初夏

雪桜

初夏


初夏。木漏れ日の中、遠くに聞こえる巣立ち鳥の鳴き声に、俺たちはただ耳を澄ませていた。誰にも見られていないのに、誰かから隠れるようにして、俺たちは己の呼吸さえも、煩わしく感じ、そして、夏がやってきたのだと、確信した。

…食べ終えたそうめん。昆布つゆの残り香。一緒に飲んだ麦茶の氷が、溶けてからんと音を立てた。少し気怠い、昼下がり、お前は何も言わずにやってきた。

俺は青く色付く外を見て、お前は少し痩せたその肩をいっそう小さく縮めて、陽射しから逃げるようにそこに座っている。

かつてギラギラと野望を灯し、俺を見つめていたその瞳は、今では深く落ち込んでいた。お互い社会に出てから、ろくに連絡もしていなかった。かつての夢は、とうに途絶えていた。後悔はしていないが、少し、虚しい人生。そして今年も変わらぬ、虚しい夏がやってくるのだと思っていた。

もう、疲れたのだと、お前は言った。あれから15年。昔よく遊んでいた公園。お前とあそこで馬鹿なことを沢山した。あの公園、今年取り壊されるってさ。

暮れていく。じりじりと、太陽が沈んで、次第に夜の匂いがやってくる。ふとお前の横顔を見やると、もうその表情は見えなくなっていた。薄暗く、ぼやける視界が、モネの水彩画のように滲んでいた。しかし、僅かな光がお前の涙を反射して、きらりと光った。その時初めて、俺は強い哀しみに襲われたのだ。

…誰かがあいつを守ってやれなかったのか。この15年間、お前は誰かの胸で泣いたことはあったのか。そうだ。誰かが、何としてでも、お前の心を、死なせてはいけなかった。今、小さな畳の部屋で静かに泣いている彼は、俺の中で、何よりも特別な存在だった。俺はこの時、初めて気付いたのだ。15年、虚しさに襲われながら、今日、長い長い日が暮れて、初めて気付いたのだ。


___息絶えた、夏。

抱きしめたお前の震える肩の向こうで、小さな蜘蛛が死んでいた。薄暮。輪郭は定かではない。蜘蛛は無意識に死んでいた。薄暮。彼は自分が死んだことに気付いてはいない。ノイズのかかった畳の上。遠くに耳鳴りが聞こえる。汗ばむ首筋。お前の体温。夏の温もり。蜘蛛の、消えた温もり。美しくない、その死に様。芸術家は決して彼を絵画に起こさない。写真を撮らない。音楽にしない。文字にしない。だが、間違いなく彼はここで死んでいる。だから、俺はそれを美しいと思うのだ。黎明。お前をそこに溶かしてやろう。俺達の抱擁と、心の灯火と共に。燃える太陽が、雲の隙間を埋めてしまう前に。藍色の風の群れが、あの海を渡ってしまう前に。

ああ、今すぐ、外に出よう。公園に行こう。あのお社を見に行こう。晩飯を買いに行こう。蛍を見に行こう。夜風にあたりにいこう。あの星座の線を、繋げよう。俺たちが落としてきたものを、数えよう。零した涙が地面に染み込んで、そこから花が咲く瞬間を見よう。昔渡したあのメモが本当は見られていなかったことを知っていると、白状しよう。俺はとんだ馬鹿だったってことを、白状しよう。抱きしめたお前より、その先で死んでいた蜘蛛を愛していたと、白状しよう。そして、あの日失くした夢を、拾いに行こう。何処かにある。二人の夢を、拾いに行こう。

お前の連れてきた絶望を、背負いながら。

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初夏 雪桜 @sakura_____yu

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