Stage.4 特訓
翌日から早速、バンドのヴォーカル探しが始まった。
が、実はヴォーカルを見つけるのはなかなか難しい。ヴォーカルとは言うまでもなく、歌を歌う人だが、ただ単にカラオケなどで歌が上手ければいいというものでもない。
正確な音程で歌う事はもちろん、そこにきちんとした情景を織り込めるような歌い方ができる人、もっと言うと観客の目を引き寄せられる人が要求される。
まして、ヴォーカルはバンドで一番目立つ花形だ。ヴォーカルの良し悪しで、そのバンドのイメージも大幅に変わる。
その前にバンドの編成を大きく分類すると「メロディ隊」と「リズム隊」に分けられる。
ヴォーカル、ギター、キーボードがメロディ隊で、主にメロディ(主旋律)やコード弾き(伴奏)を担当する。こちらはどちらかというと目立つ花形だ。
一方、ベースとドラムがリズム隊で、リズムを刻んで楽曲全体の土台を作る役目をする。ドラムは音が派手だからわかりやすいが、ベースは音も低いし、一番目立たない。
大抵、新しくバンドを立ち上げようとすると、このベースとドラムが不足する。つまり人気がないのだ。逆にギターは絶対数が一番多いので、集まりやすい。というより、余る傾向にある。
一般的には、ヴォーカル専用の人がいないバンドの場合、リードギターの人がヴォーカルを兼任することが多い。ごく稀にベースとヴォーカルを兼任する人もいるが、数としては少数派だ。
まあ、以上の説明は全て黒田先輩の受け売りだが。
ということで、このバンドの場合、ドラムの麻弥姉は除かれる。そもそも動きの激しいドラムでヴォーカル兼任は無理がある。
残りはギター、ベース、キーボードの各パートだが。
「私はやらないぞ」
翌日放課後の部室での話し合い。まず口火を切ったのがベースの黒田先輩だ。
「何で?」
「ベースって一番目立たないだろう。だからこそベースを選んだのに、ヴォーカルで目立ったら本末転倒だ」
つまり、ありていに言えばこの人は目立ちたくないんだな。
「私もパスですねー。歌は自信ありませんし」
白戸先輩もパス。
「じゃ、あんた」
当然、指名されるのは俺。だが、
「嫌だよ」
「何でよ?」
明らかに不服そうに、腕を組んだまま俺を睨みつける麻弥姉に、
「ギターは一番目立つし、ギター兼ヴォーカルが多いのも知ってる。でも、俺はそもそも成り行きでなっただけのギタリストだから、黒田先輩と同じように目立ちたくはない。あと、女性ばかりのバンドのヴォーカルを男がやるのは何か違う気がするんだ」
理路整然と述べると、
「はあ。困ったなあ」
珍しくあの麻弥姉が弱気になっていた。
「とりあえず、貼り紙でもして募集をかけるか」
その黒田先輩の一言で翌日、早速バンドのヴォーカル募集の貼り紙が校内の一角にある掲示板に掲示された。
当初、こんな貼り紙ごときじゃ、どうせ集まらないだろうと思っていたのだが、その念願のヴォーカルは意外なところから突然やって来た。
貼り紙を掲示してから一週間後の放課後。いつものように屋上に練習に向かうべく、教室の椅子から立ち上がりかけた俺に、一人の少女が駆け寄ってきた。
「赤坂くん」
妙に声を弾ませてやって来たその少女は、ショートボブがよく似合う標準的な体型の、どこにでもいそうな平凡な少女だった。強いて特徴と言えば、キツネのように細い糸目くらいだった。確かクラスメートだった気がする。
「えーと。確か金山さん……だっけ?」
入学早々、いきなりハードロック同好会に放り込まれ、普段あまりクラスメイトとの交流がなかったから、はっきり言ってうろ覚えだった。実際、この子の下の名前も記憶にない。
「うん。
「まあね」
「そっか。じゃ、私がやってみてもいいかな」
探していたヴォーカルはこんなに身近なところにいた。しかも、向こうからやって来た。
断る理由もないが、また女か。どうも女ばかり集まるな。音大付属高校だから、女子の数が多いのは確かだけど。本当なら嬉しいシチュエーションなのだが、俺はまたも嫌な予感がしていた。
とにかく俺はそのまま彼女を屋上に連れて行くことにした。
今日はホームルームが少し長かったから、今の時間なら既に全員集まっているはずだ。
屋上へ行く道すがら、彼女に少し聞いてみることにした。
「えーと、金山さんは部活どこに入ってるの?」
「合唱部だよ」
「そこはいいの?」
「うーん。歌が好きだから、入ったまではよかったんだけど、なーんか違うのよねえ。私が歌いたいイメージと。そんな時に、ハードロック同好会ってのがあるって聞いたから」
ほとんど初めて話す割には、屈託のない笑顔で話す明るい子という印象を受けた。人当りもいいし、私見だが性格もヴォーカル向きかもしれないと思った。まあ、少なくとも暗い性格の子よりはいいだろうという程度の俺の勝手な推測に過ぎないが。
「えーと。じゃあ、金山さんは好きな歌手とかバンドはあるの?」
「うん、『
また変わった女がやって来たものだ。
大体、ジャニス・ジョプリンって1960年代の人だぞ。最近の一般的な女子高生で知っている人の方が圧倒的に少ないだろうに。
で、屋上に着いたわけだが。
やはり予想通り三人とも揃っていて、すでに演奏の準備を始めていたのだが。
「ヴォーカル志望の人、連れてきたよ」
「金山加奈です。よろしくお願いします」
麻弥姉の表情が硬い。ていうか、あれは明らかに不機嫌な顔だな。
「で、その子はあんたの何なの? 彼女?」
ドラムセットの前に座って、足を組んだまま、いきなりつまらなさそうにそう尋ねてきた。
「違うって。クラスメイトだ。そもそも入学以来ほとんど話したこともない」
「え、ええ。そうです」
二人して必死に否定していた。全く女ってのはいちいち面倒な生き物だ。
「あ、そう。じゃあカナカナ。とりあえず何か歌ってみて」
うちのリーダーは相変わらず無茶振りが好きなようだ。そして、さりげなく勝手にあだ名をつけている。
「あ、はい」
ここからが凄いところだった。
演奏もなく、アカペラで、しかも先輩たちの前。普通なら萎縮してまともに歌えない。
が、金山加奈と名乗るこの、一見するとどこにでもいそうな少女は、自身が大好きだという、『Janis Joplin』がカバーした名曲、『Summer time』を歌い始めたのだ。
ジャニス・ジョプリンは金山さんが説明したように、「ロックの女王」とも呼ばれたアメリカのロックシンガーだ。
魂の籠ったような圧倒的な歌唱力と、その独特な歌声は一度聴くと忘れられない強烈な印象を聴く人に与える。活動期間は1966年~1970年までと短いが、そのわずか27年の短い生涯の中で彼女が残したものは計り知れないほど大きい。
そのジャニス・ジョプリンがカバーした、1935年にオペラ「ポーギーとベス」の為に作曲されたアリアの名曲、『Summer time』を彼女は圧倒的な声量、そして独特の節回しで堂々と歌い始めた。
そう、その様子はまるで亡きジャニス・ジョプリンが彼女に乗り移ったかのようだった。もちろん、そんなことはないのだが、日本人ではただでさえ馴染みがなく、難しい英語の歌詞を苦もなく歌っている。もちろん、素人目にも音程がズレているとは少しも思えない。
普段の明るい声とは対照的な、ちょっとハスキーボイス気味の声といい、滑らかな英語の発音といい、只者でないことを十分感じさせる。
最初は半信半疑だった麻弥姉や黒田先輩、白戸先輩、そしてもちろん俺も、いつの間にか彼女の歌声に魅了され、言葉を失って、ただただ彼女が歌う様子に見入っていた。
一通り歌い終えると、金山さんは一息ついて、
「あ、あの。どうですか?」
と、おずおずと聞くが、麻弥姉は、
「す、すごい……」
と言ったきり、黙ってしまった。
「ああ。決まりだな」
代わりに黒田先輩が答える。
天才的ピアニストの娘にもあっさりと認められる。これが才能か。
聞けば彼女は、実は帰国子女だそうで、中学までアメリカにいたそうだ。その時、たまたま聴いたジャニス・ジョプリンに魅了され、向こうで本格的なボイス・トレーニングまで受けていたらしい。
そりゃ、凄いはずだ。
ていうか、こんな才能を持った凄い子が、何で「音楽科」ではなく、俺と同じ「普通科」にいるのかが謎だった。入学の際に、アメリカで調べていて、よくわからなかったから、普通科に入ってしまった、とかなんだろうか。
とにかく、こうして探していたヴォーカルはあっさり見つかった。
金山さんは間もなく、合唱部を辞め、正式にハードロック同好会に加入した。
だが、このバンドを揺るがす大きな問題は、俺自身が運んできてしまった。
6月下旬。
いつものように放課後に練習していた時だ。
この時は雨が降っていたから、部室で『Green Day』の『American Idiot』の練習をしていたのだが。
演奏の途中で、突然黒田先輩がベースを弾く手を止めた。
それに気づいたドラムの麻弥姉も手を止め、結局みんなが演奏の手を止めた。
「どしたの、さおりん?」
その黒田先輩が、俺のところにつかつかとやって来て、いきなりドスの効いた声で、
「赤坂。お前、いい加減にしろよ」
と言ってきたのだ。
面食らった俺は、一瞬何を言われているのかわからなかったが。
「お前、本当にやる気があるのか?」
「あ、ありますけど」
「嘘をつくな。だったら何で全然上達しない。私が教えたFコードもまだ完璧にできていないだろ。ごまかしているのはわかっているんだ。明らかに足を引っ張っているのがわからないのか。やる気がないなら、やめちまえ」
「ちょっと、さおりん。やめなよ。優也だって一生懸命がんばってんじゃない。それにバイトもやってるから、そんなに時間取れないんだよ」
麻弥姉がフォローしてくれるが、それが耳に届かないくらい俺はショックを受けていた。
俺が今まで練習してきたのは、一体何だったのだろう。
自分なりに覚えようと努力はしてきたつもりだったが、それが根底から覆された気がした。
つまり、していた「つもり」だったのだろうか。
そう、あれこれと考えていると、
「とにかく、こんな中途半端な奴とは演奏したくない。私はやめるから」
黒田先輩は一方的にそう告げると、ベースをケースに仕舞い込み、いきなり部室から出て行った。
「ちょっと待って、さおりん!」
麻弥姉は慌てて黒田先輩を追いかける。
が、しばらくすると戻ってきて、
「ありゃ、ダメね。完全に頭に血が昇ってる」
と言って、
「とりあえず今日はもうやめよう。みんなでファミレスにでも行こっか」
いつもと変わらず、元気に提案した。
その後、機材を一通り片付けて、俺は麻弥姉、白戸先輩、金山さんの三人と駅前のファミレスに向かったわけだが。
道すがら、俺は完全に放心状態だった。
自分の全てを否定されたような、黒田先輩の強烈な一言が頭から離れなかった。
そんな俺に慰めの言葉をかけてくれたのは、心優しい白戸先輩だった。最も放心状態だった俺は、何を言われたのかほとんど覚えていなかったが。
だが、俺たち二人の様子を、麻弥姉はあえて見ないような素振りを見せ、そして何事かを考えている様子だった。
ファミレスに入り、適当に注文を頼んで一息つくと、まずはその優しい白戸先輩が口を開いた。
「沙織先輩もヒドいですよねー。何もあそこまで言わなくてもいいと思うんですけど」
「いえ、俺が悪いんです。バイトを理由にして、そこまで真剣に練習していなかったのは事実ですから」
「でも、それはしょうがないですよー。それにバイトが大変でしたら、お金のことは心配しなくてもいいんですよー」
「ありがとうございます。でも、やっぱりそういうわけにはいきません」
などと俺と先輩がやりとりしているのを麻弥姉は黙って眺めつつ、尚も考え事をしているようだった。
「でも、これからどうするんですか? ベースがいなくなったら、また新しいメンバーを探すんですか?」
そんな金山さんの一言に、
「さおりんの代わりはいないよ」
麻弥姉は少し冷たく返した。
「……」
その一言で場が急に寒くなった気がした。
丁度、注文していた物が届いた頃合いだった。
ウェイトレスが下がり、やや間を置いてから、麻弥姉は珍しく真剣な表情で話し始めた。
「あたしは、優也はがんばってると思う。そもそもギターを初めて一か月くらいの人が急に上達するわけじゃないしね」
「……」
俺を始め、みんなは珍しく真面目な事を言う彼女の言葉に耳を傾ける。
「でも、さおりんにはそうは見えなかった。どうしてだと思う?」
意外な問いかけだった。普段、何も考えず、思いつきで行動しているような彼女には非常に珍しい。
「理想が高いから、ですか?」
金山さんがみんなを代表して答えた。
「そう。あの子のお母さんは有名なピアニスト。さおりんは小さい頃からそのプロのお母さんからピアノはもちろん、あらゆる楽器の教育、音楽理論を徹底的に叩き込まれたんだって。それこそ、友達と遊ぶ暇もないほどにね」
知らなかった。黒田先輩についてはある程度しか聞いてなかったし、自分から語る人でもないしな。
「さおりんがどうして、ピアノじゃなくて、ベースやってるか知ってる?」
聞かれたメンバーは全員首を横に振る。
「ピアノはお母さんに叩き込まれすぎて、嫌気が差しちゃったんだって。あの子の腕なら他にいくらでも才能を活かせる部があるのに、あえて『ハードロック同好会』なんて遊んでいるような同好会に入ってるのは、そういうこと。あそこなら誰にも邪魔されずに、自由に好きなベースを弾いていられるからね」
彼女にはそんな過去と経緯があったのか。
「まあ、根は真面目な子だから、いずれピアノと真剣に向き合う決心をするんじゃないかってあたしは思ってるけど。皮肉なことに親子って似るからさ。結局、真面目で厳しいお母さんに似て、妥協を許せない完璧主義な子になっちゃったってわけ」
何だか意外な一面を見た。
普段、適当でおちゃらけた振る舞いばかりしている麻弥姉の言葉とは思えない。
「でもね、これは逆にチャンスだと思わない?」
チャンス? こんな大変な時に何を言ってるんだ、こいつは。
「うちには音楽に関して、天才的な凄い先生がいる。その先生を味方につければ、プロとまではいかなくても、プロに近い水準まで技術を高められる。軽音部のバカどもなんて敵じゃない」
確かに逆転の発想、というかポジティブに考えればそうだが、それができないから困っているんじゃないか、とも思う。
「それにはどうしたらいいか? 優也はわかるよね?」
いきなり俺に振られて、多少面食らったが、何となく彼女の言いたいことはわかった。
「俺がもっと練習して、上手くなって、黒田先輩を見返してやればいいって言うんだろ?」
自信があった答えだったが、彼女の回答は少し違っていた。
「惜しいけど、ハズレね。さおりんは優也にだけ怒っていたけど、実はあたしにも、凛ちゃんにも、多分カナカナにも不甲斐なさを感じていたはず。カナカナは知らないだろうけど、みんなで楽器を買いに行った時、あたしたちにも『素人に毛が生えた程度』って言ってたでしょ」
一か月以上も前のことをよく覚えているな、こいつは。
「だから、こうなったらみんなで特訓して、見返してやろうよ。あたしたちから離れたことを後悔させてやるくらいにね」
そう言って、麻弥姉は飛びきり明るい笑顔を見せた。
何だか、こうして見るとしっかりリーダーという気がする。普段、何にも考えていないような素振りをしているが、実はきちんと考えていたと思うと、少しはこいつを見直した。
「そうですね!」
「ええ、やりましょう」
白戸先輩と金山さんが明るく同意の声を上げているのを安堵しながら眺めていた俺だったが、そこに厳しい声がかかった。
「あと、優也。あんたはあたしたちの中で一番下手なド素人だから、特別メニューで特訓するから。覚悟しておいてね」
「……わかってるよ」
「指に血豆ができて、それが潰れるくらいやってあげる」
鬼か、こいつは。
だが、この一言でその場が和んだ。これもリーダーの資質かもしれない。
「じゃあ、詳しい特訓方法については、明日決めるから。今日はもう解散」
というリーダーの締めの言葉で各自解散となった。
俺は近所に住んでいる麻弥姉と一緒に帰ることになった。
入学以来、バイトやバンド活動であまり時間を取れなかったから、一緒に帰るのは久しぶりだった。
白戸先輩や金山さんと別れ、麻弥姉と二人になったところで、俺は切り出した。
「麻弥姉。ありがとう。俺、ヘコんで自分を見失いそうになっていたよ」
だが、彼女は、
「な、何よ急に。別にあんたの為に言ったわけじゃないから。あたしはバンドのことを考えてんの」
と、素っ気なく言って、顔を逸らした。
こういう素直じゃないところは、昔から変わっていない。いわゆる「ツンデレ」なところがあるからな、彼女は。
「そんなことより、あんたは死ぬ気でギター覚えなよ。あたしも暇だったら少しは教えられるかもしんないしさ」
「わかったよ」
やっぱり素直じゃない奴だ。
でも、その日は麻弥姉の意外なリーダーシップと、そして彼女の言葉によってドン底から少しは戻れたような気がして、心の中で彼女に再度「ありがとう」と言ってみるのだった。
翌日の放課後、早速部室で特訓の為の作戦会議が開かれた。もちろん、黒田先輩抜きで。先輩はあれ以来、本当に部室に来なくなった。
「まず、特訓するには、特訓に相応しい場所が必要ね。誰にも邪魔されない、演奏に集中できる場所がね」
リーダーがパイプ椅子に座り、足を組んで語り出した。
「屋上じゃダメなんですか?」
と白戸先輩。
「ダメね。そもそも雑音が多いし、雨の日は使えないし。かと言って部室だと軽音部がウザいからイヤだし」
ワガママな奴だ。
「では、スタジオを借りるのはどうですか?」
金山さんが提案するが、
「それはあたしも考えた。でも、お金がねえ……。毎日スタジオを借りてたら、さすがにお金が足りなくなるよ」
そう嘆いて、大きく伸びをする麻弥姉に、
「じゃあ、うちの系列のスタジオを使いますか?」
白戸先輩がさも当然のようにそう言い出したから、さすがにみんなが驚いて彼女に目を向ける。
「凛ちゃんのお父さんの会社って、そんなことまでやってんの?」
「ええ。系列のグループ会社がスタジオの経営もしています。さすがにタダというわけにはいきませんが、いくらか安くしてもらえると思いますよー」
どんだけ凄いんだ、白戸電機グループは。
唖然としている俺とは反対に、麻弥姉はおもむろに立ち上がって白戸先輩に近づき、その手を取り、
「やっぱ持つべき者はお金持ちの後輩ねー。凛ちゃん、頼んだよ!」
と調子がいい。
白戸先輩は心なしか苦笑しながらも頷いた。
善は急げ、というわけでその日の夕方、早速白戸電機のグループ系列会社が経営しているという、新宿にあるそのスタジオに四人で行ってみた。
俺はここで格差社会というものを思い知ることになる。
スタジオはごく普通の、どこにでもある音楽スタジオだった。
入口を入ってまず白戸先輩が受付に向かう。俺たち三人はそのやりとりを少し離れた位置から見守った。
「あの、予約してないんですけど、借りれますか?」
「はい。可能ですが、何名様ですか?」
「4名です」
「マイクやスティックはご入用ですか?」
俺は音楽スタジオ自体、来るのが初めてだったから知らなかったが、この質問は大抵受付で最初に聞かれる質問らしい。
ただ、うちのバンドには両方とも必要ない。マイクはヴォーカルの金山さんが愛用している『SHURE《シュアー》 55SH SERIES2』というガイコツマイクを持ってきているし、スティックも同様にドラムの麻弥姉が父譲りの『KYORITSU《キョーリツ》 DS-400/5A』というスティックを持ってきている。
「では、何帖の部屋を使いますか?」
「えーと。一番大きなところでお願いします」
「18帖ですね。一時間3000円になります」
一人当たり、7、800円というところか。結構高いな。そう思っていると、
「あのー。実は私、こういう者なんですけどー」
おもむろに白戸先輩は金ピカに輝く一枚のクレジットカードを財布から取り出して、受付の女性に見せた。
それをまじまじと見ていた女性の表情がたちまち凍りついていく。
「白戸様……。えっ。白戸社長のお嬢様!」
「ええ、まあ」
「申し訳ありません。そうとは知らずご無礼を。お代は結構です」
金と権力の恐ろしさを肌を持って感じた。
だが、白戸先輩は、
「いえ。さすがにタダでは申し訳ありませんし、私たちのせいで経営に影響が出るのもよくありません。少し安くしていただくことはできますか?」
としっかりしていた。いつもはおおらかで、どちらかというとふわふわしている娘なのに、こういうところはさすがは社長令嬢だ。何だか貫録を感じる。
「かしこまりました。では半額で構いません」
「ありがとうございますー」
白戸先輩は、いつものように明るい笑顔を浮かべながら、戻ってきた。
「さすが凛ちゃん! 頼りになる」
と麻弥姉は相変わらず調子がいいが、俺は金という名の権力、格差社会を見せつけられて、複雑な気分だった。
早速、用意されたスタジオに向かったのだが。
「何、これ。広ーい!」
入るなり、麻弥姉がはしゃぎ出した。
それもそのはず。18帖と言えば相当広い。
普通、四・五人のバンドでもせいぜい10帖もあれば事足りる。一人の練習なら7帖で十分だ。
その二倍近くは広いわけだ。しかもそれを通常の半額で借りている。全く金の力ってのは恐ろしい。
とにかく、その無駄に広いスタジオの一室で、各々楽器の準備を始めたわけだが。
俺が自分のギターのチューニングをしていると、何を思ったのか麻弥姉が近づいてきて、いきなり、
「優也。ちょっと手見せて」
と言ってきた。
両手を開いて、彼女の前に差し出すと、彼女は俺の両手を取り、指先をふにふにと押し始めた。正直くすぐったい。
だが、麻弥姉は眉間に皺を寄せ、不満げに猫口を歪ませた。
「あんた、やっぱ全然ダメね。がんばってるなんて言ったのは取り消す」
「えっ」
「あのねえ、ギタリストは指先が硬くなって、ようやくスタートラインに立てるの。こんなに指先が柔らかいのは練習してない何よりの証拠ってこと」
「……ごめん」
そう言えば、前に黒田先輩にも同じことを言われたことがある。やっぱり俺は黒田先輩の言うように、本気でやってないのかもしれない。
落ち込んだ俺に、しかし麻弥姉は、
「もう、何ヘコんでんの。これからバリバリやるんでしょ」
と呆れたように声をかけてきた。
それから各自の楽器の特訓が始まったわけだが、俺にとってはまずはバレーコードの克服からだった。
バレーコード。それはギタリスト初心者にとって最大の、そして誰もが最初につまずく難関だ。
多くのギタリスト志望者を挫折に追い込んできたと言われている。
代表的なのは「F」と呼ばれるコードで、大抵の初心者がまずここでつまずく。
だが、Fは多くの曲で使われており、ギターを弾く上で避けては通れない。他のバレーコードは、結局はFの応用だから、Fさえ弾けるようになれば、他のバレーコードもできるようになる、らしい。
まあ、こればっかりは慣れるしかないのだが。
俺もそこからは試行錯誤し、ああでもない、こうでもない、と悩みまくったのだ。
それからの数日間、俺はほぼ毎日メンバーと共にスタジオに通い、Fコードの練習に取り組んだ。ファミレスのバイトは特訓の為に週に一、二日に減らしてもらったのだ。
Fコードは人差し指を一弦から六弦まで寝かせ(これをセーハとも言う)、尚且つ中指を三弦に、薬指を五弦に、小指を四弦に置く複雑なコードだ。
だが、こいつに関しては、本当にふとしたことがきっかけでマスターができたのだった。
親指をネックの「背」に置く。そして人差し指の「腹」ではなく、「側面」で弦を押さえることがわかったのだ。
「できたっ!」
ある日の特訓中にそれが偶然わかり、弾けるようになった俺は思わず喜びの声を上げていた。
「何よ、いきなり?」
麻弥姉がドラムを叩く手を止めて、訝しげに眼を向ける。
「できたんだよ、F! やっとできた!」
大袈裟に喜ぶ俺に対し、三人の反応はそれぞれ、対照的だった。
「バカね。たかがFコードができたくらいで」
と麻弥姉。
「よかったですねー」
と白戸先輩。
「何だかよくわからないけど、おめでとう」
と金山さん。
特訓の日々はそれから一か月あまり続いた。
Fコードを完全にマスターした俺は、もう怖いものなしになっていた。他のバレーコードはFの応用だし、Fコードを制覇したということは、セーハもマスターしたということだから、それ以外のコードも色々な曲をこなすことによって、徐々に覚えていける。
こうなると、ギターの演奏が楽しくなってくる。
最初はメトロノームを使わなければ、テンポも取れなかったが、段々それも不要になってくるくらいリズム感も養われていったし、気がつくと、あれだけ柔らかかった指先もいつの間にか硬くなっていた。
今まではどちらかというと、「辛い」「やりたくない」という気持ちが心のどこかにあったから、ギターに対して真剣にやっておらず、何となくでやっていた部分は否定できない。
それが黒田先輩にはわかったのだろう。
だが、ギターの楽しさを覚えた俺は、ここからが真のスタートラインだった。
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