二章6 『スローペースはドリームライフ その6』

 公園で手早く――でもよく噛んで味わいながら、腹ごしらえをする。


 僕はパンが好きだけど、その中でも『エイコーン』のものが一番好きだ。確かに変わり種が多いけれど、それでもすべてのパンに愛情を感じる。どれも味わい深く、素材それぞれの良さを活かそうという心意気を感じる。

 もちろんそれが空回りしていることもあるけど、でもまず手を抜いていることはない。この苺大福パンも苺がジャムのようになって変に餡(あん)と絡んでしまっているせいで、いささか味がケンカしている気はするが、それを大福をくるんでいる『エイコーン』こだわりのパン生地が仲裁してくれているおかげで、食べられる味にはなっている。

 普通の店なら試食の段階で陳列棚(ちんれつだな)行きは見送りになるだろうけど、『エイコーン』はそういったものも商品になっていることがある。おそらく作ったパンに我が子のような――もっとも世の中には子に対して酷く非情な親もいるけど――深い愛情を抱いているせいで、いかに落ちこぼれな出来であっても、一度は日の目を浴びさせてやりたくなるのだろう。

 かくして『エイコーン』には平均的には美味しいパン屋さんだが、時に風変わりな商品が混じっていることもある。常連の一人が店内で『ロシアンルーレットのようだな』と呟いているのを聞いたことがあるが、言い得て妙だなと思った。


 メロンパンを食べ終えると、急激に眠気が意識を羽毛布団のように覆ってきた。

 春の陽気もあり、頭の中がぼうっとして睡魔が『おいでおいで』しているのが見えてくる。おそらくその先に広がっているのは夢の世界で、足を踏み入れるなり眠りの底へ引きずり込まれてしまうのだろう。

 いつもなら抗うことなくその誘惑に負けるところだが、今日ばかりはそうはいかない。

 体に鞭打ってベンチから立ち上がり、籠を背負って歩き出す。

 目指すは山田さんの所有する山――山田山だ。

 山田山――なんと読むかわかるだろうか?

 二択だから、正解者はかなり多そうだが。


 チクタク、チクタク、チクタク……。


 はい、時間切れだ。

 正解は『やまだやま』である。

 上から読むと山田山、下から読んでも山田山として地元民には親しまれている。

 山田山で採れる山菜は美味しくて、休日にはよく山田さんに許可を取ってから山菜取りを楽しむ者もいるそうだ。

 ただ注意しなければならないことがある。

 たまに山田山の隣にそびえる、神がおわすと言い伝えられている神鳴山(かみなりやま)から熊(くま)がひょっこりやってきて、散歩していることがあるということだ。

だから山田山に入るには、熊よけの鈴を持っていかなければいけない。


 山田山の前に着いた僕は、ウエストポーチから鈴を取り出して紐の部分をポーチにきゅっとしばりつけた。腰を揺らすとチリンチリンとちゃんと音が鳴る。うん、バッチリだ。これなら熊も『チッ、人間のヤツか。しゃーねーな、今回は見逃してやるか』と思ってくれることだろう。原理的には別の理由があるようだけど。


 僕はざくざくと土を踏みしめて山に入った。

 雨上がりの湿った土と木々の臭いがぷんと鼻につく。

 最初はちょっとキツイ臭いだなと思ったが、次第に気にならなくなってくる。足場は少し滑りやすかったが、慎重に進んでいけば大丈夫だろうといった感じだ。


 山菜は少し奥まった場所で群生しているらしい。

 秋にはキノコも生える、山の恵みの宝庫だとのこと。


 最初は少し熊に怯えておっかなびっくり進んでいたが、次第に山登りが楽しくなって恐怖心は薄れていった。

 気分が高揚してくると、自然と口からある一節が漏れてくる。

「娘さん、よく聞けよ」

 とその瞬間。

 目の前に小さな白い物体が現れた。

「……娘さん?」

 ではなく。

 兎(うさぎ)である。白い毛の。いやまあ、娘さん|(メス)かもしれないけど


 兎はこちらに向けたお尻についた、丸いぽんぽん尻尾をふりふりと揺らしている。

 可愛い。

 破壊力抜群の可愛さだ。連れて帰ってペットにしたくなってしまうぐらいに。

 しかし悲しいかな、うちのアパートはペット厳禁だった。無念。

 仕方なしに僕はこの両目にこの愛らしい生物の姿を脳裏に明瞭(めいりょう)に焼き付けることにする。


 僕にじっと見られているにもかかわらず兎は呑気にくんくんと鼻を鳴らしている。この周辺に何か臭うものでも……はっ!?


 僕はあることに思い至る。

 もしかして兎が感じ取っているのは……僕の体臭なのではッ!?

 朝に確か頭からイカ臭いものを撒き散らしたから……。ちゃんと念入りに体を洗ってきたのだけど、臭いが落ち切っていたかったのか?


 耐え難いショックに僕は地に膝をつき、がっくりと肩を落とす。

 もしかしたら今日会った人達にも、小倉さんや山田さん、もしかしたらまっちゃんにも臭いって思われてたのか!?


「ごめん……。ごめんよ、まっちゃん」

 謝罪の言葉が漏れてくる。

 悲しみに視界が霞む。

 飲食物を扱(あつか)っているパン屋に僕のような存在自体が営業妨害なヤツを来店させるのはさぞ気が進まなかったことだろう。それでも常連だからと、イヤな顔一つせずに接客してなおかつ会話にも応じてくれたのだ。

 ああ、なんて聖母のように優しい心を持っている子なんだ。

 それに比べて、僕は……、僕は。


 もしもここが個人の所有地ではなく、ただの国有の山だったら、今すぐ首を吊れる木を探しに駆けだしていたことだろう。いやまあ、ロープは持っていないが個人所有ではない山の中にはマナーの悪い登山家の廃棄物が至る所にあり、その中にはロープもある。

 だからやろうと思えば――それは絶対に許されることではないけど――手ぶらで山に来て首吊りを決行するのも不可能ではないのだ。ただその手のロープは腐っていることも多く、いよいよ息の根が止まる瞬間に体重に耐えきれなくなって切れるという尻切れトンボならぬ紐切れとんまなオチもありうる。

 それは命を粗末にしてはならぬという、山の神の戒(いまし)めなのかもしれない。

 ……いやまあ、だったらマナーの悪い登山家に天罰を下せよって話だけどね。

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