第二楽章(4)

 もたれかかった甲板の手すりを通して、エンジンの振動が身体に伝わってくる。大小の周期的なうなりは、和泉徹の内臓をつかんで揺さぶった。あちこちにたむろする労働者風の男たちが、何やら大声で話している。潮の香りと数種の機械油の入り交じった匂いが漂う中、デッキに設置された壊れかけたスピーカーが、ブズキの民族音楽を奏でている。その微妙な音使いから、中東との距離の近さを実感する。この先の海の向こうはもうトルコなのだ。その音量に負けじと、彫りの深い顔の一団はさらに声を荒げる。

 徹のすぐ頭上で汽笛が鳴った。見上げると、船の中央のポールに取り付けられた青と白のギリシャの国旗が、潮風にたなびいている。強烈な日差しが、濃いサングラスのレンズをすり抜けて照りつける。ボーッと、再び汽笛が鳴った。


 こうして港で汽笛の音を聴いていると、徹の意識は時間を一気に飛び越え、幼い日々へと遡った。

 徹と良次の兄弟にとって、港は遊び場だった。夕方になると、毎日、父の帰りを待った。汽笛の音はどれも似通っていたが、兄弟はその音の間合いから、微妙な違いを聞き分けた。汽笛を合図に、ふたりはいつも船着場へと競争した。日焼けした笑顔で兄弟を迎える父の収穫はいつも他のどの漁師より多く、それが兄弟の自慢だった。ふたりは奪い合って、魚篭の陸揚げを手伝った。そんな何ということもない瞬間に、ずっしりとした幸せの重みを感じた。だが、そのかたわれが、今はもうこの世にいない。もう二度と競争もできなければ、喧嘩もできないのだ。


 やはりあの夜の虫の知らせは当たっていた。風邪ではなかった。電話で声を聞いた夜から数日後、漁から戻って、急に熱が高くなったかと思うと、良次はそのまま倒れた。徹もすぐに駆けつけたが、良次の体力は8日間が限界だった。若さが生命を長らえ、また同時にその若さが病いの進行を早めた。


「兄貴……、親父とお袋のことは頼む……」


 良次の最後の言葉は、かろうじて徹の耳に届いた。白い布を顔に被せられた良次を見て、はじめて徹は身勝手だった自分に気付いた。


(良次よ、俺は本当はお前の思うような男じゃなかったんだ。ただ見栄や強がりだけを支えに生きていた弱い男だったんだ。それに較べて、お前は俺にとって自慢の弟だよ……)応えることのない弟の亡きがらに向け、徹は訴えた。


 初七日を終えた晩、父の背中は、ひと回りもふた回りも小さく目に映った。


「親父、これからどうする?」徹はそっと聞いた。


「年金暮らしにゃ、まだ早えからな。もう2、3年は頑張って漁に出るさ」


 父は徹にけっして戻ってきてほしいとは言わなかった。


「俺が戻ってこようか? 一緒に漁に出ようか?」


「徹……」父の瞳が潤む。そうして欲しいのだ。良次亡きあとの胸の空白をうめるためにも、徹に戻ってもらい、漁を続けたいのだ。

 

「そう言ってくれるのは嬉しいが、お前は都会で頑張ってくれ。ヤツにとっちゃ、お前は自慢の兄貴だったんだ。広い都会で自力で生きてるお前がよぉ。な、だから良次のためにもあっちで頑張ってくれ」


 父は精一杯のやせ我慢で、徹に言った。

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