第51話 戦い終わって……
九回の表、直史は投げる。
ジンのリードにすら首を振って。この試合に限って言えば、ジンの判断力には信用が置けない。
三者三振。
西郷の目の前で最後のバッターがアウトとなり、試合は終わった。
終わってみれば21-9という圧倒的なスコア。
しかし最後まで、感じる圧力は変わらなかった。
整列する。直史の前には、体重が倍ほどもある西郷。
礼が終わった後、西郷が直史に声をかけた。
「上杉さぁがおらんくなって、野球もちと面白くなかと思ったけど、おはんもたいしたもんぞ」
日本語で喋れと言いたくなった直史であるが、意味が分からないわけではない。
「俺は大学行ってプロには行かないから、もう戦うこともないだろうけど」
「いかん!」
ぶお、と効果音と共に大きくなる西郷の姿が幻視された。
「おはんはプロに行かんといかん! 上杉さぁと投げ合わんといかん!」
冗談ではない。
あんな規格外の人間と、投げ合っては勝てないではないか。
まあそれ以前に、プロは本当に、直史の将来には存在しない。
西郷は最後まで、直史を見つめていた。
彼がプロ志望届を出さず、大学に推薦入学するのは、この時の直史の言葉が原因である。
甲子園名物のお立ち台。
春もあったが、今回のセイバーは完全にお飾りであった。
データを出すでもなく、本当に何もしなかった。
直史の選手交代を了解しただけである。
選手に全て任せていました。
正確には、今日の試合に限って言えば、直史が、直史だけがまともであった。
三イニングを投げてパーフェクトの直史に、おそらく二度と更新されないであろう、一試合五連続ホームランを放った大介。
ここに150kmを投げた武史の姿はない。
試合が終わる前、まだ着替えてもいない彼を、双子と早乙女に任せて、とある場所に送っていた。
医者のところである。
試合が終わって整列し、礼。
それ以前、水島に交代と言われた直後、武史は肉体の各所からの痛みに襲われた。
向かった先は関西を拠点とした某球団の選手も度々お世話になる、スポーツドクターの下である。
単純な外科的診断だけでなく、筋肉を専門に診る整体師も在籍している。
とりあえず、腱や骨には異常はない。
しかし炎症を起こしているのは間違いなく、全身が肉離れ寸前であると言われた。
「まあ一回戦で良かったですね。私も見てましたが、一年生でこの球速、上杉以来の衝撃ですよ」
筋肉を揉みながら語りかける40絡みの整体師。いや、上杉はたった三年前の話である。
「しかもサウスポー! ロマンがありますねえ。やっぱり将来はプロ志望なの?」
付き添いの早乙女は、はあ、と応えるしかない。
なお、普段はペット扱いしている武史が心配で一緒に来た双子は、チアの姿のままだったので、部屋の隅に退避している。
ここに来るまではもじもじと恥ずかしそうにしていた。そういうところをもっと大介に見せれば、勝率は上がるだろうにと武史は思ったものだ。
「プロって、俺が?」
そういうのは、選ばれた人間が行くべき場所だ。
「私もねえ、高校時代は野球でピッチャーやってたからね。弱かったけど。この仕事に就いてからいろんな人の筋肉見てきたけど、君はほんとにプロ並じゃないかなあ」
そこまでか。
150kmを投げた吉村は、プロのドラ一候補である。
思えば自分の投げた球は、そのスピードを上回ったのだ。
並び立ちたいと思っていた。
誰と? やはり兄と。
けれど直史や大介と比べると、自分の才能には自信が持てなかった。
誰かの横に。
その像はなぜか、ぼんやりとイリヤの姿になった。
「でも、もう今年は投げない方がいいかな? いや、投げられないかも」
その言葉が一気に武史の頭を冷えさせた。
「投げられないって、そんなにひどいんですか?」
「いや、そうじゃないよ。実際にそう、ちゃんと揉み解したら、次の試合直前には回復してるとは思うよ」
それならなぜ、そんなことを言うのか。
「今日、君は今までになく筋肉を限界まで使ったせいで、筋肉痛になった。つまりこれから筋肉が回復して急成長するんだけど、その状態で今まで通りのコントロールを求めるのは無理だと思う」
ものすごくまっとうな理由であった。
直史でさえ、成長期で体に痛みがあった時は、無理な投げ込みは行わなかった。今も急に筋肉を付けるのは避けている。
体を作るよりも、その体をコントロールすることを重視する。だから当初の予定よりは、直史の球速は上がっていない。
今でもおそらく、ただ球速だけを考えて投げるなら、140kmはコンスタントに出せるだろう。
しかし求めるのは球速ではなく勝利だ。それを考えるなら、球速は後回しになる。
この夏、もう一度マウンドに立てるだろうか。
そう考える武史の脳裏に思い浮かぶのは、イリヤの姿であった。
彼女なら、自分のこの状態を、どうにかしてくれるのではないか。
不安になる武史を、珍しくも双子が心配そうに見つめていた。
二回戦の相手は、名徳高校に決まった。
正確な名称は、名古屋聖徳高校。ここも割とスポーツ強化をしだしたのは最近で、三年前に初出場してから、今年が春夏合わせて三度目の出場となる。
監督も甲子園の采配に慣れてきて、春のセンバツにも出ていた。そして前評判通りに、正統派で強い。
10-1と勝利した一回戦の様子を見ればそれも分かる。初回の一点は守備の緊張からのものであり、その後はちゃんと持ち直した。
試合の観戦を終え、宿に戻ってきた白富東。
武史は先に戻っていて、既にくか~と眠っている。
「それで、具合は?」
「激しい運動は禁止。軽い運動はむしろ推奨。三日間マッサージに通って、その様子を見てからになるけど、ピッチャー以外なら多分問題なさそうだって」
早乙女の言葉に、セイバーだけならず選手たちはほっとする。
ピッチャーとして投げられなくても、武史の打力は必要になるだろう。
二回戦には中五日、それに間に合わなくても、三回戦は中三日である。
それまでに投げられるようになっていれば、充分に戦力になる。
甲子園が過酷になるのは、準々決勝以降だ。
そこまで投手を温存できれば、優勝出来る。
椅子文化で育ったため、正座の出来ないイリヤは、特別に窓際のチェアに座っている。
その前に正座している双子は、ちょっと嫌な汗をかいていた。
兄である直史からの連絡で、イリヤは選手や関係者の泊まる宿にやって来ていた。
彼女が「困ったわね」と言ってしまったから、今日はイリヤ記念日。
「貴方たち、事務所と契約した時、ちゃんと契約書見なかったの?」
事務所に所属する乙は、そのイメージが持つ商品価値を保つため、異性との性交渉に及ぶ関係を結ばず、それを示唆する行動や言動も行わない。完全に当てはまっている。
契約書、怖い。
「だって……」
「だっても明後日もない!」
「しかし……」
「しかしもカモシカもない!」
イリヤが厳しい。
仕事に関してさえフリーダムな女だが、他人の仕事には厳しいのだ。そして自分には甘い。最低なタイプの人間だが、芸術家であることでかろうじて許されている。
「だいたいね、大介みたいな人が、尻軽な女の子を好きになると思ってるの?」
イリヤは双子の扱い方に習熟しつつある。
おおよそ大介の名前を持ち出せば、二人はちゃんと話を聞く。
聞いたところでちゃんと行動するとは限らないが。
「大介君は清純派巨乳が好きだと思う」
「大丈夫。私たち両方処女」
念のために見ていた直史、それにセイバーと早乙女は頭痛を覚える。
「清純派は自分の貞操を軽々しく口にしない」
直史の当然の指摘に、はっとする双子。こいつら本当はバカなのではないだろうか。
しかしイリヤは違う部分を問題にした。
「へえ、処女ねえ……」
すっと立ち上がり、左右に双子を見る。
直史の知る限り、双子が異性と性交渉をしていた気配はない。同性とは少し怪しいが。
表情を隠すためか俯いている桜の顎先を、指でくいと持ち上げる。
顎クイである。
そしてそのまま、べろりと桜の頬を舐めた。
「こいつは嘘をついてる味だぜ」
「オタクか!」
突っ込んだのは何故か早乙女であった。
あのアニメは海外でもやっていたので、早乙女も知っている。と言うかイリヤのマネージゃーである姉が、楽しそうに押し付けてきたのだ。
ああ、なるほど。寝室以外の部屋には割と自由に出入りするイリヤなら、あれを見ていてもおかしくはない。
イリヤはインプットする。
彼女は創造する天才であるが、それは無からの創造ではない。
だから様々な、それこそアニメだろうが野球だろうが、何かをインプットしなければ創造がない。
「あんたたち、処女かもしれないけど、ペットボトルオナニーぐらいはしてるでしょ?」
直史は気が遠くなった。
ペットボトルオナニー。いや、そんな自慰行為など、彼には知識はない。
だがその二つのワードが重なることで、凄まじいパワーワードと化している。
ペットボトルオナニー。
詳細を知りたいような、知りたくないような。
いや、やはり知りたくない。
直史の性癖は歪んでいるが、基本的にオナニーは健全な部類のものしか行わない。
「イリヤそんな、私にも良く分からないけど、ドラゴンカーセックスみたいな言葉を……」
今度はセイバーが狂った。
なんだそれ。
ドラゴンという車でのセックスなのか、ドラゴンとカーセックスをするのか、ドラゴンと車がセックスをするのか。
パワーワードすぎて、直史には付いていけない。いや、正確には付いていきたくない。
「あ~、じゃあ俺は部屋に戻るんで、あとはよろしく」
「待ってお兄ちゃん!」
「おいてかないで~!」
「だが断る」
直史は異常者たちの集まる部屋を出て、大部屋に戻る。二回戦の対戦相手を研究するため、そして未知の強豪を見るために。
「お帰り~。で、妹さんたちどうだった?」
テレビの前の中心に座るのはジンで、画面に映っているのは今日の甲子園のハイライトだ。
「まあ、あっちはどうにかなりそうだ。で、これは?」
「すげえわ。スポーツニュースだけじゃなく、全部の局で今日の試合やってる」
「まあ、派手だったからなあ」
白富東 対 桜島実業
この試合は進むにつれどんどんと視聴率が上がっていった。
途中で武史が三振を取り出した頃から少し横ばいになったのだが、その連続三振が続くにつれまた上昇。
大会初日で注目は高かったとは言え、試合終了直前には45%の視聴率を記録した。
ここ最近、特にネットが普及して以降、甲子園に限らずテレビの視聴率は下がりつつあるが、逆に今日のような試合だと、途中からもどんどんと上がるらしい。
SNSでもトレンドになっているし、既にハイライトであるホームランシーンを編集した動画がネットには流れている。
白石大介の名前が、トレンド一位になっている。
そして二位がホームランだ。
他には桜島、薩摩、チェストなど。
なおエゴサすれば、直史の名前が出てくる。まあこちらは擁護の声もあるが。
直史は初回と八九回、一人のランナーも出さないパーフェクトピッチングだったのだ。
中には大介のことも、相手が良かっただけと書く者もいる。
確かにそうだ。大介と全打席真っ向勝負など、桜島以外は絶対にやってこないだろう。
この記録は大介と、桜島の投手陣が共同で行った偉業とも言える。
まあ塩対応の直史や灰対応のセイバーと違って、今日の大介はお立ち台の上でもご機嫌だった。
地方大会や練習試合でさえ、自分と全打席真っ向勝負など、してくれる学校は高校入学以来初めてであった。
だからにかっと笑うことが出来たし、視線の合った西郷とは微笑み合ったりもしたのだ。
桜島の対応も良かった。
打って打って打って、さらに打って勝つ。
それに真っ向勝負した武史、自分たちよりさらに打った大介、そして完全に自分たちを抑えた直史。
試合中こそ勝負勝負とうるさかったが、試合が終わってからは「まっことええ勝負じゃった」で済ませるのである。
直史でさえ毒気を抜かれるほどの快男児たちであった。
「優勝してえなあ」
不意にぽつりと、大介がそんなことを言った。
「だってそうしたら、あいつらが事実上の準優勝とか言えるじゃん」
「まあそうかもしれないけど、大介は調子に乗って、次は大振りしないでよ。名徳の継投ピッチャーの特徴は、打たせて取るなんだから」
自分も冷静ではなかったくせに、ジンは釘を刺した。
さあ、次の試合の対策である。
「21世紀以降の甲子園で、最も偉大なピッチャーは上杉さんだってのは、まあ誰の反論もないよね?」
成績だけなら、今後の直史が匹敵するかもしれない。
だが岩崎と投げ分けることを是とする直史が、上杉以上に評価されることは絶対にないだろう。
「その上杉さんから唯一、一試合に二本以上のヒットを打ってるのが、三年のセンター織田。すごく高い打率に、狙ったらホームランも打てる長打力。盗塁の成功率はほぼ100%で、守備も完璧。外野にフライを打ったらほぼアウトとか言われるぐらい」
同じ愛知の高校ということもあり、第二のイチローとまで言われている。
「本日の試合も四打数四安打、打点三、盗塁三。敬遠しても走って、二塁打以上の扱いにしちゃうのは大介に似てるかな」
他に似ているところと言えば、彼も三番打者ということだ。
今年のドラフトでも、複数球団の一位指名が確実視されている。
そして、桜島に次ぐ得点力を誇りながらも、名徳の決定的に違う点は一つ。
それはどんなことをしてでも、一つでも前の塁を目指していくという点だ。
織田を代表とする、積極果敢な走塁。
名徳の得点力は、桜島とは全く色が違う。
「まあそういう作戦を練ってくるチームだから、こっちも小手先の作戦は使うけどね」
ジンは反省している。今日の試合は完全に、ハイになって勝敗を忘れていた。
ちゃんと緩急を使えば武史は、九点も取られるピッチャーではないのだ。
そして故障と言ってもいいほど、肉体にダメージが残っている。
「基本は全部ガンちゃんに投げてもらうけど、ワンポイントでナオも使っていくから」
詳しいところは、セイバーの情報を待ってからとなる。
しかし名徳は、正統派の巧打のチームであることは間違いない。
ならばここはジンのリードが必要になるであろう。
ある程度の点の取り合い。
真っ当な高校野球が、想像された。
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