輪廻の杜

K

第一話 滅亡の記憶一



「本当に、来るのかよ」


 夜が明けつつある。

 ルスランの独り言は、冷たい外気に凍って霧散した。

 建国百五十年を迎え、オウスは連邦壊滅と言う未曾有の危機に直面していた。

「これは明らかな侵略行為である。自由と平和を掲げながらも、世界随一と豪語する軍事国家であるリヴェリア合衆国の慢心が引き起こした戦争である。この様な暴挙を決して許しては成らない。人類史上最悪の災いに我らは徹底的に立ち向かう。オウス連邦は世界の願いを真摯に受け、地球に生きる一人一人の命と尊厳を守る為、国家の威信を懸けてリヴェリアの厄災に対し正義の鉄槌を下す。我らは勝利し、世界に平和を取り戻す事を約束する」

 これが昨夜発せられた、オウス連邦メルツァロフ大統領の声明である。この宣言は進軍するオウス軍を始めとし、猛威を振るう「調停者」の一挙手一投足に戦々恐々とする世界中へと配信された。「調停者」は地球上に焦土の化身として、世界を恐怖の炎で包み込んだ。否応なく巻き込まれたオウス連邦だが、これを意図的な侵略行為であるとメルツァロフ大統領が宣言し「調停者」を「侵略者」として大規模防衛戦を決行する事と成ったのである。

 そんなオウス連邦最北端に広がるツンドラ地帯から北極海へ向かうルード岬に、オウス連邦ルザ国陸軍アセナスキー少将率いる大機甲師団が陣を構えていた。四万人から編成された大隊が迎撃態勢を整え、戦車や歩兵部隊が広大な海岸線に黒く影を浮かべている。

 夜明け前に軍を展開させた大機甲師団は文字通り凍り付き、その影も白く変わりつつある。発生した濃霧が外気に冷やされて霜となる為だ。

 陽光の下であれば、大地の象徴であるベージュ色の装甲を持つ二百台もの戦車が輝き、白い狼の紋章が描かれた旗と共に壮観な姿を見せていたであろう。

 しかし、今は濃い海霧の為に隊の半分も見渡せず、白い壁の向こうに各隊が灯すライトが溶けて見えた。それらは戦車隊の吐き出すガスにより、時折霧の中で揺らめいている。

 霧は昨夜から流れて来た寒波に、海水が晒されて発生していた。先日の北極海での戦闘により海水の温度が上昇した理由からだ、と噂されているが真相は定かではない。しかしながら、配信された交戦記録に世界中が震撼した惨状を考えると納得せざるを得ない。

 視界に広がる暗い灰色の壁は、寒々しい重たい波音を返す。誰もが息を潜め、暗い海から上陸せんとする厄災の幻を見ていた。

 そんなアセナスキー大機甲師団右舷後方。狙撃部隊に所属するルスランもまた、見えない冷たい影に心身を浸食されていた。

 ルスランの大型対物ライフルを構える手が震えている。

 防寒プロクトスーツに身を包んでいても、凍り付いた地面に体温を奪われて行く。スコープを覗くには体を伏せなくてはならず、岩肌との接触面積が増えて余計に体力を消費する。

 骨が熱を失い、鉛となり全身を凍結させる程の寒さだと言うのに、通気性を考えられたファイバー製グローブの内側は汗で重たく濡れている。

 体中の水分を冷や汗に取られてしまったのか、貼り付く喉を潤す為にわずかな唾液を飲み込んだ。その度に、息も絶え絶えに大きく肩が上下する。どんな過酷な現場でも呼吸だけは自制しろ、と言う教訓も守れそうにない。

 そもそも、こんな状況で落ち着いていられる人間が一人でもいるのであろうか。

 人類史上、類を見ない厄災が接近している。映像の向こうで起きていた光景が、未だに現実だとは思えない。

 いや、受け入れる事が怖いのだ。受け入れてしまったら現実になる。ルスランの生存本能が自身の精神を保つ為に拒絶しているのだ。

 怖い。

 彼はそう思った。

 もはや、何を恐れているのか自分でも理解出来ない程に動揺していたし、極度の緊張に疲労も溜まっている。

 まだ一発も撃ってもいなし戦ってもいない。それでも精神的にも肉体的にも限界が来ていた。

 同じ姿勢でライフルを構える仲間達も、ただ無言で暗い海を睨みながら震えていた。寒さの為か、恐怖の為か、何に対する恐怖であろうか。死の恐怖か、これから待ち受ける未来への恐怖か。命を育む朝日であるはずなのに、海辺を青く染める光は彼らの心を無防備に晒す死刑宣告に感じられた。少しずつ少しずつ明るく成るにつれ、沈黙に守られていた心の鎧が朝日なる剣によって砕かれつつある。

 変化のなかった闇が急激に走り去って行く。

 夜が明けるのだ。

 ルスランは吐き出される白い息に、命が溶けて行く気がして呼吸が更に浅くなった。自分の姿が浮かび上がるにつれ、完全武装にも関わらず丸裸の様に感じていた。

 各部隊の位置はゴーグルに表示されているが、それでも彼は肉眼で本当に仲間がいるのか確認を繰り返していた。

 もしかしたら作戦が変更された事を知らず、自分の隊だけ取り残されている。そんな不安に駆られているのである。

 勿論、周囲には隊の仲間がいて、霧によって左舷最末端までは確認出来ないが、海岸最前線には戦車隊と重火器部隊も列を成している。

 海岸線を見渡せる高台で構えているルスランは果たして、大型対物ライフルを携えた狙撃チームである自分達と、最前線の戦車隊とでは、どちらが幸せだろうかと負の葛藤に苦しんでいた。

 この距離から海岸の戦車装甲をも貫通可能なライフルだが、これから迎え撃つ人類史上最悪の敵に有効だとは、とても思えない。

 それならば主砲反動問題を解決し、セミオート装弾システムを導入した140mm主砲を持つ最新鋭の戦車なら対抗出来るのであろうか。

 非公式ではあるものの、世界中に配信された先日の交戦映像は人類を震撼させた。

 戦車砲の方が強力かも知れないが、潰されて狭いコックピットの中で圧死するよりは増しであろう。または、戦車の中で脚が抜けなくなり、火の手が上がった車内で死ぬまで焼かれ続ける事を想像すると、このまま凍死してしまいたい。そうルスランは半分本気で思い始めていた。

 一層の事、正気を失った方が楽に成るのかもしれない。

 心が壊れ始めている。

 ふと我に返り、ルスランは顔を激しく振るとゴーグルをヘルメットに掛けて両頬を叩いた。それでも足りず、グローブを外すと両手で顔を覆った。指先は冷えるが深呼吸を繰り返すと、自らの体温が手の平に感じられた。

 大丈夫だ、自分はまだ生きている。

 生きている。

 生きてさえいれば何とか成る。今は、そう言い聞かせるしかない。自己暗示でもあり信じてもいる。

 吹けば飛びそうな程ではあるが、少しばかりの落ち着きを取り戻したルスランは、皆はどうしているであろうかとグローブを嵌め直しながら顔を向けた。

 いつもは煩わしいと感じる仲間の冗談が聞きたかった。誰でも良いから、すべてを否定して笑って済ませて欲しい。

 夢を見ていたのだと。

 そうだ。きっと隣のデニスが、そろそろ笑い出して自分の肩を馬鹿力で叩き始めるに違いない。

 そんなルスランの視線を感じたのか、右隣で同じ体勢にてライフルを構えていたデニスが、震える腕をさすりながら振り返った。

「ルスラン。ウ、ウォッカ持ってないか」

 ゴーグル越しでもデニスの目は落ち込み、激しい疲労に見舞われている。必死に落ち着こうとしてはいるが、息も絶え絶えに呼吸をするのが精一杯である。

「さっき、あんなに飲んでただろ。デニスの方こそ俺に、俺にも分けてくれよ。もう寒くて寒くて、それに喉が渇いて死にそうなんだ。何が温暖化だよ。まるで氷河期じゃないか」

 両者とも寒さに呂律が回らず、酔っ払い同然の喋り方である。デニスは目元を引きつらせると、気管の奥から小さな咳を絞り出した。すぐには彼が笑ったのだ、と気が付かないほど不自然な仕草であった。

「もう、とっくに飲み切ったさ。コーヒーも、タンクに煎れて来れば良かったな。温かい奴をさ」

 デニスはカップを口に付ける真似をした。

「不思議だよな、ルスラン。死にそうに寒いのに、パンツまで汗でびしょ濡れだぜ。それが冷えて、もう尻も脚も何も感じねえ。もしかしたら漏らしちまったのかも」

 胃液が逆流したのか、デニスは何度も吐きそうになりながら、喉の奥から笑い声を漏らす器用な真似をした。

 ここ数日、誰もが眠っていない。

 睡眠時間が無かった訳でもない。

 眠れないのだ。

「も、漏らしたまま死ぬのは嫌だよなあ。遺体を回収される時に、恥ずかしい思いはしたくない」

「やめろよ」

 ルスランは聞きたかったはずの冗談を遮った。

 下品な話ではなく、どんな時でも笑顔だったデニスが弱り切っている姿を見たくなかったのだ。

 もしかしたら自分を笑わせて、不安を取り除いてくれるかもしれない。そう思っていたのに、力ない弱気な言葉に冷たくあしらってしまった。

 勝手なものだ。

 だが、誰も他人に気を使える状況ではない。各々が逃げ出したくなる恐怖を、これまでにない気力で必死に抑え付けているのである。

 皆怖いのだ。

「なあ、ルスラン。前に一緒に行ったバーの女を覚えているか。あの笑顔の可愛いブロンドの子だ。じつは先週お前に内緒でデートしたんだ」

 デニスが笑っているのか、苦しんでいるのか分からない息を吐いた。おそらく両方であろう。

「別に俺の許可はいらないだろう。デニスが誰とデートしようが自由さ」

「お前も可愛いって言ってたじゃないか。また、俺が取っちまったら悪いなと思ってさ。一応、こう見えて俺だって気を使ってるのさ」

「いいさ。俺は」

「そうか、分かったぞルスラン。お前、街外れにある小さいカフェの娘を狙ってるんだろ」

「何でだよ。違うって」

「本当か。だってお前、いつも好きでもないコーヒーを買いに行ってたじゃないか。お代わりまでして、ずいぶん頑張ってただろう」

 日頃、がさつで無神経に見えるデニスだが、時に相手の気持ちを見抜く時がある。女の細かい仕草を見逃すな、と言うのがデニスの口癖であるのだが、他人を観察する能力には長けているのだ。

 黒々と目元に隈が浮かんだデニスの目は、生気が無いのにも拘わらず異様な光を帯びている。何処か遠くにある光景を見ていた。柔らかな陽光が降り注ぐ、何でもない平和な日常。

「やめろってば。前線で女の話をするなよ。縁起が悪い」

「そんなジンクス信じているのか。こんな、今より縁起が悪い事なんてあるのかよ」

 誰より体力自慢で病気も知らないデニスだが、そんな彼が疲れた顔で息を切らせている。ゴーグルの下から見返す目は、ルスランの眉間を抜けて後頭部辺りを見ていた。恐怖に耐えられず、精神的に追い詰められているのだ。それはルスランも同じであり、わざと女の話をしているのも痛いほど理解していた。

 おどけた振りはしていても、背中に張り付いた絶望は隠し切れない。お互いの顔に、はっきりと死相が浮かび上がっている。現実を受け入れられない哀れな人間の性が、せめてもの救いに冗談を求めたのである。

「そうだデニス。ウォッカはないがチョコがある。お前好きだろう。俺の尻のポケットに」

 デニスが咳き込んだ。口元に手を当てると、マスクの下で何度もえずいて肩を震わせた。苦し気に息を整えると、地面に伏せていた顔を上げた。

 急に目の焦点が合ったかと思うと、デニスはルスランの顔を覗き込んだ。目を光らせていた異様な熱が消えている。

「なあ、ルスラン。お前は国の為に、オウスの為に死ねるか。愛する者を守る軍人として」

「な、何だよ急に」

 一瞬前まで女の話をしていたと言うのに、急に現実を突き付けて来たデニスにルスランは動揺した。

「勿論さ、デニス。俺にだって愛国心がある。寒くて良い事ばかりじゃないけどオウスに生まれて、お前と一緒に育ったんだ。故郷を想う気持ちがあるからこそ、こうして軍人をやっているんじゃないか。どうしたのさ、今更」

 同じ学校を卒業し、一年の徴兵を終えた後に、共に軍に残る際に語り合った事柄である。意外と軍隊が性に合っていたと言う事もあるが、何か自分達が生まれ育った故郷の為になる仕事がしたかったのだ。

「そうだな。俺もオウスを愛しているし、オウスの為なら死ぬ覚悟は出来ている。俺達には守らなくては成らない国があるからな。だが」

 デニスは落ち込んだ眼を見開いた。

「こんなのは戦争でも何でもない。一方的な虐殺だ。守れるものなら命を懸けて守ってやるさ。なあ、信じられるか。あの、リヴェリアが壊滅したんだぜ。俺達オウス連邦。紅蘭共和国。そしてリヴェリア合衆国。世界三大超国家と言われた国の一つが無くなったんだぜ。国を潰しちまう奴とどうやって、どうやって戦えって言うのさ」

 息も絶え絶えに憤るデニスだが、その気持ちはルスランだけではなく大機甲師団全員が抱えていた。

「く、国が無くなった、なんて大袈裟過ぎだろう。リヴェリアの通信インフラが全部ダメになって、正確な情報が入って来ないから悪い方に考えてしまうのさ」

 首を振るとデニスは空を指差してから、手を広げた。

「すべての通信が途絶するなんて尋常じゃない。衛星も、ネットも無線も、全部だ。そんな事がありえるか。噂ではリヴェリア国内で核を使ったとか言われてる。そうでもしなければ、こんな状況は考えられない」

「それはそうだけど。俺だって、とんでもない事が起きているのは理解している。だけど国が無くなるなんて考え過ぎさ。ついこの間まで、メルツァロフ大統領とワイズマンが画面越しに喧嘩していたんだから。確か例のバーで飲んでいた時だ。お前が大統領の言葉に、そうだ、それならリヴェリアとは拳で決着を付けようぜ。て大騒ぎしていたんだから」

「俺のせいだって言うのかよ」

 デニスが空になったウォッカの瓶を投げた。それがルスランの腕に当たったが、凍え過ぎていて痛みも感じ無い。

「そんな事言ってないだろ。まさか、本当にリヴェリアと殴り合う事に成るなんて夢にも思わなかった、て話しさ」

「違うぞルスラン。リヴェリアとじゃない。リヴェリア合衆国と言う国はもう無いんだ。存在しない。俺達が相手にしているのはリヴェリアが産み出した、地球すらぶっ壊しそうな最悪の化け物だ。お前も動画を観ただろう。あの」

 ふとデニスは言葉を切った。

 その先を言いたくなかったのだ。

「ホライゾン・イーグル」

 ルスランが後を継ぐと、周囲にいた数人が振り向いた。ルスランの言葉に反応したのである。禁句である様に、無言の怒りを向ける者、恐怖を浮かべる者、嫌悪を表わす者と様々であった。

 名前が出た途端にお互いに黙り込んでしまい、耐えられなくなったデニスは非難の目を返しながら後を継いだ。

「ホライゾン・イーグル。何が〝調停者〟だ。只の侵略者だろう。リヴェリアも馬鹿な話だぜ。〝飼い鷲〟に手を噛まれるどころか、喉笛を食い千切られちまった訳だ。さらに、逃げ出した鷲が怒り狂って俺達にまで襲い掛かるなんて、どんな冗談だよ。無責任にも程があるぜ。お前もそう思うだろうルスラン」

「まあ、自業自得だし、責任と言うのなら紅蘭にも半分ある。紅蘭が大和の研究所を襲撃しなければ、大和はリヴェリアへの技術提供による共同開発支援は受けなかった筈だ」

 マスクを下げると、デニスは苦い唾を吐き出した。口元の涎をグローブで拭き、それをズボンに擦り付けた。

「紅蘭が襲撃した証拠はないが間違いないだろうな。余計な事をしやがって。その後も散々圧力を掛けたお陰で、リヴェリアが開発を焦って自爆したんだ。ふざけるなよ。そもそも、元凶は大和の危機管理の無さだ。あんな技術を世界中に公表したら狙われるに決まってる。そんな事も分からないなんて子供かよ。大和も責任を感じてるなら何とかしろって話さ」

「あの島国は太平洋の向こうだよ。それに、世界のフジワラ研究所は、枯渇するエネルギー問題を解決させる平和利用を目的としていたって」

 デニスに釣られて、ルスランも乾いた喉から唾を吐き出した。話すと余計に喉が渇くが、ただ黙って恐怖と寒さに耐える事も限界に近い。だからと言って気分が晴れる話題がある訳でもないのだが。

「大和は馬鹿なのか、能天気なのか、それとも底無しのお人好しなのか。きっと全部なんだろうな。勉強は出来るが世間を知らない馬鹿の集まりだ。オウスも含め、大国同士が資源問題の為に牽制し合っている中で、次世代エネルギーが平和利用される訳ないだろう」

 毒突きながら、デニスは額をライフルに打ち付けた。その度にアンカーで固定された金属部分が重たい音を鳴らす。

「やめろよ。ライフルも頭も壊れるだろ」

 友人の額を心配したルスランだが、デニスの吐き出した怒りと不安、理不尽さへの憤りは治まらない。

「お前は何も感じないのかルスラン。あんな怪物相手に、生身の俺達が立ち向かえるとでも思っているのか。俺はオウスにも軍にも忠義がある。だが、この作戦は犬死しろと言う命令にしか思えない。お前は、それで良いのか」

 大和か、軍の上層部か、己の運命か。もはや何に対して憤りを感じているのか、デニス自身でも分からなくなっている。抗えない理不尽な世情は、戦地に送られた一介の兵士には重すぎた。

「良い訳無いだろ。俺達は、あいつを倒せとは命令されていない。アセナスキー少将も、対調停者兵器が整うまで防衛線を維持しろって」

 気が付けば怒鳴りあっていた。お互いに不安の裏返しであり、八つ当たりである事も理解していた。

「イェーツァ計画か。噂ばかりで、誰も正確な事は知らないだろう。一体どんな物なのさ、こんな出鱈目な作戦があるかよ。ここで粘ってりゃ、そいつが倒してくれるのか。だったら何時来るって話しだよ」

「俺に聞くなよ」

 ルスランも癇癪を起し、目の前に転がっていた空き瓶をデニスに投げ返そうとした時である。

 大地が揺れた。

 激しい衝撃が、腹の下から天へと貫かれる。

 鳥が一斉に飛び去り、霧の中に消えた。

 冷え切っていた体がさらに硬直し、風の音も、波の音も聞こえなくなった。耳の中で自分の鼓動だけが暴れ、急に血流が増した為か、酷い眩暈と頭痛に襲われた。鋭い静寂の中に頭が割れそうな耳鳴りが走る。

 迎撃態勢で海岸に構えていた大隊は硬直し、本当に世界が凍結された幻覚に襲われた。

 デニスの口が動いたが何も聞こえない。

 誰もが何処に注視して良いか分からず、焦点の合っていない目が宙を舞う。頭髪の先まで神経が研ぎ澄まされ、海岸線に極限まで圧縮された不安と緊張の思念が張り巡らされた。

 再び、体を突き上げる振動が起きた。

 一度目より大きく重く、超質量を保有した何かが確実に接近している。各隊のリーダーが発する号令が無線と肉声とで交差する。ルスランのゴーグル内に「射撃準備」の文字が浮かび上がると、全身に汗が噴き出した。

 命令を受け取った大機甲部隊は一斉に安全装置を外し、周囲に重火器が稼働する金属音が連なって響く。

 まだうっすらと青い暗さが残る浜辺で、火器やスーツに取り付けられた警告灯が緑から赤に切り替わった。数万の赤い光は不気味な瞳を思わせた。

「来たのか、来たのか来たのか来たのか」

 ゴーグル内に冷や汗が流れ込んでくる。ルスランは自分が何かを叫んでいる事すら気が付いていない。

 恐怖に、すべて掻き消されてしまっていた。

 政治的思想も、愛国心も、夢も、麗らかな日常も。そして、恋と苦いだけのコーヒーの味も。

 鼓動、耳鳴り、自分の呼吸音。

 砲身の冷却装置が作動する。バッテリーがチャージされる不快な甲高い音に、何かが交じっている。

 デニスが叫んでいた。

 目を見開いて、大声で自分に何かを訴えている。

 だが何も聞こえない。

 聴覚が壊れた訳ではない。恐怖に全身の神経、五感が振り切れて脳の処理能力を超えてしまったのだ。

 振動。

 地鳴り。

 体を突き上げる波が早くなっている。

 ルスランの神経が正常に働いていれば、衝撃で地面から浮かび上がった戦車、重火器などが嫌な音を立てて軋むのが感じ取れたであろう。揺れは地鳴りへと変わり、戦車が不安定な地盤に流され始めると大機甲師団全体が浮足立った。

 思わず腰を上げようとして脚に力が入らず転倒する者。過呼吸で意識朦朧とする者。固まって初弾準備が出来ない者。泣き出す者。放心する者。叫ぶ者。海岸線に広がっていた大機甲師団の黒い影が乱れ、右往左往し始める。

 無線からはアセナスキー少将の悲鳴とも付かない割れた声が響き、そこへ各隊の状況報告が飛び交った。

「おい、ルスラン」

 気が付けば、デニスは中腰でルスランの傍まで来ており、彼の肩を掴んで後ろへ引き摺ろうとする。一方のルスランは完全に麻痺してしまい、硬直したまま瞳孔の開いた目を空中へと漂わせていた。

 その間にも地鳴りは続き、アンカーで固定していた筈の対物ライフルが音を立てて岩場から滑り落ち様としている。

「ルスラン、ルスラン」

 デニスは生気が抜けた友人の肩を揺らしながら頬を叩くと、表情が無かったルスランに変化が起きた。生物が極限まで追い込まれた最後の反応である。生き残りたかったはずのデニスも、ルスランの視線を追って振り返ってしまった。

 視界が揺らめいた。

 薄い朝日に白く染められた海面が、大質量を持った存在により歪められたのである。空間を突き破ろうとする力が目覚め、山脈を思わせる巨大な水柱が噴出した。

 霧を吹き飛ばした衝撃波に遅れて、引き裂かれた大気が轟音を吐き出した。それは戦車の装甲とプロテクトスーツを突き破り、蒼白な顔を浮かべる兵士達の体を震わせた。

〝爆発か〟

〝何が起きている〟

〝熱量反応が測定限界を越えました〟

 自然界では考えられない大きさの水柱を目前に、海岸線では蜘蛛の子を散らす様に大機甲師団が後退する。

 悲鳴と怒号が交じり合い、展開していた隊列は指示系統が回復不能なまでに混乱していた。転倒した兵士に躓き、更なる兵士が倒れ込む。慌てて後退した戦車に轢かれた者までいた。

 雲にまで到達する高さで動きを止めていた水柱が、瞬きの後に浮力を失って一斉に海面へと雪崩落ちる。

 世界中の滝を合わせても、これ以上は存在し得ない規格外の水量と轟音が交じり合い、濁流と化して荒ぶる海水の中から「調停者」が姿を表した。



 大地が震え、海原が暴れ、大気が轟いた。

 そんな荒ぶる大自然の力をも凌駕する、いや集約したかに思える超質量を持った存在が、海底より身を起こしたのである。

 あまりに巨大で海が持ち上がった。

 莫大な海水を落としながら、ホライゾン・イーグルの姿が大機甲師団の前へと晒された。リヴェリア合衆国が大和の森羅システムを動力源とし、共同開発された「ARTIFICIAL DEITY」人造神。

 世界に秩序を取り戻すために「調停者」と名付けられたホライゾン・イーグルは、雲に透ける冷たい朝日を背に深紅の装甲を浮かび上がらせた。

 物理法則を覆す超質量の機体は自重崩壊をも捻じ伏せ、地球の重力を支配下に鋼鉄の四肢を唸らせている。巨大タンカーを幾ら重ねても、その圧力には届かない姿は莫大なエネルギーを放ち、重金属の咆哮は世界に生きとし生けるものすべてを押し潰そうとする。

 鋭利な岩肌を切り取って繋ぎ合わせた様な体は、辛うじて人型を有してはいるものの、腕が長く武骨な手足は異形な猿人類の様でもあり、襲い掛かる獣の様でもある。

 大地を揺るがす脚は岩山その物であり、不動の意思を持って荒ぶる大波を否定していた。そんな末端肥大した武骨な手足を有する胴体は、何層もの城壁から構成される難攻不落の要塞を思わせた。

 双肩には大きな角が主張し、その中心に位置する頭部は前方に鋭く伸びている。猛禽類の嘴に似た頭部だが、これらの強烈な意匠の中でも一際異彩を放つ存在があった。

 嘴の付け根に位置し、何重もの装甲に包まれた奥底から覗く、一つ目の眼球。海岸線を黒く包み込んだ巨大な影の中で、金色の眼球が虚空成る無情の光を放っていた。

 恐怖、悲壮、慟哭、慈悲、死。

 そのどれでも無い。

 あるのは滅。

 黄金と言う神々しい輝きにも関わらず、光の中心で見開かれた黒い瞳孔はあらゆる希望を吸い込み、そして見る者を絶望させた。

 世界中の恐怖が集約され、人類は具象化した厄災の化身が逃れられない死の宣告を突き付けられた。

 自らを造り上げた人間の呪縛から解き放たれ、人智を超越し、その魂、その精神、そして無限の力を産み出す鋼鉄の体。血は通わずとも、明瞭な意思を持った生命とも呼べる存在は聳え、我を誇り、使命を掲げ、世界の調停を保つ為に目覚めたのである。

 この状況に、一体誰が立ち迎えるのであろうか。

 何でなら立ち迎えるのであろうか。

 正義であろうか。

 愛国心であろうか。

 それとも生存本能であろうか。

 陽光を遮る死の影として立ちはだかるホライゾン・イーグルは、アセナスキー少将率いる大機甲師団に向けて魂を抜き取る飛沫を撒き散らす。恐怖が冷たい刃となって喉奥まで押し込まれ、誰もが口を開けたまま内臓まで凍結させられていた。

 人の手によって造られたにも拘わらず、鋼の神は明らかな殺意を放ち、足元に群れる非力な焼却対象を見下ろしている。

 兵士一人一人を包み込む自然の力は、その頂点に君臨した人造の神に掌握され、差し込む陽光も、凍てついた空気も、打ち寄せる波も、今は感情を持つ人間の心を腐食し石化させる瘴気と化していた。

 静止した灰色の世界は、か弱き人間達を飲み込んで数多の輪廻を紡いでいた。それは兵士たちの走馬灯であろうか。長い長い平衡世界の先に、産声を包む手が撃鉄に掛けられる未来が揺らめいた。

 決壊しつつある。

 恐怖と緊張と、生への渇望。

 地球の共通思念か、人類の共通思念か。

 未知なる神との遭遇に戦き、静止していた時間が動き出す。数度、波が打ち寄せた後に、限界まで圧縮されていた人間達の理性が崩壊し弾け飛んだ。

 最初は、一発の銃声であった。すでに「射撃準備」のシグナルは「撃て」に切り替わっている。

 引き金を引いたのは反射であろうか。

 それとも、ルスランの生存本能が導いた決意かは分からない。彼を引き摺って逃げようとしていたデニスの腕を他所に、ルスランが絶対零度の沈黙を打ち破ったのである。その一矢が、彼らの滅亡へと繋がる楔であったとして一体誰が攻められ様か。

 海岸に木霊した銃声が消えると、ルスランは人ならざる叫び声を上げた。取り返しの付かない後悔、自責、愛する者への手向け、または神への贖罪か。

 だが、ルスランの生命を懸けた絶叫に、死に行く者達の魂が呼応した。

 大機甲師団は一斉に悲鳴を上げた。

 数万の慟哭は火器の炎と成り、氷点下の外気は一瞬にして灼熱の風に飲み込まれた。爆音に耳が聞こえなくなり、叫ぶ兵士たちの声は銃声に掻き消される。轟々たる嵐の中で、彼らは聞こえない魂を吐き出した。その魂は肉体を凌駕し、凍傷で傷付いた指は銃身が焼き付いても撃ち続けた。

 無数の弾丸と熱と火花に、デニスはその場に倒れ込む。完全に仲間達の同調から弾き出されてしまっていた。頭を抱え、激しい光と爆音に巻き込まれながら、生存本能に理性を奪われたルスランを見返した。彼は空に吠え、目は焦点を失い、涙と鼻水と涎を流し、全身を震わせながら撃ち続けていた。

 その様は、もう二度と一緒に温かいコーヒーを飲めない事を示唆していた。デニスは死の恐怖よりも、当たり前であった日常を失う喪失感に襲われていた。

 気が付けばデニスも泣いていた。

 死にたくない。

 死にたくない。

 死にたくない。

 神よ。もう一度だけ、友とコーヒーを飲ませてほしい。

 一口で良い。たった一口。

 神へ向かってデニスは祈った。

 神へ向かって。

 神へ。

 神。

 その神へ、人は手を上げてしまったのである。

 そもそも神は人を救済すべく存在なのであろうか。粛正が調停者としての下した審判であるのなら、人は神の怒りを受け入れる定めなのか。

 死にたくないと言う「イノリ」は、彼らが信仰し目の前へ実体化した神に届き得るのか。

 人だけが神へ祈る。

 人だけが祈る。

 人だけが。

 人。

 霊長類最上位として君臨していた人がその存在を脅かされた時、自らの純然たる野生と生存本能の脆弱性が露呈したのである。知性と理性を持った人類が極限まで追い込まれ、最後に取った行動は「泣いて喚く」であった。

 これが、地球上で英知を極めた者達の末路である。

 大戦車部隊、ミサイル装甲車、重歩兵。総数四万から編成された大機甲師団らが放つ炎は、何千何万もの煙を引きながら浜辺を埋め尽くし、海に君臨する鋼の山へと集約される。

 閃光、爆発。

 炸裂した炎に新たな炎が重なり、巨大な雲炎へと姿を変えて海を朱色に染めた。爆風が火花を撒き散らし、視界を阻む黒煙を抜けて更なる砲撃が続く。

 兵士達の絶叫は連なる爆音と成り、衝撃派で巻き上げられた海水は涙として海岸を濡らす。吐き出された慟哭が糧と成り、止まらぬ炎はか弱き者達が掲げる最期の灯として爆散した。

「撃て撃て撃て撃て撃て撃て」

 作戦も無ければ、逃げ場も無い。

 アセナスキー大機甲師団は、永遠とも思える一瞬に全身全霊を込めた攻撃を放ち続けた。砲身が焼き付き、火器が悲鳴を上げ、排出された薬莢が煙と共に兵士達の間で川を生成した。

 爆風に火の粉が渦を巻き、射出されるミサイルや弾丸が何千何万と言う朱色の尾を伸ばす。雲と大地が閃光を反射し、絶え間ない雷光を模していた。

 ルスランの一撃から決壊した超密度の波状攻撃は、唐突に始まったと同じく、波が引く様に唐突に収束した。

 弾薬やバッテリーが切れ、火器が限界を超えて動かなくなった理由も有る。しかしながら、攻撃が止んだ一番の理由は人間達の魂が燃え尽きたからであった。

 生命と言う呪縛が有る限り、無尽蔵に叫び続ける事は出来ない。激しければ激しい程、消耗も早い。

 全てを燃やし尽くした大機甲師団は、視界を覆う煙が流れて消え行く様を茫然と見上げていた。静かに打ち寄せる波音が響き、風が煙と火薬の匂いを洗い流す。

 海岸に佇む巨大な影は微動だにせず、無慈悲な光を放つ一つ目が見下ろしていた。

 波音の沈黙が包む。

 ルスランのライフルから薬莢が落ち、終わりを告げた。

 目の錯覚ではなかった。

 火の粉でも、光の反射でもない。

 燐光が出現していた。

 白く、大気中に輝く微粒子が舞い始める。

 それらは風や重力を無視し、ホライゾン・イーグルを包みながら密度を増して行く。粒子は触れ合い、結合し、互いに引き寄せられて輝きを強める。

 無秩序に舞っていた燐光は次第に同調し、明らかな意思により大気と言う巨大なスクリーンに輪を構成し始める。

 不安定であった形状は真理を具象化して重なり合い、やがて細く完全なる真円へと姿を変えた。

 山脈を思わせるホライゾン・イーグルよりも大きくなった光の輪は、海面を乱反射させながら一転して縮小を始める。

 光は、人間で言えば額の位置へと凝縮され、小さな球体にまで圧縮された。光は地上に現れた太陽の如く輝き、巨大な影であったホライゾン・イーグルの全容が煌々と照らし出される。血の色をしていた装甲は増大する光量に白く染められた。圧縮限界を越えたのか、額に集まった光球から無数の閃光が零れ始める。

 海も、空も、視界に映るすべての景色から影が無くなった時、更なる光が放たれた。

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