第5話 絶対王者は褒めてみる

 絶対王者こと、冠城侑李かぶらぎゆうりは放課後、トイレの鏡の前で怪しげな行動を取っていた。


「よ、よしいいぞ! その調子だ!!」


 誰もいない薄暗い空間の中で、ぎこちなく震えた声が響く。


「おぉ、よくできたな! えっ……偉いぞ! 偉い!!」


 そしてガチガチに震えた手を差し出して、頭ポンポン(?)のジェスチャーを披露。そして鏡の前で変に作り笑いを浮かべる。

 傍から見ればあまりにも気持ち悪い行動だが、彼は今、千尋を褒める練習を真剣にやっているのだ。


 痴漢の件でもあったように、彼は何事においても用意周到。

『相手を褒めるといい』と言われたからには、それを完璧にこなさなければならないと強く思っている。

 しかし自分が褒められることはおろか、誰かを褒めることも、誰かに褒められる機会すらもそんなに無かったものだから──。


「な、なんだこれ!? めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど!!??」


 絶対王者、高校生活初のノックアウト。鏡の前で崩れ、侑李は頭を抱えた。


(これでいいのか? こんなていたらくでもいいのか!? 教えてくれ! 伊織いおり! 茨木いばらぎ!!)


 今日までにマスターせねば、と侑李は焦るが、褒めるようにとアドバイスをした伊織はいないし、時間も、そして茨木千尋いばらぎちひろも待ってはくれない……。



 〇



(遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い遅い…………)


 一方、第二会議室にて。侑李がトイレで奮闘している間、時間にうるさい紅薔薇の令嬢こと、茨木千尋は足を組み、上に乗った足を小刻みに揺らしながら待っていた。


(もう! なんなの!? 時間にルーズだなんてありえない! お尻を触った上に、私のやる気への侮辱? ……ありえないんですけど)


 はぁ、と溜め息を零し、千尋は机に広げた数学の問題集の上に顔を伏せた。


(それに、あの人と一緒にいたり、あの人を待ったりして時間を使うの……、なんかヤダ……)


 そしてあの日、自分を助けてくれた彼に再会から少しだけざわつき始めた胸の鼓動に、千尋は悩まされていた。

 何故、胸がざわつくのかはわからない。だけど原因は間違いなく侑李にある──そう、千尋は考えている。


(そういえばあの人に、お礼言わなきゃだよね。一応、私を助けてくれたみたいだし……)


 そんな中、ふとあの日の自分を省みる──口を噤んだまま、お尻を触られたことばかりに怒っていた自分を。



「すまん! 遅くなった!!」


 それから一分も経たぬうちに、侑李がドアを勢いよく開けて入ってきた。


(来た!!)


 それに気づいた千尋は咄嗟に体を上げて、再び勉強。シャーペンを手に持って走らせる。

 そしてスイッチ……オン。侑李を蛇のように鋭く睨んだ。


「遅いです。九分五十三秒の遅刻。やる気あるんですか? 無いですよね?」

「いや悪かった! ちょっと先生に引き止められただけだって!!」


 なんとなくそれっぽい理由を言って誤魔化し、侑李はいつも通り千尋の隣に座る。ちなみに彼が近くに座ると、同極の磁石みたく千尋がズズっと少し離れるのもいつも通りである。


「あっ」


 ここで、侑李は独自で数学の問題集を進めている千尋を見て声を上げた。


「またやり方間違ってるぞ、その数列」

「えっ?」

「言ったろ? ここは──」


 間違いに気づき、侑李は千尋に再び説明して納得させる。そう、ここまではいつも通り……。


「──とまぁ、こんな感じだ」

「あっ、ありがとうございます」

「次こそは抜かるなよ?」

「言われなくても、そのつもりです」


 ……………………………………………

 ………………………………………

 …………………………………


(……あれ?)


 いつもなら淡々と進めるのに?

 見ると侑李の様子がおかしい。目線を他所に向けたまま、口元を緩ませて何か言いたげな状態のまま固まっていた。


「あの、何ですか?」


 千尋が問いかけると、侑李は口を震わせながらゆっくりと開き──


「……そ」

「そ?」


 ぎこちなく震える声で、こう言った。


「それにしても自分でここまで進んだんだなぁ! やっ、やるじゃないか!」


 そして終いにぎこちないスマイル。

 これを見て、千尋は──


「……は!?」


 突如放たれた特殊弾に、声を上げて驚いた。


「先輩、言いましたよね!?」


 そして、侑李をキッと睨んで捲し立てた。


「そうやって褒めるのとかいらないって。なんですか? 以前といい今といい、私に喧嘩売ってるんですか!?」

「あっ、いや、いいだろ? 頑張りを褒められるってのは」

「そっ、そんなされるなら、無いほうが断然マシです!!」

「きっ、気持ち悪い……」


 絶対王者、高校生活二度目のノックアウト。

 今まで彼は奇跡的に異性はおろか、愛する妹にすらも「気持ち悪い」などと罵声と言われたことがなかった。


(……下手くそ。びっくりしたじゃない)


 一方、とげのある言葉を並べた千尋は、ちょっとだけ動揺している。


「あぁ、悪かったよ」


 ショックから立ち直ったのか、侑李は顔を上げていつも通りの顔つきに戻った。

 ……だが、いつもの厳格なスタイルは見た目だけ。侑李の野望はまだ終わっていなかった。


(らしくない。先輩はいつもみたく私に厳しくしてればいいのよ。じゃないと私は、甘えて先に進めないし)


 一方、それに気づかない千尋は完全に油断していた。


「じゃあ続き、やってみな」

「はい」


 普段のように真面目な二人が、他に誰もいない空間に堅苦しい空気を醸し出す。


 だが、そんな空気がほんのちょっとだけ弛緩するタイミングがあった。


「……あっ、できた!」


 それは、自力で問題を解けたことで得られた達成感と快感故に、千尋が僅かな笑顔と喜びの声を小さく上げたときである。


 よし、このタイミング! その隙を逃すまい! と、侑李は目をつけた。


「おっ、よく出来たな。さすがだ、茨木」


 タイミング、完璧。というのも──


「い、いや、それほどでも……ないというか……。へへっ……」


 喜びを更に刺激されて、千尋が反射的に口元を緩ませたのだ。


「……って!? はぁ!!? だから、なんなんですか!?」


 そして直ぐに我に返って、侑李を怒鳴りつけた。


(ちょっ、何よいきなり……。もう褒めないと思ってたのに!?)


 そんなこと、匂わせただけ。侑李は「褒めない」とはちっとも口にしていない。

 侑李は口元をにやつかせながら、更に続ける。


「いや、今が好機かなって」

「だから、いらないって言ってるじゃないですか! 別にそんなことされても嬉しくないというか……。てか、なんですか好機って!」

「でもさっき、笑ってたし」

「あれは人間の本能です!!」

「それ、『嬉しいです』って言ってるのと同義なんだけどなぁ~」

「……うぐぅ……」


 ちょっとだけ楽しくなってきた侑李は、調子に乗ってこんなことを口走った。


「あっ、そうだ。茨木」

「今度はなんですか……」

「……つ、次の問題できたら、あっ、頭ポンポンって撫でてあげようかなー」

「ふぇっ!?」

「……なんて」


 けれど気恥しさに駆られてしまい、侑李は目線を千尋から逸らした。

 顔に貼り付くのは、目も向けられない程の残念なニヤケ顔。だが──


(えっ!? 頭ポンポン?? ホントに? やってくれるの?? じゃ、じゃあ……)


 千尋は侑李の表情を気にせず、頭ポンポンに興味津々。

 なんせ彼女もまた甘やかされずに育ってきた身なので、甘やかされる機会を前に『自分もそんなことを一度はされてみたい』という欲求が爆発しそうになっていた。


「まぁ、冗談だけど──」

「……じゃあ、一回だけお願いします」


 そして耐え切れなくなった千尋は言う。

 

「えっ!!?」


 対して、これ以上揶揄からかうなと、怒鳴られる覚悟だった侑李は、千尋のあまりにも予想外な反応にひどく動揺した。


(はぁぁぁ!? 何言ってんの、私!! いくら甘やかされることが今までの人生で無かったからって、バカなの!?)


 一方、すぐさま我に返った千尋は顔を俯かせて、両頬を手で押さえた。


 だが、それでも彼女は逃げることなく全速前進。


「い、茨木! 冗談だぞ? 冗談!!」

「いっ、一回だけ! 一回だけお願いしますって言ったじゃないですか!! 今更言い逃れようとしないでください!!」

「わっ、わかった! わかったから!!」


 興味と欲求は止められず。千尋は侑李の冗談半分の言葉を実現させることになった。一回だけ。


「じゃ、じゃあ問題変更だ。これを解いてみろ?」


 けれど侑李はなんとか逃れようと、意地の悪いことに、千尋には難しい問題を指し示した。


「うっ……、わかりました」


 問題文を見て顔をしかめるも、千尋はシャーペンを持って問題に取りかかった。


「……できました」

「えっ!!?」


 そして、その問題が解けてしまった──。


「どれどれ……。あっ、合ってる……」


 まさかと思い、侑李は再び千尋の答えと模範解答を照らし合わせる。

 一回、二回、三回も。それでも、彼女の答えは完璧だったことに変わり無く。

 さっきまで基礎でつまづいていた千尋にとっての無理難題を、ヒントも無しでクリアされるとは思いもしなかったのだろう。


「じゃ、じゃあ……」

「あぁ、わかったよ……」


 ここまで来たらやるしかない。侑李は覚悟を決めた面持ちを向ける。


「ほら、やるぞ?」

「……お願いします」


 そして侑李は初めて犬を触る子どものようにぷるぷると震える手を、千尋の頭に伸ばして置いた。


「よ、よく出来たな。えっ、偉いぞ、茨木」

「……………………」


 顔をトマトのように赤くしながら、千尋は黙ってコクリと頷く。


(冠城先輩の手、大きくて、優しさを感じる……)


 そして目を瞑り、僅かながらに頬をたゆませた。


「………………」

「………………」


 初めて妹以外の女の子の頭を撫でた侑李と、初めて歳の近い男の人に甘やかされた千尋。

 二人とも初めての感覚に照れながらも、緊張の中に、どこか安心感を得ていた。

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