ランナーズハイ

野々村 その1

 邪魔するものは何もない早朝の車道。

 雲一つない青空の下、一台の自転車が風を切って走る。

 空気はひんやりと冷たい。

 出発したときには夏だったのが、今では秋に差し掛かっている。

 野々村ののむらは旅の終わりを感じていた。


 日本縦断。


 当初は果てしなく思えた道も、今となっては残りわずかだ。

 達成感に胸を膨らませると同時に、もの悲しさも感じずにはいられない。

 まあ、どちらにしたところで全部終わってから感じるべきだろう。

 野々村は思考を切り替えて、鼻歌交じりにハンドルを右へと切った。

 そのとき、真っ先に目に飛び込んできたのは天をくほどの巨大な煙突だった。

 次に、黒々とした物体が猛スピードで前を横切る。

 それが車であると気付いたときにはもう遅く、ブレーキ音がけたたましく辺りに鳴り響く。

 何とか激突だけは回避したものの、野々村は車体ごと横倒しになった。


「痛ってえ……って、おい!」


 野々村が起き上がると、止まっていた黒塗りの車は何事もなかったように再度発進していた。

 痛みは怒りで吹き飛び、野々村は即座に自転車に跨り追走する。

 高級車らしく無駄に車体が長いこともあってか、大して時間もかけずに追いつくことができた。


「おい、止まれ!」


 窓を横殴りするが黒塗りの車はスピードを緩める気配がない。


「止まりやがれってんだ……このくそが!!」


 ついに車体を思い切り蹴り飛ばす。

 すると、やっと車は停止し運転席から若い女性が降りてきた。

 スレンダーな美人ではあるが近寄りがたい雰囲気を漂わせている。

 ピッチリとスーツを着こなした女性のかもす空気は、野々村のような人間にとってはかなり窮屈きゅうくつに感じられた。

 野々村が彼女の迫力に飲まれていると、相手の方から口を開いた。


「随分と野蛮な方ですね。失礼ながら、あなた様にこちらの車を弁償するだけの財力があるようには見受けられません」

「はあ、弁償? 何で俺がそんなことしなくちゃなんねえんだよ。悪いのはどう考えてもそっちだろ」

「話が見えませんが」

「こっちはお前の車に危うくねられかけたんだぞ!」

「ええ。それが何か? 見たところお怪我もないようですが」


 一応、よそ見をしていた自分にも非があると考えていた野々村だったが、この瞬間そんな思いは完全に消え失せた。

 自転車から降りると、相手の真向かいに立つ。


「もういい。お前、ただの運転手だろ? 後ろに乗ってる奴に会わせろよ」

「先生とはお会いになれません。ご用件は私が御伺いします」

「先生ね。さぞご立派な職業なんだろうな」

「ええ。先生はこの街一番の政治家ですから」


 まさか本気で褒めたと思ったわけでもないだろうが、女性は誇らしげに言った。


「確かに政治家の鑑みたいな人間だな。カメラの前では綺麗事ばかり並べるくせに、腹の底じゃ結局自分のことしか考えてない連中ばっかりだ。

 お前の先生はその中でも飛びっきりのクズだぜ。大体……」


 野々村は最後まで言い切ることができなかった。

 次の言葉を紡ぐ前に、女性に足払いを掛けられたかと思うと、気付いたときには左腕を捻り上げられていた。


「いっ……てててててて!」

「それ以上、先生を侮辱することは許しません」


 こんな状況でも女性の口調は先程とまるで変っていないが、それが逆に野々村の恐怖を助長させていた。


「分かった! 分かったから放せって、くそ!」


 女性は野々村を解放すると、軽やかに脇を抜け、当然のように車内へと戻っていった。

 野々村は腕の痛みにうめきながら、車が過ぎ去っていくのを見ることしかできなかった。

 今度ばかりは怒りで誤魔化せるほどの痛みではない。回復にはしばらく時間を要しそうである。

 そう判断した野々村だったが、それは大きな間違いだった。

 彼の痛みは、怒りではない別の感情によって一瞬のうちに消え失せたからだ。

 嫌なことは忘れて前に進もうと、振り返った矢先、そこにあるはずのものが無くなっていた。

 そう。彼とここまでの旅路を共にしてきた自転車が、忽然と姿を消していたのである。


「嘘だろ……おい」

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