第8話 定時制高校の懐の深さ
そこまでやれば、学校側も何か言ってくるのではないかとも思うが、そんなことはなかった。
むしろ、歓迎さえされるようになった。
私のような生徒の存在に苦言を呈してきた先生もいなくはなかったが、理解者となってくれる先生も少なからずいた。というより、理解者となる先生のほうが、圧倒的に多かった。
こちらも、「年度替わり」のおかげで、さらに私にとってはありがたいことになってきた。
高2になった1986年、烏城高校に、今宮先生が校長として赴任された。以前は進学校で、古文などを教えておられた先生。
その前年から、斉木先生という、これまた、同じ敷地内にある岡山朝日高校で地理を教えられていた先生が教頭でおられた。斉木先生は、確か、台湾からの引揚者で、大検から大学に進まれたという。
私のような生徒は、今宮先生や斉木先生にとっては、大いに応援すべき生徒であった。最初のうちは学校のことなど構わず、ひたすら自分自身のことに目を向けていたが、そのうち、職員室で他の先生と話したりするようになった。
担任の加太先生は、当時大学を出て間もない若手の英語の先生。
後に進学校に転任されたが、ある高校の合格発表の際の塾のビラまきのとき、偶然お会いしたこともある。
いつぞやは、共通一次に関係のない科目の中間テストをさぼって、プロ野球を見に行ったこともあるが、これはさすがに、加太先生から、やり過ぎはよせ、と一言かそこらは言われたが、それだけ。
本来なら校長室に来いとか親を呼べとか、そういう話だとは思うが、そんなことは一切なかった。
もっとも、自分のするべき勉強をしていないと見られたら、学校に皆勤で来ていようが、定期テストで1番になろうが(テスト自体眼中になかった)、呼びつけられるともなく、今宮校長や斉木教頭あたりに呼び止められて大目玉を食らっただろう。
だが、幸いそれはなかった。
高3ともなると、進研や代ゼミなどの模試の結果を見せに職員室に行っていたが、そのとき、志望校の欄にノートルダム清心女子大とか書くの、忘れました、といったら、今宮校長から「馬鹿なことをするんじゃないぞ」と呆れられた。斉木先生は、苦笑されていた。加太先生は、真面目な顔で、「アホか」といいつつも、「でも、判定は出るだろうな」と言われた。大検生は学校受験などできないので、模試の受験会場まで出向いて受験していたが、その会場のある男子受験生が、志望校の欄に本当に女子大を書いているのを見たことがあった。
共通一次の前日も、当日も、学校には行った。給食が目当てだ。
ついでに職員室にも行って、先生方に報告したら、校長、教頭、そして教務主任の英語の先生から、いい加減さっさと帰って寝るなりしろ、こんなところ来ている場合か、とまで言われた。
共通一次の当日の会場は、当時一般的だった岡山大学ではなく、高校入試で落ちた高校だった。しょうがないので、縁起を担いて、両日とも校門前に塩をまいて入試に臨んだ。塩のお清めの効果あってか、それなりに得点できた。
次は、二次試験。
岡山大学の入試願書を提出するにあたって、少し困ったことが起きた。
今ならこんなことはないだろうが、当時は、大検合格者=高校の内申書はまず無理、という考えが一般的だったからか、大検合格者に対しては調査書こと内申書の提出は求められていなかった。
だが、大検合格者でも、定時制高校に「在籍」していて、「卒業見込み」でもない者はどうすればいいのか?
烏城高校の職員室に行くと、今宮校長から、早速「檄」を飛ばされた。
君のケースで必要かどうか、確かにこの入試便覧の表現は、あいまいかもしれん。
だが、わからないなら、なぜ岡大の入試事務局に問い合せに行こうとしない!?
今日はもう遅いから、明日でも直ちに、岡大に行って聞いて来なさい。
提出期限まで、まだ時間は十分あるだろう。
必要と言われたら、担任の加太さんに内申書をすぐ書いてもらうようにする。
しつこいが、明日早速、自転車で岡大の事務局に行きなさい、電話よりもそのほうが早かろう。
そういうわけで、私は、岡山大学の事務局まで願書の提出要件について聞きに行った。担当者の方は、丁寧に回答してくださった。
結論は、もし高校が書いてくれるというなら、書いてもらって提出してください、とのことだった。
結局、内申書を書いてもらい、願書を提出した。
ひょっとすると、その内申書と大検の合格証は、私の合否判定で、入試担当者に、新鮮さとともに、いい印象をも与えられたのかもしれない。
二次試験も無事終え、1988年春、現役の年で岡山大学に合格できた。こうなると、烏城高校は晴れて「中退」である。
最初のうちは無理解な言動が幾分見られたよつ葉園の大槻園長だが、この頃になると非常によく理解してくれるようになった。
「立つ鳥後を濁さず、というでしょう。きちんと退学届を出してきなさいよ」
そう言われ、退学届を出したのはいいが、封筒には「退学届」ではなく、「退学屈」と書いてしまった。加太先生に指摘され、職員室で大笑いされた。
当時の烏城高校は、退学者や休学者が多かった。それが証拠に、職員室の黒板に、「退学(休学) **** *年*月*日」という字が見られない日がなかったほどである。そういえば、一度だけ「除籍」というのが書かれたのを見たことがある。
ついに私もそこに書かれるのかと思うと、なぜか、うれしかった。
学校に頼らず、あてにせず、自らに勉強を課して結果を出せたことは、今もって、私の誇りである。
私は高校を2回「降りた」ことになる。
一度目は、高校入試に不合格となって、再受験を拒否した時。
二度目は、大学に合格して定時制高校を「退学」したとき。
最近ではこんな言葉もあるそうで、それに従えば、私の場合、
「岡山県立烏城高等学校 3年時満期修了退学」
とでもなろうか。
しかもこれで、私には中退歴が2つできた。
一つは、父方の祖父母の相次ぐ死で養護施設に行くために地元の幼稚園を「中退」したこと、もう一つは、この「中退」。ただし、後に私は岡山大学を卒業したから、学歴は「大学卒業」となる。
退学届の封筒の「誤字」の話をしたが、私には後日また、誤字で一波乱があった。 大学院入試のとき、民事訴訟法の答案に、「紛争」とかくべきところを、ひたすら「「粉」争」と書いてしまい、お世辞にも出来のいいとは言えない答案に(外国語の出来は言わずもがな)、この誤字と来たものだから、面接のときに民事訴訟法の教授ばかりか、もう一人の憲法の教授にもあきれ返られた挙句、知己の司法試験受験生諸氏の前でも、思いっきり笑いものにされてしまった。
「わっはっは、そりゃあ、君、粉と書いてコナゴナやな~(一同爆笑)」
たまたま司法試験受験生のたまり場に来られていた行政法の教授(故人)に、こんなことを言われてしまった。かくして、大学院入試は粉と書いてコナゴナになった。
それはともかくとして、烏城高校は、厳密には卒業生ではないし、こちらからしてほしいなどと思ったことはないが、大検から大学に現役で進んでの中退だから、「名誉卒業生」だと、斉木先生の後任として来られた教頭に言われ、恐縮しきりだった。
「退学届」ではなく「退学「屈」」を出したからでもなかろうが(封筒に関する限り、今に至るまで烏城高校には「退学届」を出していないことになる)、現在、烏城高校の同窓会からは、卒業生として扱っていただいている。
こんなありがたいことはない。
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