三章8 『図書館の姫 その8』

「黒茸様、あちらをご覧ください」

 オモヒメにそう言われて僕は、指差された方を見やった。


 峻険(しゅんけん)な山、その洞窟の前にひょろっとした緑の肌の男がいた。

 火星人じゃない。それにあの雰囲気、どこかで見たことがあるような……。

 ちょっとばかし考えて、「あっ!」と思いつくものがあった。

「雷神さんに似てる、あの人」

「ええ。おっしゃる通り、あの方は火星の雷神様なのですわ」

「へえ……、火星の」

 まじまじと見やったが、どうも神様の威厳を感じない。近所の優しそうなおじさん、という雰囲気だ。


「そういえば、火星ではあまり雷が落ちないね。雨はちょくちょく降ってるけど」

「降水量を生物が生きるのに必要なぐらいに、雨の神調整しているのですわ。雷も同じで、雷神様が生物の生活の妨(さまた)げにならないようにしているんですの」

「神様も生物に気を遣ってるんだね」

「はい。火星に住む者は、互助(ごじょ)精神と思いやりの心を誰もが持っていましたの」

「素敵な場所だ。本当に楽園じゃないか」

 僕は素直に感嘆の息を漏らした。


 オモヒメは大きくうなずいて先を続ける。

「その通りです。誰もが皆平等で、抜け駆けはなく、娯楽は勝敗のないものでほぼ統一されています。闘争本能を持っている者はなく、またそれを掻き立てるものもない。世界平和を実現させた数少ない場所ですわ」

「……夢物語じゃなかったんだ、平和って」


「平和を実現するのは、机上では簡単です。けれどもああして実現するのは、必然という名の奇跡がなければなりません」

「よくわからないな」

「つまり誰もが最初から、毛ほども争いを頭に思い浮かべないことが重要なのです」

「禿頭(とくとう)になっちゃうね」


 僕の茶化しを無視して、オモヒメは話を進める。

「生物の思考回路は、遺伝と生まれ育った環境によって構成されていきます。人間の科学がどういう結論を出しているのかは知りませんが、少なくとも神の間では人間の子は親とその周囲の人々が子の性格を作っていくと論じられています」

「でも、双子でも性格が異なることがほとんどじゃないか」

「そうですね。けれども、もっとも子供の身近な存在である親の影響をまったく受けないと考えるのはいささか暴論が過ぎると思いません?」

「どうだろう。僕はそもそも、親に育ててもらった記憶がないからね」


 そう僕が言った途端、オモヒメは「あ……」と口を押さえて、気まずそうに俯(うつむ)いてしまった。

「ごめんなさい。配慮が足りませんでしたわね」

「いや、いいんだ。僕は両親がいないことで何か不自由を感じたことはない。不満といえば呪いぐらいのものさ。あとこの見た目だね」

 大げさに声を立てて笑うと、オモヒメはちょっと困った様子で小首を傾げた。

「でもまあ、なんとなく言いたいことは分かるよ。『親の背を見て子は育つ』っていう言葉もあるぐらいだしね」

「もっとも、そう上手くはいきませんけどね。よくも悪くも子供は純粋であり、また天邪鬼(あまのじゃく)でもありますから」

「オモヒメはどうだったの?」


 彼女は一瞬きょとんとした顔をしていたが、ふと吹き出して謝ってきた。

「ごめんなさい。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなくて」

「いや、いいんだ。確かに僕の質問はおかしかったかもしれない。少なくとも神様にするようなものじゃなかったね」

「いいえ。神にも家系図があるという発想は誤(あやま)りじゃありません。ギリシャ神話にも日本神話にも、繁殖行為すら存在するのですから。そもそも神は自分達を模して人間を生み出したことになっているのです」

「なっている?」


 僕が首を傾ぐと、少し申し訳なさそうに声を潜めてオモヒメは言った。

「ごめんなさい。実は知恵の神であるわたくしにも、その真相は少し曖昧なのです。なにせわたくしが生まれるより前の話なので……」

「そうなのか」

「それにわたくしは人間の記憶は覗けども、神のものとなるとちょっと……」

 言いにくそうにして、口をつぐむ。

 はっきりと明言しなかったが、大体の事情を察することができた。


「ごめんなさい」

「謝(あやま)ることはないさ。僕は君のおかげで今、色んなことを知ることができているんだから。感謝はしても、恨むのはお門違いさ」

「お心遣い、感謝いたします」

「いやいや。それで、さっきの問いなんだけど」

「ええと?」

「オモヒメのご両親のことさ。でも言いたくないなら、別に無理しなくてもいいんだよ?」

 僕の言葉にオモヒメは「くすくす」と声を立てて笑った。

「無理などまったくしておりませんわよ。わたくしは神。神託をどう下すかは、自分で決められますのよ」


 そう前置きしてから、彼女は話してくれた。


「わたくしも覚えているのは父上の顔ばかりですの。母上は、霧がかったように思い出せませんのよ。でもそういう宿命なのかと思って、とっくの昔に把握するのは諦めていますわ」


「すごいなあ。僕は未(いま)だに母親の存在を考えることがあるのに」

「人それぞれですわ。それに忘れなければ、きっとそれが実ることもあるでしょう」

「実るって、僕が訊くと、オモヒメは「ええ」とうなずいた。


「諦めなければ夢は叶う。意外とこの金言(きんげん)はバカにできませんのよ」

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