第4話 白兎の脚
「9秒9? まさか…そんな」
その日、兵庫県立桐生高等学校・陸上部顧問『
「はあ…はあ…どうでした?」
「いやそれが…」
「どうしたんですか? 記録は何秒だったんです?」
「いや…実は、ストップウォッチをすこし早く押しすぎてしまってな。
もう一度お願いできるか?」
「…はい。わかりました…」
そういって『
利彦は心の中で舌打ちした。
(ふん…何度やっても同じだ…。これが僕の実力なんだから…)
そういいながら、鹿嶋は脚に触れる。それは、数日前までは憎んでいた脚だった。
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兵庫県神戸市にある県立高校・桐生高等学校、そこはお世辞にもスポーツに力を入れている学校ではなかった。
そこの陸上部も特に記録を残したりなどはない、いたって平凡な学校である。あるはずだった…
そこに期待の新星が現れたのである。
『二年生・鹿嶋利彦! またまた新記録達成! 記録9秒99!!』
壁に張り付けられた学校新聞にはそう大きく書かれている。
それは高校生としてはほとんどあり得ない数字だった。そもそも日本人男子100m走としても未踏の数値である。
利彦はそれを見てほくそ笑んだ。彼の周りには、学校の同級生や、ミーハーな女子たちが集まってきている。
「すげえじゃねえかお前。これならオリンピック狙えるぜ!」
「ねえ、こっち向いて利彦君!」
それを見てニヤリと笑った利彦は、全員に振り返り両手を上げて言った。
「諸君! 今度は9秒8を出して見せましょう!」
「おお! お前ならできるぜ!!」
「きゃー! 鹿嶋君かっこいい!!」
周りに集まった生徒たちが大騒ぎする。それを、止める者がいた。
「こら!! お前ら、こんなところでお祭りするな!!! 早く教室へ帰れ!!!」
「げえ、遠藤だぜ…」
「もう…せっかく盛り上がってたのに…」
生徒たちは口々に文句を言いながらも、自分の教室へと戻っていった。
「ふう…。まったく困ったもんだ…」
「何がですか? 遠藤先生?」
「鹿嶋…お前調子に乗りすぎだ…」
「何が調子に乗っているというんです?」
「いくらいい記録が出たところで。公式記録として残らんと意味はない」
「……そうですね」
「今度の大会への練習しっかりしてるのか?
この前まで学校を休んでいたろう?」
「大丈夫ですよ…問題ありません。あるわけないじゃないですか?」
そういって利彦はニヤリと笑う。遠藤はその様子を見て一息ため息を漏らす。
「…それならいい。いいんだが…
なあ鹿嶋…お前まさか…」
「なんですか?」
「いや…なんでもない…」
「そうですか。もう用がないなら教室に帰ります」
「ああ…」
そういって利彦は歩き出す。遠藤はその背後を心配そうに眺める。
「まさか…まさかな…」
遠藤には利彦に対して気掛かりがあった。
そして、それは陸上の顧問として当然の心配だった。
鹿嶋利彦は昔から足が速かった。
本当ならこんな普通の学校に通わず、陸上に力を入れている高校に推薦入学できるほどに。
高校1年の大会では10秒16という記録を出し、周りから神童と呼ばれるほどであった。
その彼がこの学校に通っているのは、ひとえに親の事情であった。
そんな彼が体調を崩しだしたのはいつだったか…。一年生のある日を境に、記録が伸び悩むようになった。
それどころか、日に日に記録は落ちていく。そして、二年の初めごろから、利彦は学校に来なくなった。
遠藤は何度も家に足を運んだが、利彦は部屋から出てくることがなかった。
それが突然、学校に姿を現したのは1週間前だった。そして、その日の部活の時いきなり出したのだ。10秒02という記録を。
それは学校の部活にすら出ていなかった者には、出せるはずのない記録であった。
「…まさか、本当にクスリなんて使ってないよな…。なあ鹿嶋…」
そういって遠藤は利彦を見送った。
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その日の放課後。日が落ちて、部活の練習を終えた者たちが帰路に就く時間。
鹿嶋は家路につこうと門の近くまで出てきていた。
(フフフ…今度は9秒95ぐらいでいいかな?
いきなり世界新なんて出したら変に疑われるからな…)
本当はもう一人の人間に疑われているのだが。そんなことを知らない利彦は上機嫌だった。
(本当に…本当にすごい力だ…。
この『
そういって脚を撫でる。それは愛おしいものを愛でるような様子だった。
(本当に、あの時あの場所に行ってよかった…
そうしなければ、この『脚』は手に入らなかったからな)
そう、利彦はクスリなど使っていなかった。
あの時あの場所で手に入れたのだ『異能の脚』を。
その時は2週間前。その場所とは兵庫県神戸市の某所。利彦がいつも行っているコンビニの路地裏であった。
そこにいたのだ『あの男』が…。
始め、路地裏からその男に声をかけられたとき、不審者だと思ってビクリとした。
なぜなら、全身をすっぽり覆うコートを着て、フードで顔を隠していたからである。
だが、その不信感はその後すぐに好奇心に変わった。男にこう言われたからである…
「もっと速く走れる脚がほしくないか?」
正直言って、それはその時の利彦にとって何よりもほしいものであった。
だから利彦は言った。
「もらえるもんならほしいよ、速い脚が…」
「そうか…ならばこの『白兎の脚』をやろう…」
男が出したのは、小さなウサギの脚の飾りだった。
始め、利彦は冗談だと思った。
「そんなもので、足が速くなら苦労はしないよ」
「まあ、待ちなさい…これは、こうやって使うのだ…」
そういって、男はウサギの脚で利彦の右脚に触れる。
次の瞬間…
ずぶり…
ウサギの脚が利彦の右脚に潜り込んでいく。なぜか痛みはなかった。
「な?! 何するんだ!!」
「フフフ…これで。終わりだ…。
もう君は誰よりも早い脚を手に入れた…」
そして、それはその通りだった。
その直後から、利彦は思い通りの速さを足で出せるようになっていたのだ。
(そういえば…あの男、変なことを言ってたな…)
そう利彦は思い出す。
(たしか『もし白兎の脚の名を知って、訪ねてくるものがいたら、全力で逃げなさい』だったか?)
そんなものはこの2週間一人も来なかったが…。
そう思いながら歩いていると、突然門の向こうから声をかけられた。
「君、少しいいかな?」
「?」
声をかけてきたのは、見たことのない少女だった。
その隣には見たことのない少年もいる。
「君は…鹿嶋利彦君だな?」
「え? そうだけど?」
利彦がそういうと、少女は懐に手を入れながら呟く。
「どうやら…間違いないみたいだな」
「ええ、そうですね…呪物の霊力を感じます」
少女の隣にいる少年がそう答える。
「じゅぶつ? …一体何のことだ?
なんなのあんた達?」
利彦は警戒を強める。そんな利彦に少年が声をかける。
「あなた2週間前、妙な男に会いませんでした?」
利彦はビクリとした。その反応を見て少女が言う。
「君は、その男から何かをもらったね?」
「なんだ? 突然…なんのことだよ…。
宗教の勧誘か何かか?」
利彦はそう言ってとぼけた。
「とぼけなくてもいい。私たちはすべて分かっている」
「そうです。僕たちはあなたの持つ『白兎の脚』を…」
次の瞬間、二人の前から利彦が消えた。
利彦は人の目に留まらないほどのスピードで走り出していた。
(まさか、あいつらがあの男の言っていた?)
利彦は走りながらそう考えた。
「いったい何者か知らないが、この俺には追いつけないぜ!」
そういって、夜空の街を駆け抜けていった。
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「逃げた? なんで?」
その時、潤はそう叫んでいた。
今、潤と真名は兵庫県神戸市の兵庫県立桐生高等学校の門の前にいる。
道摩府の命を受けて、呪物を回収しに来たのである。
その呪物の名は『白兎の脚』、使用者の肉体と魂を削って、強力な脚力を与える代物である。
神戸市の高校生が手に入れたことを、道摩府から聞いていた潤たちは、神戸市の街で聞き込みをして、やっとこの学校に辿りついたのである。
しかし、その呪物を持っているであろう鹿嶋利彦はいきなり逃げてしまった。
二人は鹿嶋が消えた闇の向こうを見つめながら、急いで駆けだした。
「ちっ…。もしかしたら、呪物を手に入れた時に、何か言われていたのかもしれんな」
真名は、そういって懐から手を出す。
真名は、もし利彦に呪物の回収を断られたら、昏睡符で眠らせるつもりだったのだ。
だが、これほど距離が開いてしまうと、さすがに呪が届かない。
「潤、シロウを呼んで。奴の匂いをたどってくれ」
「わかりました!」
潤は素早く印を結ぶ。
「カラリンチョウカラリンソワカ」
<
「志狼来い!!!」
その瞬間、地面にまばゆく輝く
その中から大きな白柴が現れる。
「シロウ! 鹿嶋利彦の匂いを追ってくれ!」
【承知!】
そういうとシロウが地面の匂いを嗅ぎ始める。そしてすぐに…
【追いかけますので背に乗ってください!】
そういって潤を見た。
「真名さん行きましょう!」
「ああ!」
そういうが早いか、真名は印を結んで呪文を唱えた。
「オンアロマヤテングスマンキソワカ」
<
天狗の霊威が真名の脚に宿る。
「行くぞ!」
真名はそう行って先に走り出した。潤はシロウの背に乗ってそれを追う。
「あ! 待ってください! 真名さん!!」
こうして、鹿嶋利彦の追跡が始まった。
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鹿嶋利彦は驚いていた。
さっき振り切った二人が追いついてきたのである。
一人は巨大な犬に乗っているが、もう一人は信じられないスピードで走って、こちらに追いついてきていた。
「ちっ…しつこい連中だぜ」
利彦はそう呟くと、十字路を直角に曲がってから一気に加速した。
すぐに二人は見えなくなる。
「ふふふ…やっぱ俺ってすげえ!!」
利彦はそう言ってほくそ笑んだ。
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後ろの二人、潤と真名は利彦を見失っていなかった。
真名は高速で走りながら潤に言った。
「このままではまずい…。
私は、これから奴を捕縛するための陣を敷きに行く。
お前はこのまま追跡して。奴を、陣に追い込んでくれ」
「はい! 分かりました!」
「…それで、連絡係に静葉を連れていけ」
そういって真名は、肩に乗っていた蜘蛛を、潤によこす。
蜘蛛はシロウの頭に乗っかった。
「それじゃあ頼むぞ…」
そういって真名は潤たちから離れていった。
潤は、利彦が駆け抜けていった方を睨むと、シロウに言った。
「シロウ! もっと早く走るぞ!」
【承知!】
潤は印を結んで呪文を唱えた。
「ナウマクサンマンダボダナンバヤベイソワカ」
<
その瞬間、シロウの周りに風の渦が生まれた。その渦に包まれ、潤たちはさらに加速する。
しばらくすると、鹿嶋利彦の背が見えてくる。
「げ…まだ追いかけてくんのかよ…」
そんな声が鹿嶋から聞こえた。
その瞬間また、鹿嶋が加速を始める。
「シロウなるべく余裕をもって、つかず離れずついていくんだ…」
【承知!】
潤は、鹿嶋利彦をどう追い込むか考え始めていた。
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一人と一匹がスピードレースを始めてから10分はたったろうか。
鹿嶋はいいかげんにいらつき始めていた。
後ろの犬は、見えなくなったかと思って気を緩めると、どこからか現れてついてくる。
決してこちらには追いつかないが、振り切ることも出来ない。
「畜生。俺は長距離ランナーじゃねえぞ」
そういって、また加速する。目の前にT字路が見えてきた。
(よし! 今度は右だ!)
直角に曲がってから一気に加速する。犬は見えなくなった。
「フン! 俺には誰も追いつけんぜ!
俺は世界最高速のスプリンターになるんだからな!」
そういってほくそ笑んでいると、目の前に公園が見えてきた。
(よし! あそこを突っ切って!)
そう考えながら公園に突入する。その時だった…
「オン!」
どこからか、そんな声が響いてくる。そして…
「が!!!!!」
いきなり足が重くなってきた。思い通りのスピードを出せるはずが、足が全くゆうことを聞かない。
「な? なんだ?」
そういってその場に膝をつく鹿嶋に声をかける者がいた。
それは真名だった。
「そこまでだ…」
「う…お前は…」
「もうお前の『白兎の脚』は機能しないぞ」
「な…なんで…」
それには答えず真名は言う。
「お前…自分では気づいてないみたいだが、もう足がボロボロなんだぞ」
「な…何を言ってんだ?」
「だから、こうして『白兎の脚』の機能を阻害しただけで走れなくなる」
「は? ふざけんなよ?
俺は世界最高速だぞ?
こんな…」
そういって走ろうとしたが…。
「う…足が…いてえ…」
「わかったか?
それが『白兎の脚』の弊害だ…」
「う…嘘だ…」
鹿嶋がそういっていると、潤が追いついてきた。
「もうやめましょう? 鹿嶋さん…。
このままじゃ。足だけでなく命まで失います」
潤はそう言って鹿嶋の肩に手を置く。
「ふう…まだ分からないなら…」
そういって真名は、懐に手を入れた。昏睡符を使おうというのだ。
そのとき、
「うそだああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
突然、鹿嶋利彦が叫んだ。
「俺は世界新記録を!!!!!!
誰にも到達できない『世界最強記録』を作るんだぁ!!!!!!!!!」
その瞬間、鹿嶋の右足が光に包まれた。
「いかん!!!」
真名は昏睡符を起動しようとした。しかし…
ドン!!!
突然の衝撃波に吹き飛ばされる。
もうそこに鹿嶋はいなかった。
「潤!」
「はい!」
潤たちは再び追跡を開始する。だが…
「く…これは…」
地面に血が点々とついていた。それは鹿嶋の脚から出たものであった。
「潤! もう無理やりにでも捕まえるぞ!」
「はい!」
二人は一気に加速する。鹿嶋の背が見えてきた。
「!!」
その時だった。鹿嶋の前に着物を着た男が立っていた。
我を忘れた今の鹿嶋では避けられないだろう。このままではぶつかってしまう。
「鹿嶋!!!」
真名は叫んだ。だが…
「ふむ…」
鹿嶋は止まっていた。その男の目の前で。
自力で止まったのではないことは誰の目でも明らかだった。
「久しぶりですね真名?」
その男はそう言った。
「!!!!!」
「え? なんで真名さんの名を?」
真名はその男の顔を見て驚愕の表情を作っている。
潤はまったく事情を呑み込めなかった。
ふと、そのとき…
「
黒いスーツを着た男が走ってやってくる。
「
「あ! いたいた! いきなりどこに行ったかと…
げ…」
元次郎と呼ばれたその男は、真名の顔を見て「嫌なものを見た」という顔をした。
「蘆屋の小娘じゃねえか…」
「……」
真名さんは驚いた表情のまま動かない。
「…なぜ、あなたがここに…」
「別にそんなこといいじゃないですか?
私とて旅行をしたりしますよ?」
「…それにしたって…」
「フフフ…」
そういって永昌と呼ばれた男は笑う。
「…あの真名さん。その人は?」
「……」
真名は黙ったまま、その場に止まったままの鹿嶋に近づく。
そして、それをその場に寝かせると、右脚に触れた。
「あ…」
呪物『白兎の脚』が右足から出てくる。真名はそれを懐に入れた。
「お仕事ご苦労ですね、真名」
「いえ…。今回はご迷惑をかけてしまいました」
「いやいや…あなたならこの後すぐ捕まえられたでしょう?
こちらこそ余計なことをしました…」
そういって優しげに笑う。
「…あ…あの…」
一人置いてきぼりの潤が真名の肩をたたく。
「その人はいったい…」
「なんだてめえ! 永昌様をしらんのか?」
「ながまさ様?」
「そうだ! 稀代の陰陽師にして。
土御門現当主のご子息、
「え? 土御門?」
潤はその名前に聞き覚えがあった。
「土御門ってあの…」
「そうだ! 日本の呪術師を統括する組織だ!
まあそこの蘆屋のもんは違うが…」
土御門。
それは日本最高峰の呪術家であり、日本の呪術家を統括する組織である。
そして、蘆屋一族にとっては、平安の時代から争ってきた宿敵でもある。
「フフフ…ご安心なさい。時代は変わりました。
今、我々は同盟関係にあるのです。
そうですね? 真名…」
「はい…」
それは、かのWW2、太平洋戦争の時。
土御門は日本の呪術家として戦争に参加した。そして、当時の連合側の魔法使い組織・
結果、日本が敗北したとき、土御門は
こうして、弱体化した土御門は、もはや蘆屋一族と争っている暇はなくなってしまった。
そして、今から25年前、両者の間に和睦が交わされることになった。
「真名…見ないうちにあなたは母親に似てきましたね?」
「!!」
真名はその言葉に顔をひきつらせた。
「え? 真名さんのお母さん?」
そういえば、潤は真名の母親のことを聞いたことがない。
道摩府にいるという話も聞いたことがなかった。
「おや…そこの彼は知らないのですか?
真名の母親は、わが妹・
「え? それじゃあ…真名さんって…」
その時やっと、潤は理解した。なぜ真名のことを多くの人が『姫様』と呼ぶのかを。
その理由は…
「真名さんって、蘆屋と土御門の…」
潤にとっては驚愕の事実である。
永昌は言う。
「真名…。今度私の娘をそちらによこします。
よろしくお願いしますね?」
「う…」
真名はあからさまに嫌な顔をした。
「フフフ…そんな顔をしないで…。
娘もあなたに会いたがっていましたよ…」
「く…」
真名はさらに嫌な顔をした。
「フフフ…今宵は本当にいい夜です。本当に…」
そういって永昌は月を眺める。
「はあ…」
その姿を見て真名は一息ため息をついた。
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