君は家族に愛されたか

千里温男

第1話

 Yの高校では、時々、出版社発行の副教材が配られることがあった。

もちろん、代金を払わなければならない。

 Yは母にその副教材を見せて代金を出してくれるよう頼んだ。

母は黙って、しかし異様に視線を尖らせながら、代金を渡してくれた。

Yはなんだかいやな気分になった。

 夜、父は帰って来るそうそう大声でYを呼んだ。

Yがなんだろうと思いながら居間に入って行くと、父がいきなり顔面を殴り付けて来た。

父の後ろで、母と二人の妹が『ざまあみろ』というような顔をして見ていた。

 Yは、わけがわからず、呆然と父を見つめた。

『なぜ殴られたのだろ?』

そんな顔をしていたのに違いない。

「母さんを騙して金を取ったダろう。母さんがこの前と同じ本だと気が突かないとでも思っているのか。今すぐ金を返せ!」

『ああ、そうだったのか』

Yはやっと殴られたわけがわかった。

 黙って居間を出て、自分の部屋に入った。

 Yは少額2年ノ時のことを思い出した。

「Y!」

母に鋭く呼ばれて、そばに行くと、

「なんで落書きした。すぐ消して来い!」

と怒鳴られた。

 口ごたえを許さない怒りと憎悪に満ちた顔だった。

わけもわからず、隣の家の門の前に行くと、隣の奥さんが母と同じような恐ろしい顔をしていた。

 黒い門柱には、

『きみこのははのばか』

と白墨で落書きしてあった。

 Yが言い訳せずに落書きを消したのは、自分が犯人だったからではない。

母の愛に絶望したからだ。

小学2年の子供に『母の愛に絶望』などという考えが浮かぶはずはない。

しかし、確かに絶望を感じた。

『この人はぼくを護ってくれる人ではない』

ということだけはわかった。

 隣の奥さんに怒鳴り込まれたとはいえ、わが子の言い分も聞かずに、あの怒りと憎悪の顔。

その時から、Yは母になつかなくなった。

母もYを愛せなくなり、それが父や妹たちにも伝染したのではないだろうか。

 Yは町内の人たちからも、『あの子はああいう子だ、と思われるようになった。

それおうまく利用したのは、むしろ子どもたちだった。

子どもたちの中には、自部のいたずらが露見しそうになると、

「Yを見た」

と言うのであった。

 落書きもガラス割りも盗難もYの仕業にされた。

戸田さんちの塀の上の猫に投げたはずの石が窓ガラスに当ってしまったことがある。

だから、結局、黙っているしかなかったのだけれど。

 中学1年の時のことも思い出した。

兄妹3人でそろばん塾に通っていた。

帰り道で蹴った石が前を歩いていた下の妹の足元に転がって行った。

石は当たらなかったはずだ。

けれど、妹は家に帰るなり父に言い付けた。

 その頃、なぜだか知らないけれど、父は松葉杖をついていた。

その松葉杖で頭を数回殴られた。

今でも、右耳の少し上に親指の頭くらいのハゲがある。

それ以来、下の妹にはもちろん、上の妹にも可能な限り近寄らないようにした。

 もう一つ思い出した。

キッチンへ入っていったら、冷蔵庫を開けていた父にいきなり缶ビールを投げ付けられた。

 缶が当たった手の痛さより、

『なぜ?』

と不思議だった。

 「ポケットに手を突っ込むな!」

父が怒鳴った。

 『口で言えばわかるのに」

と心の中で思った。

『あの時も、母さんは憎々しげにぼくを見ていたっけ』

 やはり、その頃のことだった。

母が新しい敷布団を作った。

といっても、古い布団の側を新しくしただけだった。

それでも、見た目には、柔らかそうで気持ち良さそうだった。

 父はその布団に寝転びながら、Yに言った。

「この布団あおまえには使わせん。おまえは追い出してT子に養子をとる」

 あの時、家を出るべきだったかもしれない。

けれど、まだ中学生だった…

 唇が何かで濡れるのを感じた。

指で拭って見ると血だった。

 せめて高校は卒業したい、もう半年もないのだから…

それでも、この家にいて、これ以上、鼻血や涙を流したくはない。

 『ひえつき節』は

~~

泣いて待つより野に出て見やれ

野には野菊の花ざかりよ

~~

と歌っている。

野に出よう…と決意した。

 Yはいつまで経っても居間に戻って来ない。

しびれを切らして、父親は足音も荒くYの部屋に乗り込んだ。

母親も妹たちも様子を見について来た。

 ドアは開いていた。

窓も開いていた。

机の上に二冊の参考書が並べて置いてあった。

 どちらも、セピア色の表紙に『古文詳解』と白抜きされているのは同じだった。

しかし、そのすぐ下中央に、左の本には『(上)』、右の本には『(下)』の文字が、やはり白抜きになっていた。

 Yは向かいの家の陰から自分の部屋の窓をのぞいていた。

それが生きている父を見た最後だった。

 27年後、二人の妹から連名で、父の不慮の死を知らせる手紙が来た。

たぶん、戸籍から住所を調べたのだろう。

「帰って来て喪主をつとめてください」

とあった。

Yはなやんだけれど、結局、その時だけ帰った。

 親父は、なぜ、俺の部屋を作ってくれ、高校に行かせてくれたのだろう?

その一方で、なぜ、「追い出す」と言ったり、松葉杖で殴ったりしたのだろう?

 やることが中途半端だった。

殴り方も中途半端だった。

もう少し強く松葉杖で殴っていたら、喪主になったのはおやじの方だったのだ。

その8年後にも、母の病死をしらせる手紙が来た。

その時も、親不孝と親への恨みの間で悩んだ。

(おわり)

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