第八話 導く者
皆さんが夏休みに入って間もない、ある日。昼間に出現した敵との戦いが終わった後、私達は五戸家の地下室に赴いた。
戦いで傷を負った時には、いつもここに来て傷の手当てをしている。以前の芭蕉さんのような大怪我になってしまうと流石に病院へ行く必要があるが、軽い怪我の場合は地下室に備えられた治療道具で充分手当て出来る。
そして、今日の戦いでは楓さんが転んで怪我をしてしまったので、サンちゃんさんが楓さんを治療していた。
「敵の攻撃でなく自分で転んで怪我をするだなんて……しかも何も無い所で。楓さん、あなたどれだけおっちょこちょいなんですの?」
絆創膏の包装紙を取りながら、サンちゃんさんは嘆息を漏らす。
「えへへ……まあ敵には勝てたし宝石も取り戻せたし、終わり良ければ全て良しだよ!」
椅子に座っている楓さんは、立っているサンちゃんさんを見上げる。
派手に転んだため、楓さんの体には沢山の擦り傷がある。鼻の頭、肘、膝……もう傷口は洗って止血もしたので血やゴミは付いていないが、痛ましい姿に変わりはなかった。
「確かに敵には勝てて宝石も取り戻せましたけど、それとこれとは話が別ですわ。今度からは転ばないように気を付けなさい。いいですわね?」
子供を叱るように言って、楓さんを鋭い目つきで見るサンちゃんさん。楓さんは小さく縮こまって「はい……」と弱々しく返事をした。
楓さんとサンちゃんさんのすぐ近くでは、芭蕉さんと幸恵さんが隣同士に椅子に座り話をしていた。
「ゆっきー先輩、眠そうですね~大丈夫ですか?」
「あ……ごめんね。今日は魔法を沢山使ったから眠くなっちゃって……」
そう口にしながら、幸恵さんは片目を擦る。
魔法は体力を消耗するため、幸恵さんの場合は魔法を使いすぎると眠くなってしまうらしい。こうして回復魔法に頼らず怪我を治療しているのも、サンちゃんさんが「魔法に頼りすぎては幸恵さんの体に悪影響」と心配しているからだ。
皆さんの様子を眺めていると、腕を組んで壁に寄り掛かっている知加子さんの姿が視界に入った。私は、知加子さんの側に歩いて行く。
「知加子さんはお怪我、大丈夫ですか?」
知加子さんの伏せられていた目がこちらに向く。
「私? 私は今日はそこまで怪我しなかったし、大丈夫だよ」
戦闘の後だという事を全く感じさせない涼しい表情で、知加子さんは答えた。
「でしたら安心しました。……それにしても、やっぱりすごいですよね、皆さん。まだ中学生なのにこんな風に傷付いて、疲労しながらも戦って……」
「……まあ、私たちにしか出来ないなら私たちが戦うしかないからね。宝石に取り憑かれた奴に街を壊されたら困るし」
「そうですよね……」
宝石に取り憑かれた者と戦えるのは英雄の武器に選ばれた皆さんだけ。それは分かっているのだが、中学生の子達がこうして戦うのは見ていて心配だった。サポートのお仕事だけじゃなくて、他に何か私に出来る事があれば……多分盾役くらいは可能だと思うけど、皆さんお優しいからお断りされるだろうしなあ。そんな風に考えつつ、私は知加子さんの顔へ視線を送る。
「……あ。知加子さん。頬に切り傷が」
「え? どこ?」
「ほら、ここ……」
知加子さんから見て左の頬、私から見て右の頬に、私は片手を添える。切り傷からは少量の血が出ていた。
「早く手当てしませんと……今ガーゼと絆創膏を用意しますから」
「だ、大丈夫だよ。小さい傷だろう? 放っておいてもすぐに治るよ」
「駄目ですよ! 小さい傷でもそこからばい菌が入ったら大変なことになってしまうかもしれないんですよ……!?」
私は興奮して少し大きな声を発してしまう。そんな私の姿に、知加子さんは呆然としていた。
はっと我に返る。知加子さんの頬から手を離す。
「あ……す、すみません」
「……いや、私もごめん。栞の言う通りだ。ちゃんと手当てするよ」
「そ、そうですか。あ、すぐに治療道具、取りに行きますね」
知加子さんに背を向けて、救急箱の置いてあるテーブルを目指し歩き出す。
──昔から、私は体が丈夫だった。風邪も片手で数えるくらいしかひいた覚えは無いし、ひいたとしても軽い風邪。体の傷も治りが早かった。それに、痛いとか苦しいとかも……。だからこそ、私は、風花お姉様にも迷惑を掛けてしまった。風花お姉様の気持ちを理解する権利も持ち合わせていなかった。
他の人は私みたいに丈夫じゃないと知っているから、つい他の人の傷には敏感になってしまう。なりすぎてしまう。私の悪い癖だ。ちゃんと、治さないと。
椅子に腰を下ろしている知加子さんの頬の位置まで屈んで、頬へと絆創膏を貼る。これで手当ては完了だ。
「すまないね。栞の手を煩わせてしまって」
「いいえ。これくらいお安いご用です」
私はテーブルに載せられた救急箱へ絆創膏の箱を入れて、救急箱の蓋を閉じる。
「……ああ。そろそろ時間だ」
いつの間に取り出したのか、スマホの画面を見つめ、知加子さんは呟いた。
「何かあるんですか?」
「部活の助っ人。今日咲耶中学校で試合があるみたいで、どうしてもってお願いされて引き受けたんだ。……助っ人の前に敵と戦う羽目になるとは思わなかったけどね」
知加子さんはため息を吐いてから立ち上がる。
なるほど、助っ人か。私の心中で、何故か休日にも関わらず制服の知加子さんの謎が解ける感覚がした。
「手当てしてくれてありがとう。じゃあね、栞」
「はい。行ってらっしゃいませ」
知加子さんが地下室の出入口へと歩き始める。途中で皆さんに挨拶をしながら去っていく知加子さんの後ろ姿を、私は見送る。
大丈夫かな、知加子さん。今回の戦闘はそこまで厳しい戦いだった訳じゃないから心配は無用なのかもしれない。でも……知加子さんは戦闘ではリーダーを務めていて、いつも皆さんのことを引っ張ってくれている。リーダーというのは楽な役割ではないだろう。幸恵さんに聞いた話によると勉強もスポーツも成績優秀らしい。きっと努力しているんだと思う。その上、部活の助っ人もなんて……やっぱり知加子さんの体が心配だ。
数分悩みに悩んだ末に、私は知加子さんの後を追うことに決めたのだった。
咲耶中学校。こうして来るのは芭蕉さんが大怪我をして駆け付けた時以来だ。
夏休みなので学校はお休みのはずだが、中学校の方からは生徒らしき人達の声が聞こえる。今日は試合があると知加子さんが口にしていたし、きっと皆さん部活に来ているのだろう。休みの日まで部活だなんて大変だなあと思いながら、学校付近にある電柱の陰から校門をじっと注視する。もし体調が悪ければ早めに帰宅するはず。校門から知加子さんが出てきたら気付けるように、目を離さないようにしないと。
──だが、二十分くらい待っても誰も校門から出てこない。
首を動かして辺りを見回す。今は誰も道を歩いていないが、あまり電柱に隠れて中学校の方を見ていては怪しい人だと通報されてしまう。それに……知加子さんに関しては私の心配しすぎだったのかもしれない。きっとこれ以上待っていても、知加子さんは来ない。来るのは試合が終了してから、恐らく数時間後だ。
帰ろう。後ろに体を移動させ、踵を返す。ゆっくりと歩を運んでいく。帰ったら今日の戦いのメモをまとめておかないと──
「…………栞?」
背後から聞き覚えのある声がした。
咄嗟に立ち止まり、振り向く。私の居る場所から少し離れた所に、先程会った時と同じ、制服を着た知加子さんが立っていた。
「やっぱり、栞じゃないか。奇遇だね」
そう言って、肩に掛けた鞄を揺らしながら、私の方へと小走りで近付いてくる。
「ち、知加子さん……部活は、どうしたんですか?」
狼狽える私の側で知加子さんの足が止まる。
「ちょっと調子が悪くて、今日は帰らせてもらったんだよ。栞こそどうしたんだい? 散歩?」
知加子さんは、不思議そうな顔で私に尋ねた。
……ど、どうしよう。まさか本当に出てくるとは。何て説明すれば良いか……知加子さんが心配で中学校まで様子を見に来たとか、絶対に気持ち悪いと思われる。
「そ……そうです! 今日は良い天気なので散歩にでも行こうと、それで散歩に……」
「良い天気って言っても、今日は曇り空だけど」
空を仰ぎ見る知加子さん。的確な指摘に私は閉口する。
……そうだった。今日は言う程良い天気ではなかった。朝に視聴したニュースでは降水確率も七十パーセントだったし。墓穴を掘ってしまい、自分に呆れる。
「あ、あははは…………すみません。実は、知加子さんのことが心配で中学校まで来てしまったんです……」
私は観念して本当の理由を話した。こういう時に限って、私は嘘を吐くのが下手になる。
「私を……? どうして?」
「戦闘の後に部活の助っ人なんて大変でしょうし……知加子さんは戦いではリーダーで、学業も頑張っていて、そこに部活の助っ人もなんてお
「……それで、わざわざ中学校まで、か。随分と心配性なんだね」
「で、ですよねー……すみません……気持ち悪いですよね、私」
「誰も気持ち悪いだなんて言ってないだろう。まあ確かにちょっと気持ち悪いけど」
「うっ……」
無表情でストレートに「気持ち悪い」と言われ、私の心へぐさりとその言葉が突き刺さる。でも本当のことだ。知加子さんにそう思われても仕方無かった。
「だけど、ありがとう。そんなに気に掛けてくれて。嬉しいよ」
珍しく表情を緩ませ、知加子さんはお礼を口にしてくれた。
喜んでもらえたことで、途端に私の沈んでいた気持ちがぷかぷかと浮き上がってゆき、明るい気持ちに変化する。我ながら単純だと感じるが、知加子さんに嫌われていなかったのだからこうなるのも当然だろう。
「い、いえ。私が好きでやったことですから。……ところで、体調は大丈夫ですか?」
「少し熱っぽいだけだから。一日休めば多分…………」
「知加子さん? へっ、わ……っ」
急に知加子さんが黙り、私の方へふらっと倒れる。慌てて知加子さんを体全体で受け止めた。私と知加子さんは抱き合うような体勢になる。
「だ、大丈夫ですか……!?」
知加子さんの背中に手を回して、しっかりと支える。
「……ごめん。ちょっとふらついて……大丈夫だから……」
「知加子さん……」
私の心配は、無駄ではなかったらしい。やはり知加子さんは体調を崩していたのだ。
鈍い動作で私から離れた知加子さんは、吐息を漏らす。絆創膏が貼られた頬はほんのり赤くなっていた。……こんな状態の知加子さんを一人で帰らせる訳にはいかない。
「知加子さんの
「そう、だね……ここから歩いて十五分くらいだけど、それが何か……?」
「体調が優れないのでしょう? 私の肩をお貸ししますので、御家まで送ります」
「そんな、悪いよ」
「いいえ。知加子さんのそんな姿を見たら、放ってはおけません。送らせてください」
真剣に、知加子さんの顔を見据える。
知加子さんはそんな私を瞳に映してから、息を吐いた。
「本当、心配性だね。……じゃあ、送ってもらえるかな?」
その声は、優しい声だった。
「…………! はい!」
安堵と嬉しさの感情が混ざった声で返事をする。
私は知加子さんに肩を貸し、案内をしてもらいながら、知加子さんの家へと進み始めた。
知加子さんの家──アパートの一室に着いてすぐに、私は知加子さんを知加子さんの部屋のベッドに寝かせた。家には誰も居なかったので、「私が看病をします」と、知加子さんの看病を開始した。
体温計で熱を測ると三十七度ちょっとと微熱だったため、どうやら普通の風邪らしい。とは言え私はお医者様ではないので「御家の方が帰ってきたら病院に行ってくださいね」とお願いした。それから知加子さんは、許可を頂いて作った私の手作りのお粥を食べて、風邪薬を服用。着替えは知加子さんが「流石にそこまで手伝わせる訳にはいかないよ」と断ったので、私は知加子さんが着替えている間にお粥の食器などを片付けた。
片付けを終えた私は、知加子さんの部屋にある座布団に足を崩して座り、少し休憩させてもらっている。
「色々とありがとう……お礼は今度するから」
私のすぐ横のベッドに居る知加子さんが、起き上がったまま言う。制服から着替えて今はパジャマ姿なので何だか新鮮な感じだ。
「どういたしまして。お礼は……知加子さんの元気な姿をまた見せてくだされば充分ですよ」
「それじゃあお礼って言えないだろう。何かないのかい?」
「ええー……そう訊かれましても私、知加子さんにしてほしいことは他にありませんし」
「……なら私が考えるよ。それでいい?」
「はい。知加子さんが考えたお礼でお願いします」
「りょーかい。じゃあ私は少し眠るよ。栞も、もう帰っても大丈夫だよ。帰る時はさっき渡した合鍵使ってくれればいいから。今日は本当にありがとう」
「いいえ。ゆっくりお休みになってください、知加子さん」
「……うん。おやすみ……」
知加子さんはベッドに横になり、布団を体に掛けて目を閉じた。
私は立って、知加子さんに一礼してから、帰ろうと後ろを振り返る。
視界に広がる室内の光景。知加子さんの部屋は整頓されていて、必要最低限の物以外は無いと言った印象を受けた。一番目を引いたのは、棚と壁に飾られている沢山のトロフィーや賞状。ちょっと遠くにあったので近くに寄って確認してみると、殆どが剣道の大会での物だった。
「……それが気になる?」
背後から、知加子さんの声がした。私は慌ててベッドへと体を移動させる。知加子さんは目を開けていて、横になったまま私へ顔を向けていた。
「ご、ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」
「ううん。まだ眠ってなかったから」
その言葉に、私は胸を撫で下ろす。
「そうですか……よかったです。あの。知加子さん、剣道をやっていらっしゃるんですか?」
「……いらっしゃった、が正しいかな。中学入る前にやめたんだ」
「やめた……ってどうしてですか? こんなに沢山トロフィーや賞状があるということは、頑張っていらっしゃったのでしょう?」
「確かに前は結構頑張ってはいたけど……今は、もう無理なんだ。だからやめた」
知加子さんは天井を見上げる。しかしその視線は、天井よりも高く、遥か彼方へ送られている気がした。
「……剣道、嫌いになってしまったんですか?」
「そういう訳じゃない。剣道は今でも好きだし、頼まれてたまに剣道部の助っ人をしたりはしてる。だけど……私の剣道を好きな気持ちだけでは、もう前のように剣道を頑張ることは不可能なんだ。頑張る理由が、大きく欠けてしまったからね」
天井を見つめたまま、淡々と語る知加子さん。
私は知加子さんの話を聞いて、部活の助っ人とは剣道部の助っ人だったのだと心付く。数多くのトロフィーや賞状を貰って、助っ人も依頼されるくらいだし、きっと知加子さんには剣道の才能があるのだと私は思う。
「本当に、剣道はもう以前のように頑張るつもりはないんですか?」
「無いよ。それが何か?」
「知加子さんには凄い才能があるのに、ちょっと勿体無いと思ってしまいまして」
「……勿体無い、ね。剣道をやめると周りの人たちに話した時も耳にたこが出来る程言われたよ。でも、勿体無いから何だって言うんだい?」
吐き捨てるように口にして、知加子さんは私から顔を背け、背中を向ける。
「勿体無いとかそんなこと言われたって、私には前みたいに剣道を頑張る意味が無いんだ。……剣道を頑張る意味どころか、私に、は…………」
「……知加子さん?」
ベッドへ歩み寄り知加子さんの顔を覗き込む。知加子さんは小さな寝息を立てて眠っていた。風邪薬が効いたのだろうか。何を言い掛けていたのかは気になるけど、起こすのも悪いしこのまま寝かせておいてあげよう。
私は今度こそ帰ろうと、扉へ近付く。途中、先程の棚が視界に入った。さっきは分からなかったけれど、棚の端の方には写真立てがある。
写真立てに飾られている写真には剣道着を着て、トロフィーを両腕で抱えている知加子さんが居た。私は、ちょっと驚いてしまう。だって、写真の中の知加子さんがとても幸せそうに、無邪気な笑顔を浮かべていたから。普段の知加子さんからは想像も出来ない笑顔。知加子さんって、こんな風に笑う時もあるんだなあ……。
そして知加子さんの両隣には、同じく剣道着を着た知加子さんのご両親らしき二人も写っていた。お二人とも優しく微笑んでいて、いい人そうな印象だった。
私はある疑問を抱く。知加子さんの家にはリビングやキッチン、お風呂場、洗面所などを除いて、部屋は知加子さんの部屋ともう一つの部屋しかないようだった。ご両親は一つの部屋で暮らしているのだろうか。それとも、幸恵さんのようにご家族と別居しているとか?
数分思考してみたが納得のいく答えが見つからなかったので、後日知加子さんに尋ねてみる事に決め、知加子さんの家を去った。
五日後。
朝食を食べ終わり、私は自室でサンちゃんさんからお借りしたタブレットを使って、皆さんの装備のデータを眺めていた。初めてのサポートのお仕事でサンちゃんさんから渡されたデータだ。
なんとなく知加子さんの装備についての情報に目を向けてみる。知加子さんの英雄の武器は金属のような硬い素材で作られた手甲。金属の“ような”という表現になっている理由は……英雄の武器の最初の持ち主である四人の英雄たちはプレシアとは別の惑星に住んでいた宇宙人であり、そのため英雄の武器は四つ全てが私達が住むこの惑星では未知の素材で出来ているからだ。未知の素材で作られた武器を使用して人体に影響は無いのだろうかと不安を感じたけれど、サンちゃんさんは「調査の結果問題無しと報告がありましたわ」と仰っていたし実際悪影響は無さそうなので、きっと大丈夫……だと信じたい。
そんな風に私が考え事をしていると、不意に扉の方からノックの音が聞こえた。誰だろう。私はタブレットをスリープモードにして椅子から立ち上がる。
「栞様ぁ~いらっしゃいますかぁ?」
扉の向こう側から室内へ届いたのは小鈴さんの声だった。
私は小走りで向かい、片開きの扉を室内側へ引いて開ける。すると、目の前に何冊も重ねられた本が姿を現した。重ねられた本の後ろから小鈴さんが顔をひょっこりと出す。
「よかったぁ、いらっしゃいましたねぇ」
安心したような声音で、普段通りの可愛らしい顔を私に向けた。そんな小鈴さんが普段通りすぎて私は戸惑ってしまう。小鈴さん、重くないんだろうか。
「こ、小鈴さん……その大量の本はどうなさったんですか?」
「これですかぁ? お嬢様から片付けるようにと仰せ付かっていて……今から書庫に持っていく所なんですぅ。まだ何十冊もあるんですよぉ」
「何十冊もって、そんなに運ぶの大変じゃないですか? 私も宜しければお手伝いを……」
「いえいえ~これは私のお仕事ですし、私こう見えても力持ちなのでこれくらいの量は全然余裕なんですぅ。それよりも、栞様にお客様がいらっしゃってるんですよぉ……っと」
小鈴さんは両手で持っていた本を近くの、廊下の置物が置いてある小さなテーブルの上に一旦載せた。
お客様……一人思い当たる人が居る。もうすぐ時間だし、恐らくそうだろう。
「もしかして知加子さんですか?」
「ええっ、どうして分かったんですかぁ? もしや栞様……エスパーでしょう!」
小鈴さんが私を人差し指で指差して、自信有り気な表情をする。
「いや、違いますけど……実は今日、知加子さんと約束しているんです」
一昨日、知加子さんから私のスマホに電話が掛かってきて「今度この間のお礼をしに行ってもいいかい?」とお願いされたのだ。私はそれを承諾し、知加子さんと今日会う約束を交わしていた。
「なーんだぁ。そうだったんですねぇ。栞様がエスパーとか、未知の力を具えていたりとかちょっと期待しちゃったんですけど……残念ですぅ」
しょんぼりとして小鈴さんは肩を落とした。
「私はエスパーでも未知の力を具えているでも無く、ただの人間ですよ」
言いながら、なんだかこんな会話、前にもしたなあと思う。
「ただの人間ですかぁ……残念。あ、そうそう。知加子様は客間にお通ししたので、そちらに行ってください~本来なら私が栞様をご案内するべきなのですが、書庫に戻す本が大量なのでご案内する暇が無くてぇ。申し訳ないですぅ」
「客間の場所は知っていますし、大丈夫ですよ。お仕事頑張ってください」
「はい! 小鈴ちゃん、頑張りますぅ!」
笑顔を浮かべ、テーブルに載せてあった本を再び両手で持ち上げる小鈴さん。
「それでは、失礼しますぅ~」
挨拶をして、小鈴さんは書庫へと歩いていった。本はどれも分厚い上に先程ざっと数えても十冊くらいはあったけれど、それを持っていてもふらふらせずに歩いている。本当に力持ちなんだなあと思った。戦えるくらいだし、筋肉も結構あるのだろう。平気そうなのも納得だった。
客間の前に行き着く。コンコンとノックをする。
「はい。栞?」
扉を隔てた向こう側から知加子さんの声がした。
「そうです。入っても宜しいですか?」
「どうぞ」
返事を聞いてから、私は「失礼します」と言って両開きの片方を開け入室する。私服姿の知加子さんがソファーに座っているのが見えた。
「こんにちは、知加子さん。風邪はもう完治したんですか?」
扉を静かに閉め、知加子さんの方へと歩を進める。
「うん。おかげですっかり元気になったよ。ありがとう」
その言葉通り知加子さんは顔色も良く元気そうだった。先日、私が絆創膏を貼った頬には既に絆創膏は勿論、傷も無い。元気な知加子さんの姿を目にすることが出来て、ほっとした気持ちになる。
「よかったです。知加子さんがお元気になられて」
言ってから、知加子さんの座っているソファーの向かいに配置された、もう一つのソファーに座る。テーブルを挟んで私の目の前に居る知加子さんの近くには、少し大きめの紙袋があった。
「で、お礼なんだけどさ。栞って、どら焼きは食べられる?」
「どら焼き……? ああ! あの丸い生地にあんこが入っているという和菓子ですね。動画や写真で見たことがあります。実際に見たことは無いんですが」
「……ああ、うん。どら焼きはその認識で合ってるけど……もしかして、食べたこと無いの?」
途端に知加子さんが怪訝な表情をする。私の頬がちょっと熱くなっていく。
「お恥ずかしながら、そうなんです……」
「そ、そう。直接見たことも食べたことも無いのは予想外だったよ。私の叔母さんに、何かお礼の品に良い物はないかって訊いたら、おいしいどら焼きがあるって薦められて。そのどら焼きを今日はお礼の品として持って来たんだ。口に合うかは分からないけど」
知加子さんは紙袋の持ち手部分では無く袋部分を両手で掴み、私に差し出した。私も袋部分を両手で掴んで受け取る。袋の中を覗いてみると、大きな箱が入っていた。かなり量がありそうだ。私だけが食べるとどら焼きが可哀想だし、皆さんにも分けて差し上げたい。
「ありがとうございます。でも私一人だと多分食べ切れないと思うので、サンちゃんさんたちにもお裾分けしていいでしょうか?」
知加子さんへ目線を戻し、尋ねる。
「そのどら焼きはもう栞の物だから。好きにしていいよ」
「でしたら、そうさせていただきます」
紙袋を、中のどら焼きを傷付けないよう優しく、私が腰掛けているソファーの上へ一旦置いた。
知加子さんは、叔母様に訊いてお礼の品をどら焼きにしたと語っていた。もしかして知加子さんは叔母様とアパートに住んでいるんだろうか。ご両親の件も気になるし質問してみようか。
「知加子さんは叔母様と一緒に暮らしていらっしゃるんですか?」
「ああ。叔母さんと二人暮らしだよ」
「じゃあ、ご両親とは別居されているんですね」
「違うよ」
「え……」
きっぱりと否定され、私は一瞬言葉を失う。
「両親はもう居ない。数年前に事故で亡くなったんだ」
落ち着いた態度で話す知加子さん。
私はすぐに、訊いてはいけないことを訊いてしまったのだと気付く。
「……ごめんなさい」
知加子さんへ、謝罪する。
「気にしなくていいよ。もう、過ぎ去ったことだからね。……そうだ。栞にもう一つ話があったんだった。初めて逢った時、栞の名前をどこかで見た気がすると話しただろう?」
知加子さんは思い出したようにそう言った。急な話題転換に戸惑いつつも、私は答える。
「ま、まさか、どこで見たか分かったんですか?」
「その通りだよ。……言い難いんだけどね。栞にとって、大事なことなら伝えた方が良いだろう?」
こくりと、私は頷く。
「なら、言うよ。栞の名前を見た場所は──お墓、なんだ」
真剣な様子で、知加子さんは私に告げた。
自分でも不思議だったけれど、私はあまり驚いてはいなかった。
「両親のお墓参りをしに行った時に、偶然見掛けたんだ。栞の名前が刻まれたお墓を」
……私の名前が刻まれたお墓、か。考えてみれば当然だ。私はもう老女のはずなのだから。既に死んでいるかもしれないし、お墓があっても変じゃない。……でも、私のお墓なんて誰が? 同姓同名の可能性もまだあるけれど……。
「ごめん。嫌な気分になったよね」
知加子さんの申し訳なさそうな顔が視界に入り、慌てて口を開く。
「だ、大丈夫ですよ。……一応、そのお墓があった場所を教えていただけますか?」
「別に構わないけど……生憎、メモやペンを持ってきていなくてね」
「でしたら、私の部屋から取ってきますよ」
「悪いね。お願いするよ」
「分かりました」
私はソファーから立ち上がる。ついでに貰ったどら焼きも部屋に置いてこようと、紙袋を携えて客間から出た。
「また倒れたりしたら心配だから家まで送るなんて、やっぱり心配性だよね」
晴れの空の下。隣を歩いている知加子さんが、呆れたようにそう漏らす。
「だってまだ病み上がりでしょう? それに私、知加子さんともっとお話したかったんです」
知加子さんのことを横目で見遣って私は言う。
「私なんかと話しても楽しくないだろう……」
「そんなことありませんよ。知加子さんとお話して、知加子さんのことをもっと知ることが出来て、私はとても楽しいですよ」
これは本心だ。
知加子さんと初めて逢った時から、私は知加子さんのことが少し気になっていた。だけど初めて話して以降、ちゃんと会話をする機会が中々無かったのだ。だから、看病をしたことで沢山話す機会が増えて実は嬉しかった。
心配なのと、お話がしたいのとは別に、理由がもう一つある。看病をした日に知加子さんが言い掛けていた言葉──
『勿体無いとかそんなこと言われたって、私には前みたいに剣道を頑張る意味が無いんだ。……剣道を頑張る意味どころか、私に、は…………』
あの言葉の続きを、知りたいという理由だ。
「あの。看病した日に言い掛けていたことの続きを、お聞かせ願えますでしょうか?」
「言い掛けていたこと……」
前を向いたまま、知加子さんは口をつぐむ。
知加子さんの横顔を見る。歩く振動で空色の短髪が揺れていた。
「ねえ。栞の生きる意味って何だい?」
「生きる意味、ですか?」
突然の問い掛けに困惑する。私の質問の答えになっていない……と思いながらも、知加子さんの質問に返答する。
「私は……私が生きていることで何かを得る人が居るならば、その人のために生きてみようと、そう思っています。なので、“誰かのために”が生きる意味、でしょうか」
「……誰かのために、ね」
意味有り気に呟くのを聞いて、私はまずい発言をしてしまったのかと不安になる。
「いけませんか……?」
「そんなことはないよ。誰かのため、それも立派な生きる意味だ。人の生きる意味を他人が否定する権利なんてあるはずもない。人は生きる意味があってこそ生きていける。人の生きる意味を否定するのは、その人に死ねと言っているようなものだよ」
突然、饒舌になる知加子さん。生きる意味について何か思う所があるのか。とりあえず私がまずい発言をした訳では無さそうだった。
「逆にお訊きしますが、知加子さんの生きる意味は何なんですか?」
「私は……戦うこと、だろうか」
「戦うことって、それじゃあ戦いが終わったらどうするんですか……?」
「そうだね……死んじゃおうかな」
「えっ」
「ふふっ。冗談だよ、じょーだん」
「わ、笑えない冗談はやめてください……」
「ごめんごめん」
いたずらっぽく笑う知加子さんに、私はなんだか嬉しくなる。知加子さんは笑顔の時が少ないから、こうして笑う所はレアなのだ。
知加子さんは戦うことが生きる意味。だったら、戦いが終結してしまえば知加子さんの生きる意味は失われる。知加子さんが言ったように「人は生きる意味があってこそ生きていける」なら、戦いが終結したら知加子さんは……。
まだ知加子さんとは出逢ったばかりだけど、いい人だと思っている。いい人だと思っているからこそ、知加子さんのことを知りたいと思う。知るためには、知加子さんには生きていてもらわなくてはならない。死なれては困る。
そこで私は自己嫌悪する。私、自分のことばかり考えてる。こういう所が私の性格の悪い所だ。
……それでも、どうしても、知加子さんに生きていてほしいという気持ちにだけは嘘は吐けなかった。
「知加子さん。宜しければ私と、生きる意味探しをしませんか?」
「は? 生きる意味探し?」
いきなりの私の提案に、知加子さんは素っ頓狂な声を出す。
「知加子さんは戦いが終わったら生きる意味が無くなってしまうのでしょう? 今の内にもう一つ生きる意味を探しておけば、困ることも無いんじゃないかと考えまして」
私は嘘を吐く。馬鹿正直に「私のために生きていてほしいので生きる意味を探すのをお手伝いします」とか伝えたら嫌われてしまうだろうし。ずるいな、私。……まあ、今更か。
「ふうん……生きる意味探しって、具体的に何をするんだい?」
「そうですね……」
そもそも生きる意味って何だろう。いや、それ以前に、どうして人間は生きるのだろう。最後に死へ至る事は決定されているのに。この世でしたいことやなりたいものがあるから、とか? 私にもなりたいものが無い訳じゃないけど……。あの四人の女の子たちみたいになりたいという夢は、私にもある。……夢。そうか。夢こそが人間の生きる意味に於いて大きな割合を占めているのか。だったら、知加子さんにも夢があれば。
戦いが終わった後、知加子さんには生きる意味が無くなってしまうから、きっと夢も無い……のだと思う。それじゃあ、夢になるくらいに知加子さんがしたいことやなりたいものを見つければいいのでは。でも、見つけるって言ってもどうすれば──
「……あ」
私は、良いアイデアを閃く。この方法なら、もしかしたら。
土曜日。お昼過ぎに玉谷家を訪問した私と知加子さんは、楓さんによって楓さんの自室へと案内された。
「私たちのしたいことか、なりたいものを教えてほしい?」
テーブルを挟んで、向かいのカーペット上に敷かれた座布団に足を崩して座っている楓さんが、私へ訊き返す。
「はい。これが夢! と思うくらいにしたいことかなりたいものを教えてほしいんです」
同じく正座をして座布団に座る私はそう答える。
「夢ってちょっとスケール大きいなあ、趣味じゃ駄目なのかな~?」
楓さんが座る位置の近くに配置されたベッドに座って、クッションを抱えている芭蕉さんが質問した。芭蕉さんはお休みの日はよく楓さんと遊んでいるため、夏休み中の今日も玉谷家に遊びに来ていたようだ。
「趣味……そういえば、趣味と呼べるようなものが私には無いな」
私の隣にある座布団へ腰を下ろしている知加子さんが呟いた。
「嘘!? 知加子先輩、無趣味なんですか!? じゃあ家に帰ったら何してるんですか?」
余程驚いたのか楓さんはテーブルに両手を付いて身を乗り出し、知加子さんにずいっと顔を近付ける。知加子さんは全く動じない。
「勉強かな……」
そのまま楓さんの質問に返答する知加子さん。
「だからちかちか先輩って頭良いんですね~勉強が趣味なんですか~?」
「趣味と言うか、勉強くらいしかすることが無いから勉強してるよ」
知加子さんは芭蕉さんに視線を向けて言う。
「それ、多分趣味じゃないような……よし、分かりました!」
ばっと楓さんが立ち上がる。立ち上がった楓さんを、私達は見上げる。
「知加子先輩の趣味、見つけましょう! とりあえず……ゲームとかどうですか?」
知加子さんを見て、楓さんは勢い良く提案する。
「ゲーム……? 囲碁や将棋ならやったことはあるよ」
「私もトランプや花札でしたら……」
「……えーっと。二人とも、アナログ派なんですね~」
何故だか芭蕉さんのその発言は、大分言葉を選んだような感じがした。
ゲームって、そういうのじゃないんだろうか。昔よく暁と遊んでいたから詳しい方だと思っていたのだが、そうではなかったみたいだ……。
「もう、二人とも違う! 持ってくるから少し待ってて!」
楓さんが室内に置かれた棚へと歩いていき、棚に仕舞われた薄い本のような物を手に取る。何かをやっているようだが、楓さんの背中に隠れて全貌は分からない。私が不思議に思っている間に、楓さんはまたテーブルの所へ戻ってくる。
「私が言ってるゲームっていうのは、こういうのです!」
そして差し出されたのは──小さな、SDカードのような物だった。
これが、ゲーム? 私は、首を傾げた。
楓さんの説明によると、SDカードのような物にはゲームのデータが入っており、専用のゲームをする機械……ゲーム機に差し込むと、そのゲーム機でゲームをする事が可能になるらしかった。
説明を聞いても信用していない様子の知加子さんに対し、楓さんは「実際にやって見せてあげます」と自信満々に実演してくれた。楓さんが実演したのを目にした知加子さんは「嘘ではなかったようだね」と謝っていた。
その後、知加子さんもそのゲームをすることになったのだが──
「つ、強すぎる……」
「かえかえ~大丈夫~?」
疲れ果て俯せになってカーペット上に倒れている楓さんと、楓さんへ寄り添い楓さんのことを心配そうに見つめる芭蕉さん。
「もう終わりなのかい? まだ二十七回目なのに」
ゲーム機のコントローラーを握っている知加子さんは、平然としていて「まだまだやり足りない」といった様子だった。
知加子さんの前にある、テレビ台に載せられた薄型テレビの大きな画面にはWINとLOSEの二つの文字が並んでいる。WINが知加子さん、LOSEが楓さんだ。
私は皆さんが遊んでいる所を眺めていただけだったけれど、眺めているだけでも充分楽しかった。
ゲームのジャンルは音楽ゲーム、略称は音ゲー。流れてくるリズムアイコンに対応したボタンを音楽に合わせて押すゲーム。タイミングぴったりに押すとPerfectになり、少し外すとGreat、それ以外にもGood、Missがある。PerfectかGreatだとコンボが繋がり、最後までコンボが続くとフルコンボになる。そして、スコアという得点のような物があり、音ゲーをやっているとスコアが稼げる……というゲームだと楓さんに説明してもらった。
最初は知加子さんが一人で音ゲーをプレイして、知加子さんをみんなで応援していた。しかし途中で「対戦をしてみたい」と知加子さんが言ったため、楓さんとスコアを競う対戦をすることになり──ここまで知加子さんは全戦全勝、楓さんは全戦全敗しているのだった。
「知加子先輩……なんでさっき始めたばかりなのにそんなに上手いんですか……?」
休んで回復したのだろうか。楓さんが起き上がる。楓さんは、まだげっそりとした表情をしていた。
「さあ? 昔から何でも出来る方だったから、それでかもしれないね」
テレビの方から楓さんの居る方へ、知加子さんが体を向ける。
「う、うわ~嫌味ですかそれ……」
「嫌味のつもりは無いけど……気を悪くしたなら、ごめん」
知加子さんは本当に嫌味のつもりは無かったらしく申し訳なさそうに謝る。謝罪されるとは考えていなかったのか、楓さんがぎょっとする。
「そ、そんな。謝らなくていいですよ~負けてばかりでしたけど、楽しかったですから」
「そっか。私も久しぶりに楽しかったよ。ありがとう、楓」
にっこりと微笑む知加子さんを見た楓さんは、何故か項垂れてしまう。
「な、なんか人間としても負けた気がする……」
「大丈夫だよ~ゲームでも人間としても負けても、私はかえかえのこと大好きだから~」
楓さんの頭を笑顔で芭蕉さんは撫でる。……人間として負けてる所は否定しないんだろうか。
そうだ。知加子さんに訊きに行かないと。私は座っている姿勢から膝立ちになって移動し、知加子さんの側に向かう。
「ゲームは趣味になりそうですか?」
隣に座りながら話し掛けると、知加子さんは握っていたコントローラーを膝の上に置く。
「そうだね……楽しかったけど、ちょっと簡単すぎたかな。最高難易度の曲もフルコンボしてしまったし……」
「そ、そうですか……でしたら、次は幸恵さんに訊きに行ってみましょうか」
「うん。幸恵の家に行くので、構わないよ。でも……よかったのかい? 最初は夢について訊くという話だったのに、趣味へ話が逸れてしまったけれど」
「ああ、それでしたら大丈夫ですよ。趣味が夢になるというのもよく耳にしますし、大きな違いは無いかと思います」
「んー……まあ、確かにそうかもね。じゃあ、とりあえず趣味について幸恵にも訊きに行こう」
そう答えてから、知加子さんはテレビ画面に視線を戻す。まだ画面にはWINとLOSEの文字が表示されている。
「……またか」
ため息混じりの呟きが私の耳に届く。知加子さんの瞳には、WINの文字が映っていた。
「わ、私の趣味を教えてほしい……?」
幸恵さんの部屋に困惑の色が滲む声が響いた。
テーブルを隔てて、私達の目前で座布団に座る幸恵さんが戸惑った表情を浮かべている。先程の楓さんと同じ反応だ。まあ普通、家に訪ねて来られていきなり「したいことか、なりたいものを教えてほしい」とか「趣味を教えてほしい」とお願いされたらそういう反応になるだろう。
「教えていただけますか?」
「いいけど……わ、笑わないって約束してくれるかな?」
「勿論です」
「……そ、それじゃあちょっと待っててね」
幸恵さんは立ち上がって部屋の隅に配置された棚へ身を運ぶ。そして、棚の扉を開けて何かを探し始める。
「幸恵先輩の家に来るの、これで二回目だね」
「だね~相変わらず綺麗なお部屋~」
楓さんと芭蕉さんが、室内を歩きながら話している。
「……ねえ。さっきから訊こうと思ってたんだけど、どうして楓と芭蕉までついてきてるんだい……?」
私の横の座布団に座る知加子さんが、耳に囁いてくる。
「面白そうだから一緒に行きたいとお二人が仰って……申し訳ありません、勝手に承諾してしまって」
「いや、まあいいけど……」
「待たせちゃってごめんね。デッキを選ぶのに手間取っちゃって」
声のした方を向く。幸恵さんが小さなケースと丸めたポスターを両腕に抱え、再び私達の前に座った。
「それで、私の趣味なんだけど……」
ケース二個とポスター一個をテーブル上に並べる幸恵さん。ケースにはどちらも可愛いイラストが描かれていた。
幸恵さんがケースを一個手に取り、蓋を開けて中身を出す。
「カードゲームって言うんだ。知ってるかな?」
ケースの中身を私達に見せる幸恵さん。それは、ケースと同じように可愛いイラストが描かれたカードの束だった。
「カードゲームって、トランプや花札のような物ですか?」
「似てるけど少し違うかな。えっと、やりながら説明した方が良いからとりあえずやってみようか」
そう口にしてから、幸恵さんはポスターをテーブル上へ広げる。ポスターにはイラストは描かれていなかったが、代わりに線や文字が書かれていた。
「これはプレイシートって名前で、カードゲームをするのに必要なんだよ」
「ポスターじゃなかったのか……」
知加子さんが私の言いたいことを代弁してくれた。
「カードゲームは二人でやるゲームだから、まずは誰が私の対戦相手をするか決めてほしいんだけど……」
「あ、じゃあ私がやるよ」
「……ち、知加子ちゃんだね。ちょっと緊張しちゃうな……」
「同学年なんだし、緊張しなくても大丈夫だよ。幸恵」
「そ、それはそうなんだけど。戦い以外であんまり会話すること無かったし、こうして話すのは緊張しちゃって」
「なら、これから沢山話して慣れていけばいいさ。そうだろう?」
「う、うん……ありがとう、知加子ちゃん」
照れながらも、嬉しそうに幸恵さんは言葉を返した。
それから知加子さんと幸恵さんは、仲が良さそうにカードゲームを始める。
「知加子先輩って、ああいう所あるよねー……」
楓さんの冷めた声が後ろから聞こえた。
顔を移動させると、いつの間にか楓さんと芭蕉さんが私の後ろに腰を下ろしていた。
「この前、他のクラスの女の子が~ちかちか先輩に転びそうになった時に助けてもらって、傷が付いたら大変だから注意してね……って声を掛けられちゃったって喜んで話してたよ~」
「わ~その女の子可哀想……」
そんな二人の会話を耳にして私は思う。知加子さんのような人を、所謂「たらし」と呼ぶのだと……。
勝負はこの一幕で決着する。まだカードが引かれていないのに、私はそう確信してしまった。その理由は多分……知加子さんが、物凄くラスボスぽかったからだと思う。ちなみにラスボスというのはゲームなどで最後に登場する敵キャラ=ラストボスの略称だと、先程楓さんに教えてもらった。
「そろそろ、終わりかな」
手札のカードを片手に持った知加子さんが静かにそう告げた。
「しょ、勝負は最後まで分からないよ」
同じく手札のカードを片手に持った幸恵さんが、珍しく強気に反論する。その姿はまるで、物語に登場する主人公キャラのようであった。
「幸恵も分かっているだろう? 自分が追い詰められているって」
「……そうだね。分かってるよ。でも私は諦めたくない。だから、諦めない」
幸恵さんはしっかりと知加子さんを見つめる。そんな幸恵さんを、知加子さんは冷たい目で見据える。
「懐かしいね。私にも、幸恵のように必死に頑張っていた頃があったよ。……今は、その必要は無くなってしまったけどね」
知加子さんが空いている方の片手で、テーブルに載せられたデッキ──山札からカードを一枚引く。引いたカードへ、知加子さんはつまらなそうな視線を送った。
「……女神アテナを
「……っ! そんな……っ」
幸恵さんの反応で理解する。女神アテナのカードは、幸恵さんにとって引いてほしくないカードだったんだ。
そして──勝負は私の予想通りこの一幕で決した。勝者は、知加子さんだ。
「……まさかカードゲームを始めて一時間の知加子ちゃんが私に勝つだなんて、驚いちゃった。良いファイトをありがとう」
「こちらこそ」
互いに清々しい表情でお礼の言葉を交わし、幸恵さんと知加子さんの二人は固く握手をした──
「……これ、カードゲームだよね?」
楓さんのその声で、私は漸く我に返る。
お二人のシリアスな雰囲気にすっかり引き込まれてしまったが、そういえばこれ、カードゲームだ……。
「かえかえ~カードゲームでも戦いは戦い、人間と人間の真剣勝負なんだよ~」
「そ、そっか……! カードゲームでも戦いは戦い、私たちが敵と戦ってるのと同じなんだね!」
芭蕉さんの言葉に、楓さんは納得したみたいだった。
私も芭蕉さんの言葉には同意だ。カードゲームでも戦いは戦い。まあ、命を賭けている点では皆さんの宝石に取り憑かれた敵との戦いとは異なるかもしれないけど……。
そこで、私は考えてしまう。こんな風に敵ともゲームで戦う事が可能であれば危険な戦いなどしなくても済むのに、と。敵は凶暴化しているから無理なのだが。
「暗い顔をしてどうしたんだい?」
ファイトを終えたばかりの知加子さんが私に話し掛けてくる。
「あ、その……敵ともゲームで戦えたら、危険な戦いをしなくていいのになと考えてしまいまして」
「……もしかして、私たちを心配してくれてるのかい?」
「と、当然ですよ。皆さんは私の……大切なお友達ですから。とても心配です」
躊躇いつつも、私はそう答える。
「大丈夫だよ。もうすぐ心配する必要は無くなる。残る宝石はあと二個なんだし。……だからこそ、私も焦っているんだけどね」
「あ……」
盗まれた宝石は全部で十二個。その内、十個はもう取り返している。あと二個取り返せば戦いは終焉を迎える。……知加子さんの生きる意味も、失われる。
「……カードゲームは、どうですか? 趣味に、なりそうですか?」
「うーん……最初は楽しかったんだけどね。いつもこうなんだ。最初は楽しいけど、すぐに楽しさが消えてしまう。何でも出来るというのも困り物だよ」
語る知加子さんの声は、些か悲しそうだった。
私は、先程玉谷家でゲームをした時のことを思い出す。
『……またか』
あの知加子さんの呟きは、そういう意味だったのだ。
知加子さんは何でもすぐに出来てしまう。だけど、ならどうして知加子さんは、あんなにトロフィーや賞状を貰うまで剣道を続けていたんだろう。剣道をやっていた理由が、他に何かあるのか。
そう思考していると、一つの棚が目に入る。幸恵さんがカードゲームのプレイシートなどを持ってきたのとは違う棚。棚は三段になっており、一段目にはお守りが飾られている。あのお守りは確か……以前幸恵さんに勉強を教えていた時、幸恵さんが芭蕉さんから貰っていたお守りだ。大事そうに飾ってあるのがなんとも幸恵さんらしい。
そしてもう一つ。棚には沢山の本が並べられていた。本……そうだ。今度はゲームではない物で試してみれば良いのではないか。五戸家には書庫がある。そこで読書をしてみるというのはどうだろう。
私は早速、皆さんに五戸家に行って読書をしようと提案するのだった。
五戸家に来た私達は、書庫へ足を運ぶ。
サンちゃんさんと万鈴さんと小鈴さんにも趣味を訊けたらと思っていたのだが、全員出掛けていてそれは叶わなかった。朝にはもう三人とも居なかったので今日は一度も三人の姿を確認出来ていない。こんなことは今まで無かったので心配だけれど、きっと明日には帰ってくるだろう。
私が扉を開いて、皆さんを書庫の中へ招き入れる。皆さんは書庫に入るのは初めてらしく、書庫の広さと本の多さに驚いていた。
「流石五戸カンパニーを経営する五戸家の邸宅……大企業の名は伊達じゃないね」
普段はあまり表情を変えない知加子さんも、びっくりした表情で書庫内を眺めている。
「ねえしおりん~私たちも本読んでいいの~?」
「ええ。書庫は好きな時に使って大丈夫とサンちゃんさんから許可も取っていますので」
「わ~い、じゃあ沢山読もう~」
私の言葉で、芭蕉さんはほわ~っと笑顔になる。
「芭蕉さんは読書がお好きなんですか?」
「好きだよ~他にもタイピングゲームとか好き~一番はかえかえと遊ぶことだけどね~」
そこまで言ってから、芭蕉さんは「あ」と思い出したように発して、私へ顔を近付けた。
「……い、今の楓には言わないでね」
恥ずかしそうに小声で私にお願いする芭蕉さん。そんな芭蕉さんの姿は、やっぱり童話の中に登場するお姫様のようだった。
「はい。絶対に言ったりしませんよ」
「ぜ、絶対だからね……?」
「芭蕉~こっちに芭蕉の好きそうな本あったよ~」
タイミングが良いのか悪いのか、遠くの方から楓さんが芭蕉さんを呼んだ。芭蕉さんはあたふたしながら楓さんの方を見る。
「ほ、ほんと~? 今行くよ~」
短く返事をして、芭蕉さんはもう一度私へ向き直る。
「そ、それじゃ、お願いね」
念を押すように言い残し、芭蕉さんは楓さんの下へと駆けて行った。私は芭蕉さんの後ろ姿を微笑んで見送る。
「し、栞ちゃん」
今度は幸恵さんが声を掛けてくる。幸恵さんも、楓さんと芭蕉さんに引っ張られて私達と一緒に来てくれたのだ。
「本の検索の仕方がよく分からないから、教えてくれるかな?」
「いいですよ。では、パソコンの所に行きましょう」
私はパソコンのあるテーブルを目指して歩き出す。幸恵さんも私の隣に並んで歩く。
「なんだか、こういうの楽しいね。みんなと一緒に色んなことするの。栞ちゃんはどう?」
「私は……」
楽しい。けど、同時に……私は少し煩わしさも感じていた。
こうして何人もの人と遊ぶと、いつもよりうるさいし、いつもより疲れる。ほんの些細なことだ。些細なことだけれど、まるで靴に小石が入ったまま歩くかのような煩わしさを感じる。
……駄目だ。こんな嫌な感情を抱くなど赦されない。抑えないと。
私は小さく息を吸ってから、言葉を紡ぐ。優しい私を、演じる。
「──私も、楽しいです」
知加子さんを除いた皆さんは、書庫にある椅子に座って好きな本を読んでいる。皆さん読書に夢中なのか、室内には静寂が満ちていた。
知加子さんは読む本が決まらないようで、今も本棚を見て回っている。
私は知加子さんが気になり、知加子さんの立っている場所へ歩いて近付く。
「栞」
私に気付いた知加子さんは、動きを停止する。
「読む本、決まりませんか?」
そう尋ねて、知加子さんの側で足を止めた。
「興味を引かれるような本が中々無くて……何か、おすすめの本はあるかな」
「おすすめですか……?」
考え始める私。本はよく読んでいたけど、知加子さんにおすすめ出来る本と言うと難しい。それに私の読んだ本がこの書庫にあるのか……いや、ある。一冊だけあるという事実は証明されている。
確か、丁度ここの本棚の辺りだったはず。私は棚に並んだ本の中から目当ての一冊を探し求める。視界に、忘れるはずもない背表紙が現れる。
ゆっくりと一冊の本を棚から取って、両手で持ち、知加子さんに差し出した。
「……英雄少女、ペルセウス?」
知加子さんが本のタイトルを読む。
私が知加子さんへと呈した本は、あの《英雄少女ペルセウス》のノベライズ本だった。
「ええと……昔、朝に放送していたアニメの小説版なんです。小さい子供向けの作品ですけど、とても面白くて……どうでしょう?」
「へえ……まさか栞からアニメの小説版の本をおすすめされるとは思わなかったよ」
「や、やっぱり変でしょうか? この歳にもなって小さい子供向けのアニメが好きだなんて……変ですよね」
「誰も変だなんて言っていないじゃないか。私は、変だなんてこれっぽっちも感じてないよ。何を好きになるかは個人の自由さ」
知加子さんは、英雄少女ペルセウスのノベライズ本を受け取る。
「折角栞がおすすめしてくれたから、この本を読むことにするよ。ありがとう」
私に背を向け、テーブルと椅子のある方へ歩いてゆく知加子さん。私は知加子さんの背中を見入る。
否定、しないでくれた。知加子さんで二人目だ。……一人目は、“
昔の出来事を思い返して懐かしい気持ちで心がいっぱいになる。五十年以上経っていても、この世界は私の知っている世界なのだと、英雄少女ペルセウスの本が証明してくれた気がした。
二時間経過して。立って書庫内の本棚を眺める私へと、本を読み終わった感想を伝えに来たらしい知加子さんが開口一番に発したのは、
「本当に子供向け?」
という問いだった。予想出来ていた反応だったが、本当に予想通りの反応が返ってきて、ちょっと気持ちいい。
「主人公が天界に行ってエンドって、小さい子が見たら泣くと思うんだけど……」
「で、でもほら、ペルセウスは戻ってくるかもしれないという希望は残されていますし。大丈夫ですよ」
「そ、そうだけど……」
かなりショックを受けたのか、力無く答える知加子さん。私も最初に読んだ時はショックだったが、なんとか時間が解決してくれた。……三ヶ月程の時間を要したけれど。
「最後は衝撃だったけど、お話はすごく面白かったよ」
「本当ですか? その感想が聞けてとても嬉しいです」
知加子さんのお気に召してよかったと、私は安堵する。
「ただ、一つ引っ掛かる部分があって……英雄少女ペルセウスって、メインは四人の少女たちだろう?」
「はい。それが何か……?」
「まるで私たちのようじゃないかい? 四人の少女たちが敵と戦うって」
「……確かに、そうですね」
あの日、私は、初めてショッピングモールで戦っている皆さんと邂逅して、皆さんは“四人の女の子たち”と同じだという思いを抱いた。
そういえば、皆さんは“四人の女の子たち”と話し方も似ている。楓さんはペルセウス、芭蕉さんはヘラクレス、幸恵さんはイアソン、知加子さんは……テセウス。偶然にしてはあまりにも用意されすぎている。まるで、“誰かが英雄少女ペルセウスと同じにしようとしている”ような違和感。そんなこと、ある訳がない。ある訳がないと分かってはいるけど……どうしても、心から不安の感情が離れてくれない。
「あの……失礼かもしれませんが、知加子さんって特徴的な話し方をなさっていますよね。どうして、なんですか?」
「私の話し方? ……言われてみれば、どうしてだろうね。考えたことも無かったな」
その返答に、私は困惑してしまう。
「な、何か理由があるんじゃないんですか?」
「……特に理由は無い、と思う。いつの間にかこういう話し方になっていて、こういう話し方の私を周りの人たちも普通に受け入れてたし……そう。昔は私、こういう話し方じゃなかったはず、なのに…………」
知加子さんは俯いて、不気味にぶつぶつと呟き始める。
「だ、大丈夫ですか?」
私の声で知加子さんは呟くのを止め、顔を上げた。
「あ、ああ、ごめん。本当に理由は無い……と言うより、自分でもどうしてこういう話し方をしてるのか分からなくて。だけど、この話し方で話さないといけない気がする。それだけは分かるんだ」
神妙な表情を浮かべ、真面目な声音で口にする知加子さん。知加子さんの言葉に嘘の色は混じっていないと、そう私には感ぜられた。
「まあ、どういう話し方をしてても私は私だよ。栞もそうだろう?」
普段の様子に戻った知加子さんは、私に訊いた。
「私も……そうなのでしょうか」
「きっとそうだよ。話し方をどうしようが、何があろうが、自分は自分にしかなれないからね」
「……そうですね」
知加子さんの言う通りだ。
私は“あの時”からずっと、誰に対しても敬語で話してきた。敬語で話さなければいけなかったし、敬語で話さないといけないと思った。それに、敬語で話していれば“四人の女の子たち”みたいに優しい人になれるような感覚がして、安心を得られたから。
だが、それは間違いだ。敬語で話そうが何をしようが、どうやったって私は私にしかなれない。私は──
「……ど、読書は趣味に、夢に、生きる意味になりそうですか?」
頭の中に浮かびそうになった言葉を慌てて沈めようとするように、私は発した。
突然私が質問したため、知加子さんはちょっと戸惑っていたが、すぐに平静を取り戻す。
「生きる意味になる程かは……微妙かな」
「微妙、ですか……」
「すまないね。こんなに探してくれてるのに……私は栞の望む答えを返すことが出来ない。生きる意味を見つけられない」
曇った表情になる知加子さん。その表情は本当に申し訳なさそうで、私に対しての心からの謝罪の気持ちが込められていた。
「……大丈夫ですよ」
私は知加子さんを安心させられるよう、優しい響きになるよう努める。
「今日が駄目でも、まだ時間はあります。戦いが終わるその日まで諦めずに頑張りましょう」
私が言うと、知加子さんの表情が緩む。さっきまでとは違う晴れやかな表情に変わってゆく。
「頑張る、か……頑張るだなんて、剣道をやってた時みたいだな」
知加子さんの呟きで、先程幸恵さんの部屋に居た時に抱いていた疑問を思い起こす。
「そういえば、知加子さんはどうして剣道を頑張っていたんですか? 知加子さんなら、剣道もすぐに出来るようになったのでは……?」
「剣道は──」
言い掛けて、知加子さんは口を閉じる。
僅かな沈黙が訪れた後、閉じていた知加子さんの口が再び開く。
「両親が、剣道の選手でね。私には好きなことをしていいと言ってくれたんだけど、私は両親のことが好きだったから。両親の喜ぶ姿のために剣道を頑張っていたんだよ。……私の“戦うこと”の前の生きる意味は、“剣道を頑張って両親の喜ぶ姿を見ること”だったんだ」
「ご両親が……そうだったんですね」
知加子さんの部屋にあった写真のご両親が剣道着を着ていたのは、剣道の選手だったから。ずっと抱いていた疑問達に答えが出て、合点がいく。
「……本当はね、生きる意味を見つけるのは殆ど諦めていたんだよ」
「え……?」
私は驚き、一瞬思考がぴたりと停止する。
「生きる意味が見つからなくても死んだら両親の所に行けるし、それもいいかもしれないと思ってさえいた。けど……栞が私のために頑張ってくれてるのを見ていたら、もう少し頑張ってみてもいいかなって、そんな風に考え始めてたんだ。だから──」
ゆっくりとした動作で、知加子さんが私に片手を差し伸べる。
「また一緒に、探してくれるかい?」
知加子さんは、私の顔色を窺うように、上目遣いで視線を送ってくる。
まさか知加子さんの方から私にお願いしてくるなんて予想していなかったので、私は呆然としてしまう。嬉しい言葉も頂いてしまったし……なんだかこそばゆい。
私は、落ち着こうと一度深呼吸してから、知加子さんのお願いに対しての答えを伝える。
「これからも、一緒に頑張りましょうね。知加子さん」
差し伸べられた知加子さんの片手を、私は両手で包み込む。私の答えを聞いた知加子さんは安心と喜びが同居しているような、「うん」という響きを口にしてから笑って、私の手を握り返してくれた。
皆さんが帰った後の書庫で、私は調べ物の続きを開始していた。
プレシアに関する本は大体読み終わってしまったし、書庫の本にこれ以上手掛かりは無さそうだと理解してはいるのだが、それでも本で調べる事を止める訳にはいかなかった。もしかしたら、手掛かりがあるかもしれない。見落としている情報があるかもしれない。そんな希望を、まだ捨てられずにいるのだ。
「あれ……?」
プレシアに関する書物がまとめられている棚を眺めていると、見覚えの無い背表紙があった。背表紙には《T-c:CB》という文字。……こんな本、あったかな。
そういえば、この前──
『こ、小鈴さん……その大量の本はどうなさったんですか?』
『これですかぁ? お嬢様から片付けるようにと仰せ付かっていて……今から書庫に持っていく所なんですぅ。まだ何十冊もあるんですよぉ』
と、私の部屋に来た小鈴さんが仰っていたはず。もしや小鈴さんが片付けた本の中の一冊……? プレシアについて書かれているかもしれないし、気になる。
服のポケットからスマホを出して時間を確認する。まだ就寝時刻の午後十一時までには余裕があった。
スマホを戻し、私は、本を棚から抜き取っていく。ハードカバーの本だった。開いて、立ったまま読み始める。
何枚かページを捲っていくと目次が現れた。いくつかの章に分けられているらしい。一章から順に目次を見ていく。不思議な本のタイトルだったからどんな内容か想像し難かったけれど、章タイトルを見る限り主な内容はプレシアの調査結果についてみたいだ。
ふと、気になる章が目に留まり、私の黙読も止まる。そこには、
《八章.プレシアの
とあった。
身体、調査……? もしや人間は、プレシアの捕獲に成功していたのだろうか。捕獲にでも成功していなければ、身体調査など出来るはずがない。
八章のページ数を視認して、下部に記載された番号を見ながら八章のページまで捲っていく。捲るのなんてすぐ終わる作業なのに、何故だかその時だけ時間の流れが酷くゆっくりとしたものへ変化したように思えた。
やがて、八章に行き着く。紙の上には淡々とした文で、身体調査の結果について述べられていた。
《◎身体調査の結果
その一:人間で言う五感がセーブされている。つまりは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚が、一定以上には感じない。
その二:傷の治る速度が人間よりも遥かに速い。
その三:人間のように必ず食事をしたり、排泄をしたり、睡眠を取る必要が無い。
その四:プレシアは不老で、人間で言う二十歳で肉体の成長は止まり、そこから肉体が老いることは無い。
その五:プレシアは不老だが不死ではなく、二千年という寿命がある。》
ドサッ、という音を立てて、持っていた本が床に落ちる。
私は、落ちた衝撃で閉じてしまった本へ視線を遣ったまま動けない。無意識に呼吸が浅くなる。書庫の明かりが照らす中で、その場に、立ち尽くす。
──昔から、体が丈夫だった。丈夫すぎる程に、丈夫だった。不注意で転んだり、包丁で指を切ったりしてもそこまで痛くなかった。火傷してもちょっと熱いくらいだった。首を絞められても少し圧迫感があるくらいで。それに、傷の治りも早かった。
あまりお腹が空くこともお腹が痛くなることも眠くなることも無かった。
おいしいとかまずいとか分からなかった。感じることが出来なかった。いつもただ、味がするだけだった。
流石にどこかおかしいのかもと、病院に行って検査してもらった時があった。検査結果は異常無しで、いくつもの病院で何回検査しても同じだった。
だから、自分の体に疑問を抱きながら、これまで過ごしてきた。答えの出ない疑問だと、諦めていた。でもたった今、答えが出ようとしていた。
私の体がおかしかったのは、私が五十年以上経っても若い姿のままこうして生きているのは、私が──
「プレシア、だから……なの?」
震えた声で発された私の問いに答える者は、ここには居なかった。
(八話完)
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