エースはまだ自分の限界を知らない[第二部+間章]

草野猫彦

三章 二年目・春 佐藤一族と一人の歌姫

第1話 春の前日

「……あったあ……」

 スマホに送られてきた合格者番号の中に、自分の番号がちゃんとあった。

 佐藤武史は安堵して、炬燵の天板に額を乗せた。

 確かに公立として県内最高とも言える、高偏差値の学校である。しかし例年であれば、武史の成績や内申点を考えると、それほど心配な合格基準ではなかったはすだった。

「それじゃあ三人とも受かったんだな」

 確認してくるのは炬燵の向こう側で勉強をしている一つ上の兄である直史だ。

 この兄こそが進学先の高校の倍率を、今年から急激に高めてくれた元凶の一人である。

「俺に確認して、ツインズには確認しないのかよ」

「あいつらが落ちる条件がない」

「まあ……実際に受かってるけどさ」

 確認してみれば、記憶していた二つの番号も存在していた。


 妹達の無事に、武史も一応は安堵する。

 あの二人のことだから、こういったことで失敗するとはまず思えなかったが、世の中にはもしもということがあるのだ。


 そう、この世界は自分の想像以上に、ドラマチックな出来事が身近に溢れている。超常現象も信じる武史だが、それを踏まえても現実は空想よりも劇的だ。

 それを体験させてくれたのが、この兄である直史なのだ。


 去年の夏、それと秋。

 そしてこれからの春。

 直史は近隣で評判のいい子から、日本各地で知られる高校生になった。

 特に野球に関する人間にとって。


 もう少ししたら直史は、学校の宿泊施設に泊り込んで野球部の合宿を行う。

 そしてその後は、甲子園球場に向かう。


 そう、日本全国の高校球児たちの憧れの地。

 春の選抜甲子園大会に、直史は出場するのだ。

 それも21世紀枠などではない、実力での堂々とした選出。

 昨年の秋の千葉県大会で優勝。関東大会でも準優勝。

 本人は実際の発表がされるまでは分からないと言っていたが、原則的にまず間違いなく選ばれるはずであった。


 そして年明けに、無事に選抜出場の連絡があり、野球部はそれに向かって動き出したのだ。




 キリのいいところまでを終えたのか、直史はノートを閉じる。

「確定したことだし、ちょっと運動でもするか?」

 この生真面目な兄は、受験勉強の時でも、正しい生活リズムと適度な運動を己に課していた。

 勉強漬けになった武史とは違う。そしてそういった成功体験を押し付けてくることもない。

 兄という存在は横暴だとよく友人などは語るが、武史が兄からそのような扱いを受けたことは一度もない。直史自身は一度だけそういったことをして、ひどく叱られたとは言うのだが、武史が物心つく前の話だ。

 むしろ良き兄として弟を見守り、適切な時にほんの少しだけ手を差し伸べてくる。

 近所でも評判のいい子であるのだが、武史にはそういう単純な優等生だとは思えなかった。実際中学時代は、直史を嫌っている教師もかなりいた。


 だが全体的に見て、とてもいい兄なのだとは思う。

「運動ね。1on1? それともキャッチボール?」

「どっちもやろう」

 そう言った兄に従って、武史は立ち上がる。


 長い苦難の冬が終わったのだ。

 そして春は――ひょっとしたら憂鬱な季節が訪れるかもしれない。

 また、この兄と同じ学校に在学するのだから。


「あれ~、お兄ちゃん何するの~?」

 居間から出た兄弟に向けて、声がステレオでかけられる。

 全く同じ顔で、全く同じ髪型。あえて服装は色違いなだけで、あとは髪ゴムの色が違う。

 双子の妹の桜と椿である。とは言っても、直史はともかく武史にはあまり妹という意識はない。


 この双子と武史は学年が同じであるにもかかわらず、三つ子ではない。

 武史の誕生日が四月四日で、双子の誕生日が三月三十日なのである。

 ちなみに直史も四月生まれなので、この四人は非常に近い年齢にあるのだ。


 もっとも双子がお兄ちゃんと呼ぶのは直史だけで、武史は常にタケと呼ばれてるし、武史も妹扱いはしていない。

「タケの合格が決まったから、久しぶりに運動に誘ったんだけど」

「お~」

「タケおめでと~」

「まあね」

「あたしたちには分かってたけどね」


 この台詞を、ツインズは完全にステレオ音声でしてくるのだ。

 他の双子と比べても異常なシンクロ率らしいが、まあそのあたりは家族以外には秘密である。

 なお服装の特徴がなかった場合、武史が彼女たちを見分けるのは難しく、確実にそれが可能なのは家族でも直史と母、そして祖母だけである。

 父と祖父はしょっちゅう間違え、ツインズが入れ替わってそれをからかうことが多い。


「それで何するの?」

「キャッチボールと1on1」

「あ、あたしたちもする」

「……どっちを?」

「どっちも!」

 溜め息をつきたくなる武史であった。




 佐藤家の敷地は広い。別に裕福なわけではないが、片田舎に作られた家には広い庭――というよりは空間があり、そこには祖父が作ってくれたバスケのバックボード付きのゴールがある。野球用にはマウンドが盛り土されている。中学時代は普通の平たい地面だったのだが、高校に入って直史が追加した、お手製の大切なマウンドだ。

 2on2で直史と武史が組み、ツインズと対戦するわけだが――。

「ヘーイ!」

 レイアップシュートを決めて、ハイタッチする二人。

 二人の兄はツインズの動きに幻惑されて、全く太刀打ち出来なかった。

 これでも武史は、弱小ながら中学ではバスケ部の主将であり、頭脳とも言えるポイントガードと、ポイントゲッターを同時に務めていたのであるが。

 この双子を同時に相手した時には、全く勝てた試しがない。

「あ~、ダメだ! キャッチボールしようぜ、兄貴!」


 早々に諦めた武史は、左利き用のミットを取った。

 ボールを片付けた直史が、硬球を持って来る。彼の方は普通に右利き用のミットを持っている。

 そして双子は、片方が右利きを、もう一方が左利きのミットを取る。両方とも兄二人のお古だ。

 武史たちが投げる横で、二人も投げ始めるのだが――まさに鏡写しのようにキャッチボールをする二人。

 子供の頃から普通に見慣れていた光景だが、それが異常だと知ったのは、中学に入った時か。


 武史と同じくツインズはバスケットボールを始めたのだが、一ヶ月もせずにやめてしまった。

 それ以来二人は、よほど何かの理由がない限り、スポーツをすることはない。特に団体競技や技術面の優劣が高い競技は。

 校内の球技大会のスーパースター。それが双子の立ち位置だった。

「タケ、久々にマウンドで投げないか?」

「オッケー」

 ベース側に座ろうとする武史だが、それを直史が止める。

「いや、お前が投げろよ」

「俺?」

 頷く兄に対して、素直に武史はマウンドに立つ。

 なんとなく、マウンドは兄のものだと思っていた。


 お手製のマウンドであるが、直史はこれを使って練習していた。

 キャッチャーボックスのすぐ後ろにあたる距離には、石垣がある。これが下に広がる角度であるため、上手く低めに投げられれば、跳ね返って手元に帰ってくるわけだ。

 武史は以前、キャッチャーボックスに座って兄のボールを捕っていたこともあったが、この一年近くはそれもしていない。

 おそらく学校でちゃんと捕球できるキャッチャーと出会ったからだ。




 キャッチャーボックスに、古びたキャッチャーミットを着けて、直史が座る。

「軽く」

 それに応じて武史は、フォームを思い出しながら、直球を投げた。


 スパン、といい音がしてミットに収まる。

 何度かそれを繰り返した後、直史が言った。

「もう少し上げてもいいぞ」

「いや、万一怪我でもしたらまずいだろ。大会前にさ」

「だから少しずつ上げていけよ。まずくなったら止めるから」


 まさか甲子園の前に、直史に怪我をさせるわけにはいかない。

 自分の球ぐらい捕れるとは思うが、防具もしてない人間に、全力投球は出来ないのは当たり前だ。

 チームに迷惑をかける可能性を考えたら、そういった危険性は全て排除するべきだ。

 ……まあこの程度の球ならば、本当に全く問題はないのだろう。


 制球を重視して、武史は投げ続けた。

 その間に昔の記憶も思い出して、上手く体が使えるようになる。

 ピッチャーの体の使い方。

(なんか……バスケのおかげか、前よりかなり速くなったような……)

 自分でも調子がいいなと思った武史は、コースに動かされたミットに、着実に投球していく。


 やはりピッチャーは楽しい。

 中学に入っても兄が捕手をしてくれたなら――今度投手として甲子園に行く人間に、それは贅沢なことなのだろうが――本気で野球をやっていたかもしれない。

「手首と指先をもっと柔らかく使うんだ。ジャンプシュートで最後にタッチするみたいに」

 なるほど。

 直史のアドバイスは、武史にも分かりやすい。

 最初は苦手だったジャンプシュートだが、最後の指先をボールに残すような感じを憶えてからは、かなり安定するようになった。

 それを思うと、ピッチャーの投球に必要な集中力は、バスケのシュートとは異なるものになる。

(フリースローみたいなもんか)


 通常のシュートではなく、相手のファールなどによって得られる一定の距離からのシュート。これには通常のプレイ中のシュートと違って、敵の邪魔が入らない。

 ピッチャーもまた、同じようなものだ。ランナーを背負った状況は違うだろうが、フリースローでもリバウンドの位置取りのために、視界の端で敵味方が動くことはある。

(つーかでも、ピッチャーってひたすらフリースロー続けるようなもんか。こりゃやっぱ特殊だな)

 違うスポーツを真剣にやって、ようやく気付くこともある。




 一度投球をやめさせた直史は、ボールを自分で握ってみせた。

「縫い目に指をこうかけて、あとはストレートのままの振りで」

「変化? チェンジアップじゃなくて?」

 小学生時代には当然ながら、武史は変化球と呼べるものは持っていなかった。

 緩急を使うために強制的に球速を遅くするチェンジアップは使っていたが、それも随分と投げていない。

「チェンジアップだと下手をすると捕れない可能性があるからな。手元で変化する球なら、どうにか捕れる」

 そういうものか。確かに同じチェンジアップでも、小学生時代の児童球団で使っていた軟球とは、変化の仕方も違うだろう。


 ほとんど速球を投げるのと同じ感覚で、球を投じる。

 ぴしりとミットに収まったが、そのミットは少し動いた気がする。

「変化した?」

「ああ」

 何度か投げてみたが、確かに指のかかりで、微妙な変化をしているようだ。

 また少し握りを変えれば、違う方向にミットがずれる。




 楽しい。

 新しい球種を投げるということは、そのまま一つの技術を開発するのに似ている。

 兄の構えたミットに、わずかな変化さえ計算にいれて投げ込んでいく。

 なるほどこれは、直史も毎日何百球も投げるわけだ。




 だが、やがてそんな時間も終わった。


 マウンドに歩み寄る直史とグラブを交換しようとするが、直史は途中で立ち止まった。

「タケ、高校では部活どうするんだ?」

 この問いがいつかくるのではないかと、武史は予想していた。

 それにこうやって自分に投げさせたのだから、その予感は高まっていた。

 予感と言うよりは、期待だったかもしれない。

 もう一度兄が、自分と一緒に野球をやろうと言ってくることを。

「白富東、バスケもけっこう強いからな。またお前と一緒にやれれば嬉しいけど」

 それに対する武史の答えは、まだ決まっていない。


「え~、タケはもう野球やりなよ。お兄ちゃんがいる間に野球やって甲子園行けば、大学も野球で行けるよね」

 打算で考えるツインズに、直史は「まあそれもありだな」と応えていた。

「別に野球が嫌いになって辞めたわけじゃないんだし」

 そう、直史の言う通りだ。

 バスケに興味を持ったのは確かだが、武史が中学で野球をやらなかったのはそれが理由ではない。

 勝とうとしないチームで、野球をやるのが嫌だったのだ。

「タケなんてどうせ頑張ってもNBAなんか行けっこないんだしさ」

「野球にしなよ~。競技人口多くても、絶対そっちの方がいいって」

「あたしたちが見るに、将来はプロに進めるよ」

「大介君には絶対敵わないけどね」

「ね~」


 言いたいだけ言った双子は、そのままタケが怒る前に逃げてしまった。

 直史は少し呆れたようにそれを見送ったが、ぽんと武史の肩を叩く。

「うちのガッコは兼部ありだから、まあ両方やってみるのもいいかな」

 そう言って立ち去っていく直史に、武史はまだ何も言えなかった。 

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