第一楽章(1)Andante Elegiaco 〜 ゆるやかに、哀愁をおびた

Andante Elegiaco 〜 ゆるやかに、哀愁をおびた


【天国がどういうものなのかをモーツァルトはわれわれに予感させてくれる。彼の音楽で天国への門が開く(A・アインシュタインの言葉)】


---------------------------------------------------------------------------------


 「ああ、また、今夜も曇りかぁ……」


 レコーディング・スタジオを出た平野摩耶子は、夜空を見上げながら、溜息混じりにつぶやいた。都会の空は、今にも落っこちてきそうな灰色の厚い雲におおわれていた。湿気をたっぷりと含んだ空気が、冷房浸けの身体に、じっとりと絡み付いてくる。春でもなく夏でもない、どっちつかずのうっとうしい季節。毎年、この時期になると気が滅入って、何かをする意欲が失せてしまう。


 国道246号と六本木通りの交差点に近いレコーディング・スタジオから、摩耶子はゆるやかな坂道を下って、渋谷駅へと向かっていた。

 交差点に足を踏み入れたとき、すでに歩行者用信号が点滅から赤に替わっていたため、トラックが摩耶子の脇を通り抜けざま、けたたましくクラクションを鳴らした。その音がいくぶんこもって摩耶子の耳の奥でこだまする。ついさっきまで、大音響の中にいたので、聴覚の一部がまだ麻痺している。


「夕方には晴れてくるでしょうなんて、まったく天気予報なんかアテにならないんだから。それに今夜は満月だっていうから楽しみにしてたのに」


 カッコよく言えば、スタジオ・ミュージシャン。だが、摩耶子の仕事は、主に新人歌手のバックコーラスだった。

 小さい頃から歌うのが好きで、学生時代には仲間とバンドを組んではライブ活動に明け暮れていた。一時はソロ・デビューを目指したこともあったが、夢はまだ遠く、いまだに裏方に留まっている。当時のバンド仲間たちは、長い髪を切って、ひとりまたひとりと現実的なサラリーマンに転身していったが、摩耶子はまだかろうじてその夢にしがみついている。

 業界での彼女の評価はけっして悪くはなかったが、特にこれといった派手な印象はなかった。そんな短所をカバーしてくれる若さも、時間の経過とともに失われ、チャンスは日毎に少なくなっていく。そのことは、摩耶子本人が一番よくわかっていた。


 若さといえば、今回の新人歌手もそれだけが取り柄で、歌はひどいものだった。

 発声の基本も音感もあったものではない。楽譜すら読めないのだから話にならない。ましてやハーモニーの重要性なんて考えたことなどない。だからレコーディングにも余分な時間がかかってしまう。今夜は予定より3時間も押した。

 ついこの前まで原宿あたりをうろついていた普通の女の子が、数カ月後には、きれいに着飾ってテレビに出ている。本人の意思などとは無関係に、周囲がアイドルに仕立てあげてしまう。

 そんな歌手を輩出するディレクター側がおかしいのだ。いや、いけないのは、容姿だけで判断する聴衆のほうかもしれない。しかし、彼女たちがチヤホヤされるのも、ほんの一時だけで、数ケ月後にはよく似た違う顔にすり替わっている。でも、そのお陰で自分もこうして生活の糧を得ているのだから文句も言えない。このところ頭の中では、お決まりの思考が堂々巡りする。

 やがて前方に渋谷駅が見えてきた。


「望さん、ちょっとお知恵を拝借したいんだけど……」

 同じ頃、スタジオで、キーボードの電源を落とそうとした山下望を呼び止めたのは村尾俊也だった。

 村尾は、摩耶子がよく一緒に仕事をするレコーディング・バンドのリーダー的存在で、自らもベースを担当している。今回のレコーディングにおいて、アレンジ全体の責任は村尾にあるのだが、彼は時折、キーボード担当の山下望に意見を求めていた。卓越した望のセンスで自分のアレンジを追認しながら作業を進める、というのがここのところの彼らの流れとなっていた。望にしても、村尾がいてはじめて自分が生かされることを知っていた。とにかくふたりはチームワークよく、てきぱきと曲を仕上げていった。


「この曲のキメのリズムなんだけどさ、このままじゃちょっと単調過ぎない? なんとかしたいんだ」


 何やらごちゃごちゃと書き込まれた譜面を村尾から受け取ると、望は真剣なまなざしで見入った。


「そうだね、ちょっとここだけ前ノリにしてみたらどうかな? たとえばこんなふうに……」


 そう言うと、望は左手でベースを刻みながら、右手でアレンジを加えたリズムパートを弾きはじめた。


「そして、ここんところに、こんな音を入れてみるんだ」


 普段は口数の少ない望だが、ピアノの鍵盤に指を置いた瞬間に、まるで人が変わったように表現力豊かになる。

 さらに譜面の上で、ささっと2、3箇所修正し、「こんな感じでどうだろう」と言って村尾に返した。

 指でテーブルをトントン叩いてリズムを刻みながら、修正箇所を数回反芻した村尾は、やがてにっこりすると「うん、これ、いただきだ!」と言って、望の肩をぽんと叩くと、コントロール・ルームへと走っていった。


「あれ、摩耶子は?」


 村尾からようやく解放された望は、スタジオから出てくるなり残っていたスタッフにたずねた。狭いフロアには、タバコの煙と缶コーヒーの人工的な甘ったるい香りが充満している。


「摩耶ちゃんなら、もうとっくに出てったよ。デートでもあるんじゃないの?」と、煙の中のひとりが気だるそうに答えた。


「疲れたんだろ、今日は予想外の長丁場だったからな」そう言ってから、もうひとりは、時間が押した原因の新人歌手のマネージャーが、まだその場に残っていたのに気付いて、まずいとばかりに舌を出した。

 その言葉を聞き終えるやいなや、望は慌ててロッカー室へ走り、何やら白い包みのようなものを持って外へ飛び出した。あたりを見回してから、駅へ向かう道を数十メートル走ったが、もう摩耶子の姿はどこにも見あたらなかった。

 ちぇっと舌打ちをすると、うなだれた望は手に持った白い包みをガードレールに叩き付けた。真っ赤なバラの花びらが、黒ずんだアスファルトに散った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る