第3話 父さんの事後報告
「スナックを経営するって事? そんな事、素人には難しいでしょ? 副業をするって事なの? その資金は、どうするの?」
あまりにも無謀な父さんの発言に、思わず責めるような口調になってしまった。六十歳の父さんに、二足の草鞋を履けるとは、とうてい思えない。父さんは、経理一筋の人だから、お金の扱いには慣れているのかもしれないけど、それでも経営はまた別の話ではないのか。
「その通りだ。経営は難しいだろう。だけど、難しい事は、諦める理由にならない。勉強すれば良いだけだ。それに、副業ではない」
「は? 定年前に今の会社を辞めるの?」
「ああ、もう辞めてきた」
「はあ!?」
僕と結衣が、同時に声を上げた。
「ふざけないでよ! 私の学費は、どうなるのよ!?」
「安心しなさい。会社が早期退職者を募っていたから、それに乗ったのだ。こんなご時世だからな、高給取りの年寄りを抱えておくのは、会社にとってデメリットの方が大きい。満期の退職金に上乗せしてくれた。そのお金で、十分学費はまかなえる。願ったり叶ったりだ」
ちゃんと学費は確保してくれていると分かり、結衣は矛を収めた。それでも、やはり不安材料は拭えない。
「それで、その退職金をスナックの開業資金にするって事? 老後の蓄えはどうするのさ」
父さんは僕を見つめ、ゆっくりと顔を左右に振った。
「退職金や貯金には一切手を付けない。そのお金があれば、老後も苦労しないだろう。贅沢はできないがな」
「借金するって事?」
「いいや、そもそも資金はもう集まっている」
僕達三人の頭上に?が飛んだのが分かった。
「集まっているって、どういう事?」
「クラウドファンディングだ。そこで、支援を募って、目標金額を大幅に超えた」
まさか、父さんの口からクラファンが出て来るとは、夢にも思わなかった。言葉としては知っているが、機能は良く分からない。そんなに簡単にお金が集まるのだろうか? 僕の知人には、クラファンに挑戦した人はいない。疑問を父さんにぶつけてみた。
「簡単なものか。父さんは、十年近くの歳月をかけて、インターネットでコミュニケーションを取ってきたのだ。コツコツとお父さんの考えに賛同してくれる仲間を集め、友好を深めてきたのだ。一朝一夕で出来ることではない。オジサンの突発的な思いつきに、誰が耳を貸してくれると言うのだ? 絆を築いてきたのだ」
まさか、父さんが長い年月をかけて、下準備をしていたとは、知らなかった。女装癖とでも言えば良いのか分からないけど、きっと同じような趣向の持ち主はいるだろう。ニッチな世界だからこそ、繋がりは強いのかもしれない。ある程度オープンになってきた現代とは言え、なかなかオフラインでの公表は難しいのかもしれない。ならば、オンラインなら、打ってつけだ。
「それで、そのネットで出会った仲間とスナックを始めるって事?」
「そうだ。三人での共同経営だ。お父さんたちは、何年も何年も腹を割って膝を突き合わせて、語り合ってきた。そして、機は熟した。この想いを寝かせ続け、腐らせる訳にいくものか。年寄りが夢を見て何が悪い。笑いたい者には、笑わせておけばいい」
父さんの真剣な眼差しに、返す言葉がない。これだけ用意周到に下準備をしていて、一時の感情に任せた夢物語ではない事も分かった。
夢を叶える為に、現実的に行動を起こしていた。
反論の余地はない。そもそも、僕も結衣ももう大人だし、両親にこれ以上を望むのも可笑しな話だ。僕は、チラリと母さんを見た。肝心な部分を棚上げしていた。
父さんが、女性になりたいと切望している事だ。この事について、母さんはどう思っているのだろう? これまで、口を開かずに、ただ黙っていた母さんの意見が気になる。
「・・・か、母さんはどう思うの?」
僕が恐る恐る尋ねると、皆の視線が母さんに集中した。
「ん? 別に良いんじゃない? これまで、何の不自由もなく生活させてもらってきたんだからね。翔太も結衣も、しっかり自分の力で稼ぎなさいよ。親の遺産なんか期待しないようにね」
母さんは、ズズズとお茶を啜った。
「それに、お父さんに女装癖がある事は、知っていたわよ。何年、夫婦やっていると思っているの? 私の目を盗んで、私の口紅を塗っているところを何度も見ているわよ。それに・・・」
ズズズとお茶を飲んで、母さんはハァと溜息を吐いた。
「脱衣所で私のブラジャーを、こっそりつけているところを見た時は、さすがに眩暈がしたけどね」
ニヤリと笑う母さんに、父さんは目を見開いて、鯉のように口をパクパクさせていた。母さん止めてあげて! それは、言わないであげて! 僕が心の中で悲鳴を上げていると、結衣がテーブルを叩いて立ち上がった。
「まさか、お父さん! 私の下着に手を出していないでしょうね!?」
「だ、だ、だ、出していない! 母さんのだけだ! 本当だ!」
思いっきり誤解を生みそうな結衣の発言に、父さんは動揺が隠せないようだ。これほどまでに焦っている父さんは、始めて見た。いつも冷静沈着な父さんからは、遠くかけ離れた姿に笑いが込み上げてくる。さすがに息子として兄として、妹の下着に手を出していたら笑えない。母さんの下着もどうかと思うが、そこはギリギリ良しとしよう。あまり想像したくはない姿ではあるが。
別に人様に迷惑をかけている訳でもなし、罪を犯している訳でもない。世間体というのもあまり、気にした事がない。
そう言えば、父さんのカミングアウトを聞いて気づいたのだが、父さんの肌は年齢の割に綺麗だ。職場の父さんと同年代くらいの人達と比べれば、一目瞭然だ。きっと、お肌の手入れも入念にこなしていたのだろう。
「それで、お店はいつオープンする予定なの?」
気を取り直して、僕が話を戻すと、父さんは今日初めて笑顔を見せた。
「三か月後を予定している。なかなか良い物件を見つけてきたのだ」
父さんはそう言うと、カバンから紙を取り出した。物件情報が印刷されたコピー用紙だ。父さんは紙を指でなぞりながら、生き生きと楽しそうに説明をしてくれた。まるで、同級生から宝物を自慢されているように感じた。
女装しなくても、十分キラキラしていた。
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