Fly

 もうなんだっていい。そう思った。別に気に残ることなど世の中にはないし、高層ビルの頂上から見える景色は人生で見たものの中で一番きれいに思えたから。

 何が悪い? 少なくとも僕は悪くない。そうだ。こんなふうに、いとも簡単に踏み外せる仕組みになっているのが悪いのだ。この世がこんな具合にできているから。だから、たかだか数万円の馬券がかすりもしなかったから、みたいな陳腐な理由で、僕は今から飛べるのだ。

 死ななければならない理由はなかったが、生きる理由も同じくらいに見当たらなかった。そして生きる理由がないということは、死ぬための口実になり得るような気がしたのだ。

 子どものころ、横断歩道の白線からはみ出たら死ぬ、という仮定を用いて、友人とゲームをした。必死になって白線をなぞっていくうちに、ふとバランスを崩して、僕はその場に転んだ。もちろん僕の足は白線から大きく外れたコンクリートの上に投げ出された。

 あの時、僕は子供心ながら、自分は今本当に死ぬんじゃないかと思った。実際道路の真ん中で転ぶなんて、死んでも不思議じゃなかったけれど、幸い車の通りの極端に少ない道路だったので、軽いかすり傷以外の怪我はなかった。

 あの時と同じ要領だ。つい踏み外して、後悔も煮え切らないままに終わるのだ。今度は助からないだろうが、死ぬかもしれないなんていう思いは人生に二度あれば十分だ。

 目を瞑って、地面を蹴る。体が宙に舞う感覚がして、それが永遠に続けばいいと思った。しかし残念ながら、地球は僕を見放してはくれない。重力に引きずり込まれるように、ビルの前を行き交う人間に誘われるように、僕の体は落ちていく。風を切る音が一定の速度を超えたのか、パンッという破裂音に変わった。

 静かだ。祖父が死んだ時も思った。人間、最期のときは不気味なほど静かなのだ。僕はひどく安らかな気持ちになって、残り僅かな猶予を確かめるために目を開いて、固まった。

 僕の眼下には、小さな女の子が立っていた。黒くて丸いその目は、不思議そうに僕の方を眺めている。逃げろ、と叫んだけれど、きっと間に合わない。

 ああ、畜生。なんだって、最期にこんな思いをしなくちゃならないんだ。

 やめろよ。止まれよ。

 怖い。死ぬと決めたときよりも、空に足をかけたときよりも、今この瞬間が恐ろしい。

 なんだって僕は、こんなことしたんだ。

 願ったところで、僕はもう止まれない。

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