第四楽章(1)Adagio Amoroso〜ゆっくりとくつろいだ気分で、愛情に満ちた

Adagio Amoroso〜ゆっくりとくつろいだ気分で、愛情に満ちた



【私たちの目に映ずる森羅万象は、精神の空間が生み出す幻影に過ぎない」

(ブライアン・ジョセフソン / 英ノーベル賞物理学者)】



 望が生前に書き残した作品が出てきたと、隆一に知らされた摩耶子は、直ちにバンドの仲間たちに伝えた。連絡を受けた村尾は、ちょうどいつもの渋谷のスタジオで、他のメンバーたちと作業中だったので、早速、摩耶子のほうから楽譜を持って訪ねることになった。

 望の遺作と聞いて、その日は全員が楽しみに集まってくれた。


「摩耶子、弾いてみてくれないか」

 村尾に頼まれた摩耶子は、スタジオの隅にあるアコースティック・ピアノへと向かった。いつか望が弾いてくれた古ぼけたあのピアノだ。蓋を開け、クロスで鍵盤の埃を払い、ポジションを確かめてから、摩耶子は弾きはじめた。できるだけ丁寧に弾くことを心掛けた。


 調和のとれた明るい音色が、スタジオ内に響き渡る。あの日、望が調整したハ長調の純正律は、まださほど狂ってはいなかった。シンプルながらも洗練された望のメロディーは、メンバーたちの表情をごく自然に柔和なものにさせる。村尾も軽く目を閉じて、身体全体でリズムをとっている。

 リフレインを含めてやがて曲が終了した。弾き終わるやいなや、全員から拍手が湧き起こった。


「さすが望さんだな、いかしたメロデイーだ」


「無駄な音がひとつもない」


「ほんと、完璧じゃないか!」


「どうだ。この曲をみんなで仕上げて、天国にいる望さんに捧げるってのは?」村尾が提案すると「そいつは名案だ!」と、即座に全員が賛同の意を唱えた。


「摩耶子、頼みがある。この曲に歌詞をつけてもらえないか?」しばしピアノの椅子に座ったまま、状況を見守っていた摩耶子に村尾が向き直って言う。


「えっ、私が? 歌詞なんて書いたことないし……」自信なげに答えると、村尾は「大丈夫だって、できるできる!」と摩耶子の肩を叩いた。


「でも歌はだれが歌うんだい?」メンバーのひとりが聞く。


「心配無用。それなら今まで曲に恵まれずにデビューを待ってるいい子を知ってるんだ」


「それって?」


「もしかして……」


 村尾の言葉にメンバー全員の視線が一箇所に集まった。途端に肩をすぼめ、小さくなる摩耶子。


「摩耶子、お前しかいないだろう! だれか、異論はあるか?」

 村尾の意見は、満場一致で通った。予想だにしないことの成り行きに、気持ちが追い付かず、慌てる摩耶子。


「摩耶子、どうする?」

 村尾に促され、摩耶子は小さく、だがしっかりと「ええ、頑張る」とうなずいた。



 その夜、摩耶子はその経緯を隆一に電話で報告した。すると、隆一は「さしでがましいと思って、口を挟まなかったが、摩耶子さんが歌詞をつけて歌ってくれるというなら、私にはそれが一番だ。いや、私だけでなく、天国の望もきっと喜ぶに違いない」と受け入れてくれた。


(いつかきっと、ぼくが摩耶子の声に合う歌を作ってあげる……)


 いつかの夜の望の約束は、今ようやく実現に向けて動きはじめた。



 それからは毎日のようにスタジオ通いが続いた。

 曲のアレンジは、メロディーラインを生かすように思いきりアコースティックにしようと村尾が提案した。息の合った仲間たちの作業は、スムースにはかどった。また、村尾が積極的に動いてくれたお陰で、優秀なディレクターも付いてくれた。

 これまではいつも他人が主役だった。摩耶子はその引き立て役に徹していた。だが、今回は違う。主役は摩耶子なのだ。摩耶子のためにみんなが集まり、摩耶子のためにみんながアイディアを振り絞る。いや、正確にいうなら、摩耶子ひとりのためだけではない。みんなが摩耶子と望のために、持てるアイディアとテクニックの限りを出し合った。


 その日、スタジオを後にした摩耶子はいくぶん昂っていた。

 もうじき歌手としてデビューする、その日取りをつい先ほどディレクターから告げられ、そのせいで気持ちはぐっと上向きになっていた。世間一般から見たら、遅すぎるデビュー。でも、摩耶子には待ちに待った瞬間だ。それがもう目の前に迫っている。

 自分で人生を切り開いている実感を噛み締めながら、渋谷駅に向かって歩いていたとき、ふと摩耶子は思った。(トオルに会いたい)と。いままではもう一歩を踏み出す勇気がなかったが、今ならトオルに会える気がした。そして、成長した自分の姿を今こそトオルに見てもらいたい、と。摩耶子はそのビルの前で立ち止まった。


(よぉし、思い切って行ってみよう!)


 意を決した摩耶子はビルに入っていった。数十秒後にはトオルと会っているのかもしれない、そう思うと、胸がドキドキしてくる。


「どうしよう、何から話そう……」


 そんな摩耶子の戸惑いなどまるでお構いなしに、エレベーターはぐんぐん上昇していく。八階でドアが開いた。ひんやりと冷たい空気が摩耶子を包む。人気のない入り口に向かって歩いているとき、ちょうど、ひとりの初老の男が出てきた。咄嗟に胸の名札に目をやると、「間宮」と書かれていた。きっとプラネタリウムのスタッフに違いない。


「あのぅ、つかぬことを伺いますが……」

 摩耶子が声をかけると、男ははっとして立ち止まる。


「こちらにトオルさんという方はお勤めではないでしょうか?」摩耶子は思い切って尋ねた。


「お嬢さんは?」


「平野といいます。以前にトオルさんにはお世話になったもので……」


「トオルって、和泉徹のことかな?」


「トオルさん、やっぱりこちらにいらっしゃるんですね?」

(名字はわからないが、トオルがいるのだ!)思わず声が興奮にうち震える。


「もしそれが和泉徹のことなら、数カ月前に、田舎に帰っちまったんだが……」


「何ですって!」


「いやぁ、ヤツにも色々とあったもんでな……。今頃は故郷の島で漁師でもしてるだろ」

(漁師ですって? そう、きっとその人がトオルに違いない)

 だが、トオルはタッチの差でここからは去っていた。


 摩耶子はトオルの消息についてそれ以上は聞かずに、丁重に礼を言ってからエレベーターに乗った。こんなことなら来なければよかった。ここにくれば必ず会えるという希望を、いつまでも胸に秘めていればよかった。トオルとはやはり縁がなかったのだ。もう忘れよう、何もかも……。

 摩耶子はいつかと同じように、駅前の歩道橋を駈け上った。勝手に涙が溢れ出す。そのせいで、視界は曇ったようになり、昂っていた気持ちも、いつの間にかしゅんと萎んでしまった。

 デビューまでのスケジュールはびっしりと詰まっていた。トオルへの未練を記憶の底に押しやるために、忙しさは摩耶子にとって唯一の救いだった。

 そうして数カ月が過ぎた。

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