてはなるべく死なないように努力する方向でお願いしたいのですが……。」

「善処いたしましょう。」

 空を眺めながらふではすました顔で言った。


「いい加減、桔梗ききょうさんも月を見て気でも紛らわしたらどうです?良い月ですよ。」

「見上げたら、急に空から人が降ってくるとかありませんよね?」

 軽い冗談のつもりであったが、存外にふでは真面目に考えて頭を捻る。



「さて、どうでしょうか……。隠密にはそう言う道具でもあるのですか?」

「聞いたことはないですね。」


 言いながら桔梗ききょうは多少に諦める心地で空を見上げた。


 ふでの言うとおりに夜空には月が綺麗に映えて輝いていたが、ただむしろ対照的に暗く見える夜空の黒さの方が目についてしまい、吸い込まれるような気分になってくる。深く穏やかな闇夜が自分の将来を暗示しているようで、暗澹あんたんたる気持ちになってしまい、桔梗ききょうは一二度首を振るった。


 死ぬことを考えるのはいやであった。


 死んだ後どうなるのか、そのことを考えると桔梗ききょうは胸の中の少し奥まったところが落ち着かなくなる。そのために死ぬことなどは強いて考えぬようにして生きてきたが、今はそこら中が死に雰囲気に溢れていて、肌に纏わりついて来るようで、何もしていないのに狼狽ろうばいしてきてしまう。


 ただ、ふでの言う通りに、そんな調子では旅路も持たないとも思えて、努めて気分を変えようと彼女へと話を振ることにした。



筆殿ふでどのは――。」

 軽く声を掛けるとふでは気が付いたように顔を振り向かせる。


「はて?なんでしょうか?」


「えっと……そうですね、筆殿ふでどのは、どこで刀を習ったんですか。あれほどの腕前、そう生半な鍛え方ではないのでしょう?有名な方にでも師事されていたのでしょうか?」


「そんなことが気になりますか?」


「まあ、多少は。」


 気分を変えるつもりで口にしていたが、気になっていたことと言えば気になっていたことであった。


 厄介事の好きそうな性分も含めて、このふでと言う女性がどう育ってこうなったのかは、多少なりとも興味のあることだった。


 少なくとも通り一遍の退屈な人生ではなかろうという気がした。



「そうですねえ。」


 一つ頭を掻いて、どう言ったものかと思案するようにふでは首を傾げた。

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