第8話 食堂と嫉妬



 ––––結局あの男はなんだったのだろう? 自分が有名人だって?


 そんなことがあるわけないじゃないか、と思った。入庁してから誰かにそのことを問われたこともないし、今日みたいに話しかけられたこともなかったからだ。


 ––––自分が市長?


 そんなバカな話があるか。


 しかし久留飛くるびは明らかに、意図的だった。もしかして自分だけが知らないがあるのだろうか。


 確かに一度だけ、父親の後援会長をしていた高木たかぎ叔父に「春介しゅんすけくんは興味ないか?」と問われたことがあったが、その時は「ノー」と答えた。それっきり高木とは会ってもいないので、そんなことは忘れていたのだが。それなのに嫌なことを思い出したと思う。嫌な気持ちになると、なぜか思い出すのは天沼あまぬまのことだった。


 なぜだろう。天沼と一緒にいると心が落ち着くのだ。嫌なことが全部忘れられる気がして、彼に会いたくなった。


 やはり居酒屋から突然、帰ってしまった理由も知りたい。午前中はパソコンに向かっていても集中力のかけらもなかった。


 そうこうしていると昼休憩の時間を知らせるチャイムが鳴り出した。パソコンから手を離し、ほっと息を吐くと渡辺わたなべに声をかけられた。


十文字じゅうもんじは昼飯どうする?」


「おれ、食堂にいきます。もう何も準備する気力もなくて」


「わかる。それ! 谷口たにぐちは?」


「おれは、弁当あるんで」


「いいよな〜、彼女弁当かよ」


 ヒューヒューとする渡辺は、おちゃらけて見えるが、疲れ切っていて覇気はきがないのは誰の目から見ても、一目瞭然だった。


田口たぐちは?」


「おれも弁当です。渡辺さんはどうするんです?」


「おれも食堂でも行ってくるかな。一緒に付き合え」


「わかりましたよ」


 十文字は渋々と渡辺と席を立った。一人でのんびりとしたいのに、誰かが一緒だと気を使うから面倒だと思った。天沼の件だけでなく、久留飛とのこともあって、一人で考えたいことばかりなのに、渡辺と一緒というのは気乗りしなかった。


 混み合っている食券販売機で、日替わり定食を選んでからおばちゃんに提出する。「56番と57番ね」と無愛想そうに言われてから他の職員たちと一緒に待ちぼうけだ。


「それにしても、今日は激混みだな」 


 渡辺の言葉に上の空で答える。


「みんな疲れている時期ですからね」


「だな」


 大した会話をしていなくても効率的に回していくおばちゃんたちのおかげですぐに番号が呼び出された。今日の日替わり定食のメニューはアジのフライ。ありきたりで食欲も湧かないが、ここで食べておかないと残業までたどり着けない。二人は気合を入れて箸を取り上げた。


「もっとこう、うまそうな目新しいメニューはないもんかね」


「ですね」


「庁舎が新しくなったら、豪華レストランとか入ってくんねーかな」


「そしたら気軽に食べられないじゃないですか。安くていいんですよ。食堂は」


「そりゃ、お前。正論だ」


 渡辺はちっと舌打ちをしてからキャベツにソースをかけた。そんな様子を見てから、ふと見知った顔を見つけて箸が止まった。


 あれは。天沼。彼は少し小太りの眼鏡男と一緒だった。ニコニコと笑顔を見せ、男の話に頷く。先日の係長ではないなと思っていると、渡辺が十文字の視線を追ったのか「ああ」呟く。


「え?」


廣木ひろきだろう? 企業立地課長の」


「知っているんですか?」


「有名じゃん。澤井さわい副市長の取り巻きの一人だよ。口悪くてさ。みんなに嫌われてる」


「そ、そうなんですね」


 でもなんだか楽しそうじゃない。天沼の笑顔に廣木も笑顔を見せる。二人はなんだか楽しそうだった。課長って、あの夜に電話を寄越した男だ。あんな遅い時間に、しかも電話が終わってから彼は逃げるように帰っていた。 


 ––––本当に帰ったの?


 もしかして呼び出しされたんじゃ。課長と二人で昼食なんて普通はない。


「……気に食わないの」


「え?」


「あ、なんでもないですよ」


 気に食わない。十文字は素知らぬ振りをしてフライを頬張るが、内心はムカムカとして落ち着かなかった。







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