第七話 Victim of the goddess
どこからか猫の鳴き声が聞こえて、目を開けた。
むくりと起き上がる。近くに置いてあるはずのスマホを、片手を彷徨わせて探す。……あった。枕元のスマホを手に取る。画面を見て、時間を確認。午前四時五十分。朝食はまだ先だ。二度寝すると寝過ごしてしまいそうなので、私はもう起きる事にした。
朝食までどうしよう。散歩……と思ったが、ポツポツと小雨が窓を叩いている。この天気では散歩にはあまり向かないだろうか。とりあえず、顔を洗おう。
部屋から出て、丸いノブを握り片開きの扉を閉める。洗面所のある一階に行くため階段を目指して廊下を歩く。途中、閉じられた扉の隙間から明かりが漏れている部屋に気付いた。あれは……サンちゃんさんの部屋だ。もう起きてるのかな。少し気になった私は、サンちゃんさんの部屋を訪ねてみようと決めた。
扉の前に立ち、コンコンとノックをする。
「はい。どなたかしら?」
すぐに、扉越しにサンちゃんさんの声がした。
「栞です」
「……栞さん? ……ちょっとお待ちになって」
その言葉の後、室内から物音がするのが分かった。部屋を片付けたりしているのだろうか。
物音がしなくなる。目の前の扉──両開きの片方が室内側へ開き、ワンピースを着たサンちゃんさんが姿を現す。まだ髪のセットはされておらず、ほんの少しふわふわとした銀色の長髪がヘアゴムで緩く一つにまとめられていた。
「ごめんなさい。お待たせして」
「いいえ、大丈夫です。おはようございます。サンちゃんさん」
「おはようございます。栞さん。それで、何か御用かしら?」
言われて、私は返答に困ってしまう。数秒躊躇うが、正直に訪ねた理由を告げる。
「用、では無いんですが……こんな朝早くから明かりが点いていたので気になって。様子を見に来たんです」
「そうでしたの。ご心配をおかけしてしまってごめんなさい。
「ま、毎日午前四時に? どうしてですか?」
「色々やることがありまして……今も、朝の支度が一応終わったので勉強をしていたのです」
「そう、なんですね。ごめんなさい。勉強中にお邪魔してしまって」
「休憩しようと考えていた所でしたから。お気になさらず」
「でしたら良いのですが……大変ですね。五戸家のお仕事やお稽古だけでもお忙しいのに、学校の勉強まで……」
「これくらい、大したことではありませんわ。五戸家の人間として当然の務めです」
サンちゃんさんはあっさりと口にする。「当然」とサンちゃんさんは言うが、当然のことをやるのは難しいことだ。
「私は、すごいと思いますよ。いつも頑張っているサンちゃんさんのこと、尊敬します」
「……そ、そうかしら? 面と向かって褒められると照れますわね。……ありがとうございます」
照れくさそうに私から顔を背けるサンちゃんさん。こういう姿を目にすると、サンちゃんさんも人間なんだなあと感じる。当たり前だけど。
「あ……」
ふと私は、サンちゃんさんの目の下に隈が出来ているのを偶然発見した。やはり、寝不足なのだろう。
「……あの。サンちゃんさんってお休みの日はあるんですか?」
「お休み? ええと…………そうですわ。確か丁度明日は、二ヶ月に一度の一日お休みの日でした」
「に、二ヶ月に一度……」
どうやら、私の想像以上にハードな日々らしい。一日お休みの日が二ヶ月に一度とは……でも明日が一日お休みならば、明日はサンちゃんさんにいつもの恩返しをするチャンスなのでは。
もう何で恩返しするかは決めてある。ずっと、何か恩返ししたいと考えていたから。後はサンちゃんさんからのお許しを頂くだけだ。
「明日一日お休みということは、サンちゃんさんは明日一日お
「うーん……お休みと言っても書類の整理に勉強の予習復習もやらなければならないので、自由に使える時間は少ないのですわ」
「で、でも、お食事の時間はありますよね?」
「それはまあ、ありますけれど。何か?」
不思議そうな表情でサンちゃんさんが首を傾げる。私は、長い間サンちゃんさんのためにと温めていた言葉を心中から取り出し、口へと持っていく。
「実は……私の作った料理を、サンちゃんさんに食べてもらいたいんです」
「私に?」
「はい。サンちゃんさんにはとてもお世話になっていますから、ずっと恩返しをしたいと思っていて。私の作った料理がサンちゃんさんのお口に合うかは分かりませんが……」
「まあ……そうでしたの。嬉しいですわ。ぜひ、栞さんの作ったお料理を御馳走になりたいです」
にっこりとサンちゃんさんが微笑む。サンちゃんさんの笑顔と言葉で、私の心が喜びの光で満たされていく。
「本当ですか……! よかった……頑張ってお料理、作りますね! そうです、メニューは何が宜しいでしょうか?」
「メニューも私が決めていいんですの? それじゃあ……」
サンちゃんさんの唇が動くと同時に、私も口を開く。きっと、答えはもう決まっている。
「「甘口のカレー!」」
私とサンちゃんさんの声が、見事に重なった。
次の日のお昼、私はお借りした五戸家のキッチンでカレーを作っていた。朝と夜の食事はもう料理人の方が担当すると決まっているので、私がお昼の食事を担当すると決まった。
「栞様~何かお手伝いする事はありますかぁ?」
「……小鈴さん。本当にお手伝いは大丈夫なので、座っていてくれますか?」
これで三回目だろうか。小鈴さんは余程私のお手伝いがしたいらしく、ずっと私の隣で、私が調理している所をじーっと眺めている。こうして見られるのも居心地が良くないと言うか何と言うか……そんな事を思考しながら私はカレーの入った鍋へ視線を送る。
「小鈴。栞様のご迷惑でしょう。座りなさい」
私の後ろ、少し離れた場所にある椅子に腰掛け読書をしている万鈴さんが、小鈴さんに注意をする。お姉さんには逆らえないのか、小鈴さんは渋々万鈴さんの隣の椅子に腰を下ろした。
万鈴さんはいつも、サンちゃんさんが一日お休みの日のお昼ご飯を受け持っている。今回は私が代わりに昼食を任されているため、万鈴さんもお休みだ。使用人さんとしてのお仕事はお休みではないので、お二人とも使用人服だけれど。
「ごめんなさい、万鈴さん。急に私がお昼ご飯を作るだなんて言い出して……」
煮込まれている鍋からは目を逸らさずに、私は万鈴さんへ話し掛ける。
「いえ。栞様のおかげで私はゆっくり出来ますし、栞様のお料理にも興味がありますので。お気になさらず。ああ、カレーのお皿は右下の棚です」
私がカレーのお皿を探していると、まるで私の心を読んだように万鈴さんが透かさず置き場所を指示してくれた。こんな風に、万鈴さんは本を読みながらも私に食器や料理道具が仕舞ってある所を伝えてくれている。
「ありがとうございます。万鈴さんが場所を教えてくれて、本当に助かります」
「今暇で、キッチンのどこに何があるかを知っているのは、私しか居ませんからね。私の役割です」
「姉さんばっかりずるいですよぉ! 私も栞様のお手伝いしたい!」
黙っていた小鈴さんが不満気にそう言った。
「あなたは料理を作った事が無いのだから、場所は知らないでしょう」
「知ってますよぉ~だっていつも飴ちゃんをキッチンの……はっ」
失言をしてしまった、というような意味を孕んだ声が発される。しかし万鈴さんが聞き逃すはずがない。
「飴をキッチンの……何?」
「……あ、飴ちゃんをキッチンの棚から出してぇ……えっとぉ。お、お客様にお茶菓子をお出ししてますからぁ!」
「お茶菓子は決まった棚から取ってるだけなんだから、食器や料理道具の仕舞ってある棚までは分からないでしょう」
「そ、そうですよねぇ! えへへ……」
背後から私の耳へ届く万鈴さんと小鈴さんの会話が面白くて、思わず私の口から「ふふ」と小さな笑みがこぼれる。小鈴さん、上手く誤魔化せたみたいで良かった。
「よし、完成です」
煮込みが終わったカレーをお皿の上の白いご飯の隣に盛り付け、ついにカレーが出来上がる。カレーのお皿やスプーンなどを移動式の配膳台──ワゴンに載せ、万鈴さんと小鈴さんの方を振り返る。
「お二人とも。カレーが完成したので、食堂に行きましょう」
「はい。ほら、小鈴。行くわよ」
万鈴さんが読んでいた本を閉じ、椅子から立ち上がる。空いた椅子の上に本を載せる。
「はーい! 了解ですぅ!」
続いて小鈴さんも、待ってましたと言わんばかりに椅子から腰を上げた。
「早く食堂に向かわないとね。サンお嬢様が待ってるのだから」
サンちゃんさんの名前に、私の心に一つの不安が呼び覚まされる。
「そうですね。……サンちゃんさん、喜んでくれるでしょうか」
料理中は料理だけに集中していたのでこの不安にも見ないふりが出来たが、カレーが完成した今はそうもいかない。
「喜んでくれますよ。きっと」
万鈴さんが、優しく言葉をかけてくれる。その優しさは嘘偽りの無いものだと私には感じられた。
「万鈴さん……」
前々から、私は万鈴さんに嫌われているのかもしれないという不安を抱いていた。でも……今日万鈴さんは、突然の申し出にも関わらず私へ料理担当を譲ってくれた。調理中も私を助けてくれた。こうして私を励ましてくれた。万鈴さんはきっと──私のことを嫌ってなどいない。私が、勝手に勘違いをしていただけ。
「……万鈴さん。私、万鈴さんのことを誤解していました。ごめんなさい」
しっかりと万鈴さんを見つめ、私は謝罪する。
「…………? 何のことですか?」
不思議そうに、眼前の万鈴さんは私へ尋ねる。
「私、万鈴さんに嫌われてるのかと思っていて……でも、それは勘違いだと気が付いたんです。なので、謝罪をしなければと……」
「私が栞様を? どうしてそんな……」
「姉さんの言い方が悪かったんじゃないですかぁ? ほら。栞様のお手伝いを断る時だって──栞様は、手伝っていただかなくて結構ですので。とかキツく言ってましたしぃ」
通常より声を低くして万鈴さんの物真似をする小鈴さんを、万鈴さんは嫌そうな顔で見る。
「私の物真似をするのはやめなさい。でも……そうね。キツく言いすぎていたかもしれないわ。勘違いさせてしまって申し訳ありません、栞様」
「ま、万鈴さんが謝る必要ありませんよ。私が一人で勘違いしていただけですから」
慌ててそう返す私。しかし、万鈴さんの表情は暗い。
「いえ……実は他の方からも誤解されることが多いのです。私自身は注意しているつもりなのですが……」
「いっつも無表情ですからねぇ。私みたいにもっと可愛く笑えば、誤解されるのも減ると思いますよぉ」
「……さっきからうるさいわね。小鈴はいつもへらへら笑いすぎよ」
小鈴さんを射るような眼差しで睨む万鈴さん。小鈴さんは慣れているのか、特に怯む様子は無い。
「はいは~い。姉さんはほんと、ツンデレなんですからぁ」
「つん、でれ……?」
「あれぇ? 姉さん知らないんですかぁ?」
「知らないわ。どういう意味?」
「ふふん~調べてみれば分かりますよぉ~さ、行きましょう栞様ぁ」
「こ、小鈴さん。背中を押さないでください……カレーがこぼれちゃいますよ」
「…………?」
首を傾げる万鈴さんとご機嫌な小鈴さん。そんな仲良し姉妹の二人と共に、私はワゴンを押し進めながらサンちゃんさんが待つ食堂へと歩き始めるのだった。
食堂に到着すると、サンちゃんさんが椅子に腰掛け、タブレットを持って使用している姿が視界に入った。はたと、サンちゃんさんは動かしていた手を止めて私達へ目を向ける。物音で気付いたのだろうか。
「皆さん。ちょっと、遅かったですわね?」
「申し訳ありません、お嬢様。小鈴と少し話をしていて……」
「申し訳ありませんですぅ……」
「ご、ごめんなさい。サンちゃんさん」
万鈴さんが頭を下げ、それを見た小鈴さんも急いで頭を下げる。私もワゴンを止めて頭を下げた。
「そんなに謝らなくても大丈夫ですわ。さあ、頭を上げて。早くカレーを食べましょう。用意してくださる?」
「はい。かしこまりました」
「かしこまりましたぁ」
万鈴さんはテーブル上にある小さめのケースから食卓用の除菌ウェットタオルを一枚取り、テーブルを拭き始める。小鈴さんも万鈴さんを手伝ってテーブルを拭く。食堂のテーブルは長いので二人でやった方が効率が良いのだろう。私は二人がテーブルを拭き終わったのを確認してから、ワゴンからカレー、スプーン、おしぼりを順番に取っていき、テーブルへ配置してゆく。
「わあ……おいしそうですわ」
私の作ったカレーを見て、サンちゃんさんは瞳をキラキラと輝かせる。そんなサンちゃんさんの様子に、私は無意識に口元が緩んでしまう。
食事の準備が完了し、私達は全員椅子に座ってテーブルを囲む。普段は使用人である万鈴さんと小鈴さんは、私とサンちゃんさんの食事が終わってから料理を頂くのだが、今日はサンちゃんさんが「一緒に食べましょう」と提案してくれたので特別だ。
いただきますの挨拶をした後、皆さんがカレーを口にし始める。皆さんの反応が気になるので、私はカレーを食べずに皆さんの反応を待つ。
「おいしいです。栞様」
「初めて食べましたぁ、甘口のカレー! おいしいですぅ!」
「お、おいしいですか? お二人のお口に合ってよかったです」
万鈴さんと小鈴さんがおいしいと言ってくれて、私は安堵すると共に嬉しくなる。後は、サンちゃんさんにおいしいと感じてもらえれば完璧だ。
私はサンちゃんさんの方へ視線を移動させ、反応をじっと待つ。もぐもぐと、サンちゃんさんは私の作ったカレーを食べていた。
「ど、どうですか……? サンちゃんさん。おいしい、ですか?」
「…………」
サンちゃんさんは私の問いには答えず、スプーンを片手に持ったままカレーを見据えていた。もしかして、おいしくなかった……? どうしよう、どうしよう。ブランクがあるから充分に注意したつもりだったのに。調理時間を間違えてしまったのか、材料の配分を間違えてしまったのか、それとも他の理由か。私はぐるぐると失敗の原因を考察する。不安や焦りの感情と混ざって、まるで私の心はカレーを煮込む鍋のようだった。
「…………い」
「え?」
サンちゃんさんから何か発されたが、小さな声でよく聞き取れず、私は聞き返した。
「おいしい、ですわ。とても」
カレーを見つめたまま、サンちゃんさんは言った。ちょっと戸惑っているような声色ではあったけれど、おいしいと言ってもらえたのは事実だった。
「よ、よかったです……安心しました。黙っていらっしゃったので、お口に合わなかったのかと思いました」
よかった、本当に。今回カレーを作った一番の目的はサンちゃんさんへの恩返しだ。サンちゃんさんに喜んでいただけたなら、感慨無量だ。
「黙っていたのは……あまりにもおいしくて。つい黙ってしまったのですわ。……ありがとう、栞さん。こんなにおいしいカレーを作ってくれて」
サンちゃんさんはカレーから視線を外し、私に微笑んでくれた。まさかここまで褒めてもらえるとは考えていなかったので、私は照れてしまう。
「そ、そんな……私も、サンちゃんさんにそう言っていただけてとても嬉しいです。ありがとうございます」
「よかったですね。栞様」
「本当によかったですぅ! 恩返し作戦大成功ですねぇ、栞様ぁ」
万鈴さんと小鈴さんも食べる手を止め、恩返しの成功を祝福してくれる。私はお二人にも「ありがとうございます」と心からの感謝を伝えた。
「ほら、栞さん。栞さんもカレーを召し上がってくださいな」
「あっ、そうですね。すっかり忘れてました」
そうだった。まだ私は、自分の作ったカレーをちゃんと食べていないのだ。一応さっき少しだけ味見はしたけれど。目の前のテーブル上に載せられたスプーンを片手に持ち、カレーを掬う。
……もしかしたら、こんなにも喜びの感情に満たされている今ならば、私も。期待を膨らませ、掬ったカレーをゆっくりと口の中へ運び、食べる。
「…………」
カレーの味。そう。ただの、カレーの味だ。それ以外は何も感じない。いつもと、同じ。芭蕉さんの御家で御馳走になった時も、毎日五戸家でサンちゃんさんと一緒に食事をしている時も、同じだった。僅か数秒という時間で、私の淡い期待は打ち砕かれてしまった。
「栞さん、どうですの? ご自身で作ったカレーのお味は」
サンちゃんさんが私の感想を求めてくる。すぐに、いつもと同じ言葉を準備する。
「……とってもおいしいです」
私は作り笑いをして、そう答えるしかなかった。
食事の後片付けが終わって、私は万鈴さんと小鈴さんの二人と別れた。サンちゃんさんは食事が終わるや否や、自室に戻ってしまった。「一秒でも時間を無駄にしたくないのですわ」と、サンちゃんさんは仰っていた。
自分の部屋に行くため、私はキッチンと食堂のある一階から階段を上り、二階の廊下を歩く。サンちゃんさんの部屋の前を通ると、昨日の朝と同様に扉から明かりが漏れていた。
また、勉強をしているのだろうか。そういえば食堂に行った時にちらっと目に入ってしまったタブレットの画面には、歴史の問題らしき物が表示されていた。恐らくタブレットで勉強をしていたのだろう。料理を待つ間も勉強。とても努力しているのが分かる。だからこそ心配なのだ。真面目で、いつでも手を抜かない。優秀で、努力家で。まるで、“風花お姉様”を見ているようで。
サンちゃんさんは風花お姉様じゃない。それは理解しているつもりだ。でも、もしサンちゃんさんが風花お姉様のように何かを一人で抱え込んでいたら……。
「……うん」
私は、もう一度サンちゃんさんの部屋を訪ねてみる事にした。ご迷惑かもしれない。嫌われてしまうかもしれない。それでも私は、もう手遅れになるまで気付けないのは嫌なんだ。
部屋の扉の前に立つ。昨日立ち寄った時はそこまで緊張していなかったのに、今は妙に緊張してしまう。私は、震えている片手で、扉をノックした。
「栞です。サンちゃんさん」
発された声も、少し震えていた。サンちゃんさんに変に思われていないといいが。
「……栞さん? 今開けますわね」
パタパタという足音。カチャという音。今回は昨日よりも早く扉が開いた。片方の扉の向こう。室内から、サンちゃんさんが出てくる。
「どうなさったの? 栞さん」
微笑し、温かく私を出迎えてくれるサンちゃんさん。サンちゃんさんのおかげで、私の緊張が解されてゆく。
「えっと、その……サンちゃんさんが心配で、見に来てしまったんです」
緊張が解れたおかげか、声の震えも無くなっていた。
「心配って、どうして? 私、そんなに危なっかしいかしら」
「そういう意味ではなくて……サンちゃんさん、いつも頑張っていらっしゃるので。頑張りすぎてないかと、不安で」
「…………」
サンちゃんさんは、私から視線を外して黙ってしまう。
私、何かまずいことを口にしてしまっただろうか。はらはらしながらも、サンちゃんさんの言葉を待つ。
「……そう。そうですわね。私、ちょっと頑張りすぎてますわよね……」
ぶつぶつとサンちゃんさんが呟く。
「ねえ、栞さん」
サンちゃんさんが再度私に視線を向けた。
「は、はい」
「──少し私の部屋で、休んでいきませんこと?」
背後から鼻歌が流れてくる。サンちゃんさんの鼻歌だ。上機嫌で私の髪に触れて遊んでいる。今は多分、三つ編みを編んでいるんだと思う。ちょっと髪が引っ張られて痛いけど、まあサンちゃんさんが喜んでくれてるなら、それでいいかな。
「ふーんふふふんふふん……♪」
「サンちゃんさん、楽しそうですね」
「楽しいですわ! こうして、栞さんの髪を
「そんなに喜んでいただけて私も嬉しいです。これで、少しでもサンちゃんさんの疲れが取れると良いんですが……」
「疲れが取れるどころか、一ヶ月分くらいの元気が貰えますわよ?」
「そ、そうですか? それはよかったです」
本当に髪で遊ぶことが好きらしく、今までにないくらいはしゃいでいるのが分かった。私の作ったカレーで喜んでもらえて、私の髪で喜んでもらえて、今日は恩返しが沢山出来た。素晴らしい日だ。
「そういえば、前から栞さんにお尋ねしようと考えていたのですけど……」
「はい?」
「栞さんは、いつまで私の家に居るんですの?」
サンちゃんさんの質問に、固まる私。
いつか訊かれるとは予想していたが、ついにこの時が来てしまった。……なんて答えよう。私には他に帰る場所なんてもう無いし、お金も持っていないからサンちゃんさんの家から追い出されたらニートにホームレスがプラスされてしまう。せめて働ければいいが私の戸籍がどうなっているか分からないと働く事も出来ない。私は身分を証明する物も所持していない上に、姿も変わっているから自分で調べる事は出来なさそうだし。
そうだ。サンちゃんさんに戸籍がどうなっているかを調べてもらえば……いや、流石にサンちゃんさんでも無理か。個人情報だからなあ……。
「別に、私はいつまでも居てくださって構わないのですけどね」
「えっ?」
私は反射的に後ろを振り向こうとする。が、サンちゃんさんにがしっと両肩を掴まれて前──鏡台の鏡の方を向かされた。
「栞さん、急に動かないでくださいな! 大事な所なのですから……!!」
「す、すみませんっ!」
鬼気迫る声で注意され、私は大きな声で謝罪する。どうやらサンちゃんさんは髪の毛のことに関してはすごく真剣らしい。
「あ、あの。さっきの言葉って」
怖ず怖ずとサンちゃんさんへ問う。
「言った通りですわ。栞さんが居てくださって家は賑やかですし、私も嬉しいですもの。前にも申し上げたように一人くらい増えても何も変わりませんし。栞さんが宜しければ、ですけれど」
「それは有り難いお誘いですが……それでもせめて何かお手伝いさせていただかないと、申し訳ないです」
「…………お手伝い、ね……」
サンちゃんさんは鏡台の上に置いてあったヘアゴムを何本か手に取る。そして、先程まで目の前の鏡に映っていたサンちゃんさんの姿が消える。多分、私の髪をヘアゴムで束ねているんだと思う。私の髪が長いので屈まないといけないのだろう。
「なくはないですが、楽なお仕事ではありませんわよ」
ついさっきまでとは違う、落ち着いたトーンのサンちゃんさんの声が室内に伝わってゆく。
「だ、大丈夫です。こうして御家に居させていただいて、ご飯も食べさせていただいてますから。楽なお仕事でなくても、頑張ります」
「……栞さんがそう仰るのであれば、致し方ありませんわね」
再び鏡にサンちゃんさんの姿が映る。
「終わりましたわ。もう動いても問題ありませんわよ」
「は、はい」
私は座っていた椅子から立ち上がる。なんだか、こうして立つだけでも普段とは違う感覚がする。鏡に背中を向け、首を動かして私の背中が映った鏡に目を遣ると、私の後ろ髪は綺麗に二つに分けられ、それぞれが三つ編みにされていた。
「お可愛らしいですわ。まるでお姫様のようです」
「あ、ありがとうございます」
褒められたからか、頬の辺りが熱を帯びていくのを感じる。似合ってるかな、三つ編み。
「ですが。これではまだ完璧とは言えませんわ。という訳で、栞さん」
「へっ?」
これだけで終わりだと考えていた私は、つい間抜けな声を発してしまう。
「まずは、脱いでくださいますかしら? その後お体を触らせていただけると助かりますわ」
「…………え?」
思考が停止する私。そんな私とは対照的に、サンちゃんさんは和やかに、にっこりと笑っていた。
「……サンちゃんさん」
「何ですの?」
「いつまで私、この衣装を着ていればいいんでしょうか?」
椅子に座っている私は、少し離れた場所に居るサンちゃんさんへ問う。
ここは五戸家の空き部屋、つまり使用されていない部屋。と言っても掃除はきちんとされているので中は塵一つ無く綺麗だ。私は今まさに、この空き部屋でサンちゃんさんの撮影会の被写体となっている。
私の身に纏われている髪色と同じ薄いピンク色のドレスは、ひらひらしたレースやフリル、飾りが沢山で、スカートは立っても床に付いてしまいそうな程長い。ドレスでいつもより体が重いのに、髪飾りのティアラまで追加されたため頭も重い。おまけに化粧まで施される豪華仕様だ。
「あと十枚くらい撮ったらですわね。あ、次は別のドレスを着てもらいますのでそのおつもりで」
私の面前で、三脚に固定されたカメラを覗き込むサンちゃんさん。カシャ、カシャという音が連続して耳に届く。
「ま、まだ続けるんですか?」
「当然ですわ。楽なお仕事ではないと申し上げたでしょう?」
その言葉で心付く。サンちゃんさんが語っていた「お仕事」とはこういう意味だったのか。自分から手伝わせてほしいとお願いしたが、まさかこんな事になるとは……。
「ですが、私のスリーサイズを測るならそうと最初から言ってください……いきなり脱いでほしいとか体を触らせてほしいだなんてお願いされて驚きました」
「ごめんなさい。でもおかげでぴったりの素敵なドレスを見つけられましたわ。髪だけセットして終わりは勿体無いですもの。万鈴も、急に呼び出してごめんなさいね」
サンちゃんさんは近くに立っている万鈴さんに顔を移動させる。私も釣られて万鈴さんを見た。
「いいえ、丁度暇でしたので。……まさか私が栞様にドレスを着せてお化粧をする事になるとは思いも寄りませんでしたが」
「あはは……」
ですよね、と心の中で同意して苦笑いする。
「……あの。お嬢様は、ドレスをお召しにならないのですか?」
「私? 私は写真を撮らなければなりませんし、ドレスは飽きる程着てますもの。休日まで着たいという気持ちにはなりませんわ」
「なら、ドレス以外の衣装をお召しになれば宜しいのではないでしょうか? 例えば……だ、男装をなさってみるとか」
「男装を……? また随分突然ですわね。何故ですの?」
「それは…………こ、小鈴が前に話していたのです。近頃は男装をする女性が流行りなのだとか。栞様は姫のようなドレスをお召しになっていることですし、お嬢様は王子の衣装をお召しになるというのはいかがでしょうか」
「……ふうん。なるほど。写真にしても映えますし、良い考えかもしれませんわね。分かりました。私が男装をしましょう。栞さんもそれで良いかしら?」
サンちゃんさんが私へ視線を送ってくる。
男装……女性が男性の装いをするというものだったか。どんな感じなんだろう。私も気になるし、サンちゃんさんの男装はちょっと見てみたい。
「はい。大丈夫です。でも……そうなると、写真は誰が撮るんですか?」
「ご安心ください。私が撮ります」
万鈴さんは床に置いていた大きなバッグのチャックを開け始める。サンちゃんさんが呼び出した時から携えていた謎のバッグ。何が入っているんだろうと万鈴さんの手元を眺めていると、なんとその中から現れたのは──三脚。続いていかにも高級そうなカメラ。サンちゃんさんが使用していたカメラも高そうだったけれど、万鈴さんのカメラも負けず劣らずという感じがした。
黙々と、三脚とカメラをてきぱきと準備する万鈴さん。サンちゃんさんは、なんだか顔を引き攣らせている。
「万鈴……あなた、いつの間にそんなカメラを買っていたんですの? と言うか、私の三脚とカメラをそのまま使えばいいのに……」
「それは、ええと。やはり自分の物が一番、手に馴染みますので。あとこのカメラは小……ごほん。つい最近購入したのです」
「ふうん……?」
サンちゃんさんは訝し気な表情になるが、とりあえず納得したみたいだった。万鈴さんは何故かほっと息を吐く。
……万鈴さん、平常と様子が違う気がする。寡黙な方なのに今日は饒舌だし、三脚やカメラも予め用意したりして。もしや熱でもあるのだろうか。
「栞さん。私は衣装室に行って着替えてきますので、申し訳ないのですけど椅子に座ったままお待ちくださいな」
「は、はい」
私は慌てて返事をする。考え事をしていたので少しばかり反応が遅れてしまった。
サンちゃんさんは万鈴さんと一緒に部屋から退室していく。私の時と同じように、万鈴さんがサンちゃんさんの着替えをお手伝いするのだろう。
歩く万鈴さんを注視してみる。見た限りでは、特に変わった所は無い。やっぱり私の気のせいか。そう結論付け、頭の中から疑問を消し去った。
着替えが完了して戻ってきたサンちゃんさんを目にした私は、息を呑む。
私の目先には確かにサンちゃんさんが居る……居るはず、だ。そんな風に存在を疑ってしまいそうなのは、王子様の衣装があまりにも似合いすぎていて、目の前の人が五戸サンその人では無い気がしてしまうからだった。きらびやかなパンツスタイルの衣装を身に纏い、腰まであった長い髪は一つに束ねられ、頭上には金色の王冠が輝いている。男装の麗人ってこういう方のことを言うんだろうなあ……。
「栞さん?」
王子様に話し掛けられ、はっとする。……違う、王子様じゃない。私の前に居るのは王子様ではなく、王子様の衣装を着たサンちゃんさん。間違えてはならない。
「す、すみません……その、本当の王子様みたいで見惚れてしまって」
「あら、そうですの? 似合っているのかちょっと不安でしたけど、安心しましたわ」
艶やかに、目を細めて微笑むサンちゃんさん。王子様の衣装を着ているからか、ただ微笑むだけでも眩しい。このままの姿で出歩いたりなんてしたら数分の内にファンクラブが設立されてしまいそうだ。
「で、
サンちゃんさんは、椅子に座ってまだ若干呆けた状態の私から視線を外し、立ってカメラの調整をしている万鈴さんへ視線を投げ掛ける。
「そうですね……お嬢様はそのまま移動せずに、栞様はお立ちになって、それからお二人並んで立ってくださいますか」
「分かりましたわ」
「あ、はいっ」
漸く本来の調子が戻ってきた私は、ドレスの裾に注意しつつ椅子から立ち上がる。サンちゃんさんと隣同士に並ぶ。万鈴さんは私達の準備が出来たのを視認した後、写真を撮り始めた。
撮影されている途中、ちらりと横目でサンちゃんさんの顔を窺う。こうして改めて見ると、やっぱり綺麗だなあと惚れ惚れしてしまう。お嬢様のサンちゃんさんの時とは異なる美しさ。お嬢様の時と遜色無い、気品ある佇まい。きっと天性のものなのだと思う。……やっぱり私とは違うな。
「栞様、笑顔でお願いします」
万鈴さんがカメラを覗きながら言った。
いけない。撮影に集中しなければ。私は、カメラに向けて笑顔を作る。
パシャ、カシャ。次々にカメラから発される軽快な音。写真が何枚も撮られていく。
「お嬢様。ちょっと、栞様の方へお体を向けて、跪いてくださいますか」
「……? こうですの?」
言われた通りに、サンちゃんさんが私の方を向き、片膝を地に付けて跪く。
「そうです。そのままで……あ、栞様もお嬢様の方を向いてください」
私はサンちゃんさんの方を向く。
「お嬢様は片手を胸に当てて、もう片方の手で栞様の片手を取って、栞様のお顔を見つめてください」
「片手を胸に当てて……栞さん、失礼しますわね」
サンちゃんさんに優しく片手を取られる。私の顔を、
「良いです。とても素晴らしいです」
満足気な万鈴さんの声。どうやら万鈴さんはこの構図で写真が撮りたかったらしい。
「ええと……次はそのままのポーズで、お嬢様が栞様の手の甲にキスをする……?」
「えっ!?」
耳を疑う発言に、私は咄嗟に万鈴さんへぐるんと顔だけを移動させる。万鈴さんの片手には小さなメモがあった。私の視線に気付き、万鈴さんは珍しく取り乱した様子で、メモを背中に隠す。
「万鈴……あなた、何かを隠していませんこと?」
「……隠していることなんて、ありませんが」
「嘘おっしゃい。だったらその手に持っているメモはなんですの?」
サンちゃんさんは万鈴さんを片手の人差し指で指差す。どうやらサンちゃんさんも万鈴さんの握るメモに気付いていたらしい。
万鈴さんは目を逸らし、黙ってしまう。しかしすぐに、観念したように口を開いた。
「……申し訳ありません。実は……小鈴に頼まれたのです。栞様がドレスをお召しになるなら、お嬢様に男装をしていただいて、お二人のツーショットを撮ってきてほしいと……」
申し訳なさそうに打ち明ける万鈴さん。
私は、驚いていた。さっき万鈴さんの様子が変だと感じたのは気のせいではなかったのか。
「……道理で、何か様子がおかしかったのね」
「本当に申し訳ありません。罰は私が受けますので、小鈴はどうか……」
万鈴さんはサンちゃんさんに頭を下げる。いつの間にか立ち上がっていた私の隣のサンちゃんさんは、沈黙し、口に手を当てて思案する仕草をしていた。
二人を交互に見て、私はおろおろしてしまう。サンちゃんさん、怒ってるのかな。万鈴さんも小鈴さんもきっと悪気は無いはず。だから、サンちゃんさんも許してくれるといいのだが。
「…………はあ」
息を吐く音。音の主はサンちゃんさんだ。
「まあ、今回は許してあげますわ」
サンちゃんさんの表情は、穏やかだった。あまり怒ってはいないらしい。私はほっと緊張を解く。
「ありがとうございます。お嬢様。……栞様も、巻き込んでしまって申し訳ありません」
万鈴さんは私にも頭を下げる。
「頭を上げてください、万鈴さん。私なら大丈夫です。それに……男装のサンちゃんさんを見ることが出来て、私もちょっと嬉しかったですから」
「もう、栞さんたら……でも、私も楽しかったですわ」
表情の緩んだ私を瞳に映して、顔をほころばせるサンちゃんさん。頭を上げた万鈴さんは笑い合う私達に少々きょとんとしていたが、やがて安堵したように笑みを浮かべた。
結局、サンちゃんさんが「折角ですし、このまま撮影を続けましょう」と仰ったので、あの後も撮影は続行された。
サンちゃんさんと私の二人で撮ったり、私だけで撮ったり、サンちゃんさんだけで撮ったり……万鈴さんも加えて三人で撮ったりした。万鈴さんはあまり写真に写りたくないようだったが、サンちゃんさんに「先程の件のお詫びに」と言われ、仕方無く撮られていた。
そして──撮影会終了後。私とサンちゃんさんは元々着ていた服に着替えて、椅子に座り休息を取っていた。万鈴さんは撮った写真をプリントしに機械のある部屋に行っているので今は居ない。先刻まであったカメラや三脚は片付けてしまったため、些か室内に寂しさを感じた。
「流石にあれだけ撮ったり撮られたりすると疲れますわね……栞さんもお疲れでしょう?」
私の隣の椅子に腰掛けているサンちゃんさんが、気遣うような声色で尋ねる。
「昔から体力がある方なのでそこまでは……私は疲れよりも、恥ずかしさの方が強いです」
今はもう着用していないが、ついさっきまでドレスを着ていた事を思い返すと面映ゆくなってしまう。
私の居た家──桜川家は洋風よりも和風な家だったから、着物の方が着る機会が多かった。なので、ドレスは着慣れていなかったのだ。
「あら。似合っていたのですから恥ずかしがる必要なんて無いじゃありませんの」
「そ、そうは言ってもですね……恥ずかしいものは恥ずかしいです。サンちゃんさんは、いつもと違う格好をしていても平気そうで、堂々としていてすごいですね……」
「……平気そうで、堂々としているように見えましたの?」
何故か目をぱちくりさせるサンちゃんさん。
「はい。……違うんですか?」
私が質問すると、サンちゃんさんは瞳を伏せた。
「……実は私、男装するのが怖かったんですの」
「え……?」
男装するのが、怖い? 私は脳内でサンちゃんさんの言葉を繰り返す。「男装に何か怖がるような事が?」という疑問と、「五戸サンという存在に怖いなんて感覚があったのか」という驚愕が、私の心中を漂う。
「どうして、ですか?」
躊躇いつつも私は訊く。サンちゃんさんは、答えない。
「……そうですわね。栞さんには、話しておくべきかもしれません。聞いてくださいますかしら?」
そう言うサンちゃんさんは神妙な顔をしていた。……私はこくりと頷く。私が頷いたのを確認してから、サンちゃんさんは語り始める。
「──私の祖父は、女性を優先する方でしたの。レディーファーストと言えば聞こえは良いですけれど、祖父のそれははっきり申し上げて女尊男卑とも呼べるものでした」
女尊男卑。女性を尊び男性を卑しめると書く。……逆だな、と最初に思った。私のお父様は、男尊女卑をする傾向にあったのだ。男性が女性よりも優れた存在だと考えているから……では無く、“女性が信じられない”からこそ女性をぞんざいに扱っている感じだったが。
「お爺様は、女性を優先しすぎるあまり、息子である私のお父様に厳しく当たっていましたわ。お父様はそのせいで、お爺様とは逆に女性を嫌いになってしまったのです」
「……まさか、サンちゃんさんのことも?」
「ええ。お父様は私に厳しかったですわ。どれだけ努力しても認めてはくださいませんでしたし、嘲罵される事も数多くありました。でも、私はお父様のことを嫌いにはなれなかった。……いえ、嫌いになってはいけないと思いましたわ」
サンちゃんさんは強い口調で言い直す。
私達の前の、少し離れた所にある、換気をするために開けられた窓から弱い風が入り込んでくる。視界の隅にある外の景色は、太陽が沈みかけ、夕暮れ時へと時を進めていた。
「……私がお父様を嫌いになって男性を差別するようになってしまえば、私が差別した男性が女性を差別し、その女性が男性を差別し……終わり無きループが生み出されてしまう。ですから、私は決めたのです」
突然、橙色の光が部屋中を染め上げる。まだ電気の点いていない室内を照らす唯一の光。太陽から注ぐ光。それは同じく太陽の名を持つ少女を照らし、彼女の決意を神が祝福しているようでもあった。
「男性も女性も、人種が違くとも、絶対に差別はしないと。全ての人間を私は平等に見ますわ。そして私のその生き方が差別をする人たちを変えていき、いずれはお父様の考えも変えていけたらと……」
「サンちゃんさん……」
「……でも、差別しないと固く誓っていても私はずっと不安でした」
途端に、サンちゃんさんの声が弱々しくなる。
「もしかしたら私は、心のどこかで男性を嫌っているんじゃないか、無意識に差別してしまっているんじゃないかって。だから……男装するとなった時、怖かった。男装した自分を拒絶してしまうんじゃないかって怖かった。もし拒絶したなら、それは私が男性を嫌っていて、差別しているということに他ならないから……」
ぎゅっと拳を強く握り締めて、辛そうに打ち明けるサンちゃんさん。私はそんなサンちゃんさんの姿に、胸が苦しくなる。苦しくなるのは、多分……サンちゃんさんの悩みが私の悩みと似ているからだ。
「男装して、どうだったんですか……?」
「そうですわね……」
サンちゃんさんは、そこで語る口を休める。私は黙って返答を待つ。十秒も経たぬ内に、サンちゃんさんの唇が動いた。
「思ってたより全然大丈夫でしたわね」
けろっとした様子で言うサンちゃんさんに、私は唖然とする。気が抜けてしまい、座っている椅子からずり落ちそうになる。
「そ、そうなんですか?」
「あくまでも男装ですし、本当の男性になった訳ではありませんしね。特に何もありませんでしたわ。……ですが、もしかしたら私は心のどこかで男性を嫌いだと思っていて、無意識の内に差別しているのかもと想像すると怖いのは、変わりませんわね」
サンちゃんさんは憂鬱そうに俯く。私はそんなサンちゃんさんに、何も言葉をかけてあげられない。
嫌な感情を敵と見做し抑え続けている私と、嫌な感情が心のどこかにあるのではないかと恐れるサンちゃんさん。私達は、嫌な感情を好ましく思っていないという点に於いて共通している。ああ、私がサンちゃんさんの恐怖を、嫌な感情を倒してあげられればいいのに。だがそれは、今の私には不可能だ。今の私は自分の嫌な感情さえ倒せていない、消し去れていないのだから。
「こんな話をしてしまってごめんなさい。でも、栞さんには話しておかないといけないのですわ。これからお願いすることに関わってきますから」
「お願い……?」
「はい。私は、私のように差別で傷付く人を無くすことを目指しています。それを成し遂げるためには……栞さん。あなたの力が必要なのですわ」
「わ、私のですか?」
「無理強いはしません。きっと辛いことも沢山あるでしょうし……もしかしたら、死んでしまうこともあるかもしれません。それでも私に力を貸すと仰るのでしたら、私の手を取ってください」
ゆっくりと差し出されたサンちゃんさんの片手を、私は見つめる。
死ぬかもしれないだなんて大袈裟だと感じたが、サンちゃんさんは真剣だった。冗談ではないのだと分かる。
……昔、本気で死の道へ進みそうになった時があった。なのに進むのを止め、生きる道を選んだのは──
『私は、あなたに死んでほしくない。生きていてほしい』
そう言われて、気付いたからだ。私が生きていることで何かを得る人が居る、なら私はその人のために生きてみようと。
今、私の目前に、確かに、私が生きていることで何かを得る人が居る。こんな私に「あなたの力が必要」とお願いしてくれた人が居る。……私の答えは、決まっていた。
私は、迷い無くサンちゃんさんの手を取る。サンちゃんさんの顔へ視線を移すと、何故か怯えたような表情をしていた。
「……本当に、本当にいいんですの?」
必死に、まるで私を止めるかのようにサンちゃんさんは繰り返す。
もしかして、私が死ぬかもしれないことを心配してくれているのだろうか。優しい人。でも、いいんですよ。だって──
「サンちゃんさんのお力になれるなら、断る理由なんてありませんから」
私の言葉を聞いたサンちゃんさんは、今度は思い悩むように眉根を寄せてしまう。サンちゃんさんを安心させようと優しく言ったつもりだったんだけど……失敗しちゃったかな。
サンちゃんさんは、私に握られたままの手を見る。見入ったまま、動かなくなってしまう。
私は、握っているサンちゃんさんの手がちょっと震えていることに気付く。サンちゃんさんの手が震えている理由が分からず、私は困惑する。
しかしすぐに手の震えは止まり、サンちゃんさんが顔を上げる。その表情には怯えも何も無かった。
「分かりましたわ。……ありがとうございます。栞さん」
サンちゃんさんの優しい微笑みに、私は安心する。よかった、普段通りのサンちゃんさんだ。
「いいえ」
そろそろ離した方が良いかなと、サンちゃんさんの片手から自分の片手を離す。サンちゃんさんも手を離した。
私達は前にある窓からの景色を眺める。夕方の景色。昼時が終わりを告げ、もうすぐ太陽の時間も終わる。これからは夜の時間、月が支配する時間だ。太陽は道を照らしてはくれなくなるが、今度は月明かりが道を照らすだろう。迷うことは無い。私達は手を取り合い、助け合いながら、目的地へ向かって進んでゆくだけだ。
(七話完)
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