第16話 『家庭環境』正常?

 ────早朝 茂木家のリビング


 再び時間を少し過去へと戻そう。

 先の話ではニチアサに藤田奈緒が家に押し入りお姉ちゃんパワーが高まったといった類の話で終わったが、ここから始まるのは茂木恋が藤田奈緒を更生した次の日の話である。

 なぜこんなに話を詰め込む必要があるのかという話だが、特に理由はない。

 物語の登場人物たちは大抵過密なスケジュールをこなすものなのである。

 サザエさん時空の物語は過密など通り越して、並行世界の話を放送しているという噂もあるが、この茂木恋のお話はそうではないので安心していただきたい。


 学校の準備のために、藤田奈緒が寝ている間に彼女の家を飛び出した茂木恋。

 自転車で朝7時に家に帰る彼を、朝ごはんを作っていた母が「朝帰りお疲れちゃんでーす」と妙なテンションでいじってくるのを無視し、冷蔵庫の中から麦茶を取り出しそれを牛乳と混ぜた。


 すでに起きて席についていた茂木恋の妹──茂木鈴は奇行を見る目で彼を見た。


「お兄ちゃん何やってるの……牛乳と麦茶って……ここはサイゼのドリンクバーじゃないんだけど」

「ドリンクバーで牛乳を取り扱ってるファミレスはないぞ」


 場所によってはミルクを提供してくれるファミレスもあるらしい。

 お店の人に相談しよう。


「例のお姉ちゃんの家で飲んで美味しかったから家でもやってみたくてさ。鈴も飲んでみるか?」

「えー? 絶対マズいよ」

「マズくはないって。砂糖の入ってないミルクティーみたいな味がする」

「なんか美味しそうに思えてきたかも。お兄ちゃんちょっと飲ませて」


 茂木鈴が兄のグラスをヒョイと奪い取る。

 10年以上兄妹を続けている茂木鈴にとって、口をつけたところで飲まない限りは間接キスにならないので、これは間接キスではなかった。

 牛乳麦茶を一口飲むと、茂木鈴は渋い顔を浮かべる。


「私は好きじゃないかなー。お兄ちゃんもしかして味覚音痴?」

「そんなことないだろ! 美味しいと思うんだけどなぁ……」

「そういえばお兄ちゃん、私の料理も美味しい美味しいって食べてくれるし、本格的に味音痴かもしれない……」

「自分を蔑んで楽しいか妹よ」


 茂木鈴は自分の料理に自信がない。

 家族では彼女の料理をありがたそうに食べるのは茂木恋くらいであった。

 茂木恋も藤田奈緒も味音痴なのであろう。


 そうこうしているうちに焼き上がったトーストと目玉焼き、そしてサラダがテーブルへと到着した。

 半熟の目玉焼きは茂木恋の好物であった。

 茶碗蒸しの件もであるが、茂木恋は卵料理が好きだった。


 藤田奈緒の更生が、攻略が終わり、茂木恋は次なる少女のことを考えていた。

 残された『病み』少女──水上かえでについてである。


 初め、彼は水上かえでの病みは受験に失敗し家庭内でそれを責められたからだと勘違いしていた。

 酷いケースでは家庭内での虐待まで疑っていた。

 しかし、蓋を開けてみれば例のフワフワとした母親である。

 あんなグラマラスな身体をした子持ちの女性のブラジャー姿は忘れようとしてもそうそう忘れられるものではない。

 アダルトビデオの人気ジャンルに人妻が食い込むJapanese Hentaiに育てられた茂木恋の性癖が広がったかどうかはさておき、あの母親が水上かえでを追い詰めるとは考えられなかった。


「母さん、うちってかなり家庭環境がいいと思うんだけどさ」

「どうしたのよ。大学行かずにニートしようたって無駄よ」

「いや、会話の先読みと飛躍が恐ろしすぎる! そうじゃなくて、俺たちは結構健全に中学高校まで成長してるわけだろ? でも中にはグレちゃってヤンキーになるやつだっているわけじゃん?」

「お兄ちゃんは毎晩毎晩女の子を取っ替え引っ替えするクズ野郎だけどね」

「どうしてこんな風に育ってしまったのかしら……これも奈緒ちゃんに報告ね」

「鈴、言い方!!!! それとやっぱり奈緒さんに情報流してたの母さんだったんだな!? まじで困ってたんだから勘弁してよ……」


 茂木鈴の指摘はまるっきし当たってるので否定のしようがなく、茂木恋に大ダメージを与えた。クリティカルヒットである。

 話が進まないと思った茂木恋は、彼女たちの小言を無視して話を進めた。


「とにかく、俺は家庭環境が良いからグレないですんだと思ってる。でも、家庭環境が良い……それもとびきり。そんな環境で、精神を病んでしまうとしたらどういうパターンが考えられる? 母さんとかご近所付き合いでそういうの知らないか?」

「とびきり良い家庭環境ってどういう話をしてるのかお母さん分からないわ?」

「両親が娘を溺愛してて、叱ったりそういうのはなさそう。娘のやりたいことならなんでも応援してくれるし、本当になんでもできると思ってる。それに家はかなりの金持ち。要するに両親とも親バカな家庭を前提にして欲しい」

「お兄ちゃんはそういう家に生まれたかったの?」

「いや、友達の話だ」


 茂木恋は妹の質問が的外れだと一蹴する。

 しかし、母はこの話の本質をすでに見抜いていた。


「恋、今のが答えだからしっかり考えなさい。あなたは本当に、金持ちで優しくて少しエッチなお母さんのいる家庭で育ちたかったのか」

「少しエッチは余計だ。…………俺は……確かにそういう家庭に生まれてみたいってのは少しある。でも……今のこういうバカな話を母さんと鈴とできる方が楽しいと思うから、俺は今の家の方がいいな」

「それが答えよ。たまにいるのよ、自分の娘息子を絶対にしからない親、なんでも与えてしまう親。お母さんが見てきた限り、そういう育て方をして失敗したご家庭は結構あるわよ」

「そうだったんだ……」

「恋の言ってるそのお友達はきっとわがままな子でしょう? お母さん会ったこともないけど分かっちゃうわ。一度お家に呼んでその性根を叩き直してあげるわ。ついでにご両親にも子供の教育方法を伝授してあげちゃうわよ」


 突然やる気を出した母親。

 しかし、残念なことに彼女の予想は外れていた。

 茂木恋に微妙な顔をして言葉を返す。


「いや、その友達はすごく良い子だよ。人に何かをねだったりもしないし、それは別に俺に対してだけじゃなくて、両親に対してもそうだと思う。金遣いが荒いとかはなさそうだし。少なくとも鈴よりは良い子だと思う」

「お兄ちゃん何それ最低! 私が悪い子だって言いたいの!?」

「待て待て、鈴も良い子だと思ってるぞ。でも、その友達はそれ以上に良いやつなんだよ。むしろ、彼女以上にしっかりした人はいないんじゃないかってくらい。鈴はちゃんと毎日2時間勉強してるか?」

「週末なら……たまに? 1ヶ月……いや2ヶ月に1日くらいなら……」

「そういうことだ。後、母さん、彼女の両親はお医者さんね」

「っ!? そういうことは早く言いなさい恋! 相手が医者じゃレスバに勝てる気がしないわ! 絶対我が家にご両親を招くようなことはするんじゃないわよ! いいわね!?」

「最低すぎだろうちの母さん!」


 茂木恋の母は勝てぬ戦はしない性分なのであった。

 トーストを食べ終わると茂木恋は目玉焼きの目を突いて醤油をかける。


「とにかく別次元のご家庭であることはお母さんにも分かったわ。両親はお医者さんで娘を溺愛する親バカ、その娘さんは謙虚で努力ができて恋が好きになるくらい顔がいい」

「顔がいいは余計だ。確かに顔いいけど」

「お兄ちゃんやっぱりこの話、取っ替え引っ替えしてる女の子の話だったんだ……! 最低!」

「だから言い方が悪すぎる!」

「とにかく、お母さんから言えることはさっき言った通りよ。恋はそんな家で暮らしたい?」

「俺がその子の家で暮らしたいか……」

「もし、その家の子どもになったときのことを考えてみなさい。そうすれば、きっとそのお友達の悩みが分かってくるかもしれないわよ?」


 母はそういうと茂木恋のサラダにゴマドレッシングをかける。

 丁度ゴマドレッシングを使い切った母は満足して、自分の食事を続けた。


 茂木恋は母からの言葉を考えつつも、シーザードレッシングが良かったなと文句を呟くのだった。


 *


 ────2時間目 化学


 朝帰りした茂木恋はその後、普通に登校し普通に授業を受けていた。

 今日も今日とて主人公席である。

 席替えはしないのか?という疑問は出て当然であろう。

 しかし、席替えはなかったのである。

 茂木恋のクラスは男子クラスということもあって、他のクラスより勉強に力を入れていない生徒が多い。中間テストのクラス平均が学年最低になることも必然であった。

 その結果、クラス平均が学年平均を上回るまで席替えを取りやめるという強行手段に担任の先生がでたこともあり、茂木恋はこの快適極まりない席で授業を受けることができていたのであった。


「質量数の話をしたわけだけど、元素番号と陽子の数は一緒だったわけだろ? ということはだ、原子に含まれる中性子の数は、計算でもとめられるわけだな? プリントにそれについての問題があるから、ちょっと解いてみろ」


 白衣を纏う40代の化学教室はプリント学習を生徒に促すと、パソコンを開いてカタカタと作業を始めてしまった。


 茂木恋は普段からデートの一環として勉強をよくしているので、学習に遅れはなく、早々にプリントを終わらせると、遠くに流れる雲を眺めながら考え事にふけっていた。


「(水上さんの家庭が幸せなのか、ねぇ……。俺だったら何一つ不自由ない生活は悪くないと思うんだけど…………今朝みたいに家族と漫才みたいにツッコミ、ツッコまれ……まあ俺がツッコんでばっかりなんだけど、そういう駆け引きがないって思うとちょっと退屈かもしれないな)」


 ふと隣を見ると、丸刈り野球部修学旅行女子風呂覗き助平野郎の田中太郎が寝息を立てていた。

 スタバの注文のようにプロフィールを盛られた彼とも、茂木恋は馬鹿話をする仲である。

 そこで、茂木恋はあることを思い出した。


「(そういえば水上さん文化祭に来たとき「聖心高校に入ってたらこういうワイワイした学校生活になったのかな」的なことを言っていた。これは彼女の心の内を知るためのヒントじゃないのか?)」


 茂木恋は化学のプリントに間違いがないか一応チェックしながらヒントについて考える。

 ついでに隣の田中太郎を起こそうと肩をツンツンするが、彼が起きるよりも前に先生が見回りにきて田中太郎を水道へと連れ去った。

 顔を洗うのは眠気覚ましになる。


「(水上さんが普通の学生がやってるような人との付き合い方とかができていないことを気にしているという説は十分ありうる。だけど、それがどうして自傷行動に繋がってしまうのかが全くわからない……リストカットなんてしたら、寧ろ馬鹿話なんてできないからな。リスカ痕を話のネタにできるような肝の据わったお友達は普通いない)」


 自分で出した説を否定する茂木恋。

 水上かえでについての思考はなんこうしていた。

 ため息をつくと、今朝母から言われていたことを思い出す。


「(もし俺が水上さんの家の息子だだったらどうだろう。中学のころ勉強とか一切しないけど、きっと怒られないだろうな……でも、なんだかんだ親が医者だと医者とか目指しちゃうのかな? そしたら附属高校受けて、でもやっぱり落ちちゃって仕方なく特待取れた光琳高校に入学してさ『恋は頭がいいから光琳でもお医者さんになれるわ!』とか優しい声をかけられるんだろうな。成功すれば褒められて、失敗しても褒められる。なんだか不思議な気分だろうけど、まあ褒められるなら悪い気はしない……)」


 一度、茂木恋の思考がそこで止まる。

 彼の考える彼女の家での両親からの対応は、どう考えても普通ではありえない。

『失敗しても褒められる』という教育方法はあながち間違いではない。

 しかし、病的なまでに自分の行動を正当化される環境を、果たして彼女は受け入れていたのだろうか、という疑問が茂木恋の中で浮かんでいた。


 水上かえでの境遇は普通ではない。

 しかし、水上かえでは至って「普通の女の子」だったのかもしれない。


 良いことをすれば褒められ、悪いことをすれば叱られ、成功すれば一緒に喜び、失敗すれば心配されこれからについて考える……通常当たり前に行われるコミュニケーションの流れが、水上家では正常に働いていない。

 このことに彼女が不満を抱いているとすれば……


「(そうか……やはり水上さんが『病み』に入ってしまったきっかけは受験の失敗。そして、それに対する両親の反応だ。確かにリストカットは彼女が欲しかったアクションを引き出すのにうってつけだ。彼女が自傷行動に走ってしまった原因は……)」


 茂木恋の思考が加速する。

 圧倒的恋愛偏差値を持つ彼は、一度掴んだ解決の糸口を離さない。

 そして、一気に本件の解決までの道のりをイメージし、彼は左手を押さえた。


 掌をよく見ると青い血管が張り巡らされている。

 それらは手首に繋がり、肘まで伸び、そこから先は半袖のシャツに覆われて見えない。

 血管を強く意識すると、自然と手の力が抜けていくのを感じた。


 それでも彼は力一杯握り拳を作り、覚悟を決めた。

 作戦の決行はやはり今日の放課後のマックでの勉強会。

 今日こそが茂木恋にとってベストなタイミングだった。

 むしろ、今日を逃すと作戦に違和感を感じられるかもしれない。


 白衣を着た化学の教師は、パソコンを打つのをやめて立ち上がる。


「そろそろいいかー? じゃあ誰に答えてもらおうかなぁ。お、茂木。お前なんだその髪型は。チャラチャラしてたかと思ったら、いきなりおぼっちゃまヘアーとは随分な更生ぶりだな? 目立つから、今日が茂木に答えてもらうか」


 茂木恋はプリントを持って、立ち上がる。


 藤田奈緒の一件で彼は今、前髪パッツンのおぼっちゃまヘアー。

 この最高に失敗した状況を利用しない手はないと彼は前向きに考えるのであった。

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