私のお願い

三駒丈路

私のお願い

「また大台に乗ってしまった…。仕事もうまくいかんし、結婚もできなかったなぁ。まだまだこれから、とか簡単に言うヤツもいるけど、他人事なら何とでも言えるよなぁ。…どこで間違えたのかなぁ」

 会社からの帰り道。誰も祝ってくれることもない五十歳の誕生日を迎えて、彼は独りごちた。家庭もなく一人でいることが多いと、つい声に出てしまう。

「あのとき勇気を出せてたら、今頃幸せに暮らしてたのかなぁ。あの日は絶対、分岐点だったよなぁ。足、痛かったけどなぁ」

 彼は遠い目をして、四半世紀も前のことを思い出す。


 彼は成績優秀だったが、恋愛には奥手だった。学生時代に恋をしてこなかったわけではないが、すべて片想いだった。片想いといっても、振られたわけではない。一度も告白してこなかったのだ。好きだと思いつつ、勇気が出せず何もせぬまま自然消滅していく繰り返しだった。


 デートのひとつもしたことないまま彼は就職したが、持ち前の優秀さで三年目には頭角を現してきた。そんな折だった。彼女が入社してきたのは。

 優秀な彼は、彼女の教育係に任命された。彼女はおとなしく垢抜けない感じだったが、素直で好感がもてた。彼はすぐに彼女を好きになったし、彼女の態度も自分を意識していると確信が持てた。


「これはいける」「この娘、絶対オレのこと好きだよな」と彼は思ったが、そこで押せないのが彼だった。今までもそうやって「片想いで終わる恋」を続けてきたのだ。

 お互いに意識しつつ、互いに言い出すこともなく、何の進展もしないまま半年が過ぎた。でも想いはつのっていく。確信はある。どちらかが言えば、それで済む話だ…と思う。しかし…進まない。


 そして冬。会社の忘年会。彼も彼女もあまり酒は強くない。しかしある程度飲まなければならない。そういう時代。飲めないながらも部署グループの三次会も参加して。

 グループは四次会まで行こうとしていたが、飲めない二人はこっそりと、わざとはぐれた。そしてゆらゆらと歩きながら。

「いやー。酒、好きでもないのに付き合ってられんよねー」

「ほんと…ですよね。もうこんな時間だし…」

「何時?うわー。やつら、朝まで飲むつもりなのかな。好きだなぁ」

「好きなら…朝まで付き合いますか?」

「それはまぁ…。え?酒の話だよね…」

 何も言わず、彼女は潤んだ瞳で見つめている。彼はドキリとしてよくわからない声を出してしまう。

「え…。あ…。お…」

 少し苦しそうな細い声で彼女が言う。

「わたし…ちょっと酔ったみたいで…。休みたいけど…。最終のバスはもうすぐ出ちゃうみたいで…」

 彼は、ここで真価を発揮してしまう。

「そ、それじゃっ!急がなきゃ!バス停すぐそこだからっ!あっバスが来た!がんばって走ろう!」

「え…?え?えぇっ?」

 彼は彼女の手を引いて走り出し、出発寸前のバスに乗せ、手を振って言った。

「おやすみ!家でゆっくり休みな!」

 バスは出ていった。


 直後、彼は我に返る。

「あれ…?えーと…」

 そして後悔が押し寄せる。

「あああああ。バカか俺は。あれ、絶対誘われてたじゃん。朝までって。休みたいって。バス無いって。何さわやか青年やってんだよ」

 と同時に、真実も悟っていた。

「いや…。それ、わかってたよな。わかってたけど、怖かったんだ。怖くて、さわやか青年やったんだ…」

 臆病な自分が嫌になる。

「ああっ。もうっ!」

 彼は、路肩にあった石ころを思い切り蹴り上げる。蹴り上げようとした。

 しかし、それは石ころではなく、地面に埋まった木の根の一部が突き出たものだった。その部分は欠けて飛んでいったが、彼の足に激痛が走った。足指の骨にヒビが入っていたことが判明するのは翌日のことである。

 足をおさえつつ、遠ざかるバスを見送りながら彼は決意する。

「今日はだめだったけど、いつか、想いは伝えるさ。今度こそ」


 しかし決意も虚しく、そのいつかは来なかった。

 それから彼女はよそよそしくなってしまった。話しかけても、すぐに去っていこうとする。あからさまに避けられていた。

「ああ。そうか。彼女、相当がんばって、自分から俺を誘ったんだよな。恥ずかしい思いを乗り越えて。それをあんな形ではぐらかされたんじゃ、嫌になるよな…」

 彼はそう理解した。それは間違ってはいなかったが、もうひとつ決定的だったのは、酒を飲んで気分が悪いところを走らされバスに乗せられた彼女が、そのバスの中で吐いてしまっていたことだった。

 これは恨まれても仕方ないかもしれない。それを彼が知るのは、一年後に彼女が結婚して寿退社したあとのことだった。


 その後の彼は、より恋愛に臆病になってしまった。なまじうまくいく寸前だったからよけいに、だったかもしれない。誰かを好きになることさえ、怖くなってしまっていた。

 そして、それは仕事の面にも影響を与えた。自分に自信が無くなってしまったし、四十路を前にする頃には「その年で結婚もしてない男は信用ならん」などと時代錯誤な上司に言われる始末で、出世もできなかった。


 そして今日、五十歳になってしまったのだ。

「ああ。もしあのとき勇気を出してたら。彼女と結婚して。子どもが二人くらい出来て。ひょっとしたら孫なんか出来てたりして。出世して。今頃あったかい家族に囲まれて。誕生ケーキを食べてたんだろうか」

 泣きそうになった。そしてまた独りごちる。

「同情した天使でも現れて、あの日に戻してくれないもんかなぁ」

 不意に、後ろから声がした。

「戻りますか?」


「うわぁっ!」

 彼は心臓を口から出しそうになりながら振り返る。

「だ、誰だ?いつからそこにいた?」

 そこには帽子をかぶった、背が高く中性的な顔立ちの何者かが立っていた。いやよく見ると、わずかに浮いていた。

「だいぶ前からいたんですが…。いや、えーと。また大台に、とか独りごと言ってるころですかね。姿を表したのは、今です。あなたが願いを口にしたから。私が何者かというのは…まぁあなたの判断にまかせます」

 彼は改めてその何者かを見る。少し浮かんでいるのは、錯覚とかトリックではなさそうだ。さっきは見えなかったが、背中にはたたんだ白い羽のようなものも見える。

「天使…?いや悪魔…?少なくとも人間じゃない…よな…。こんなことが…」

 何者かはニコリと笑って言った。

「それはどちらでもいいですけどね。大事なのは、今あなたには権利が与えられているということです。あの日に、戻りますか?」


 彼は考える。こいつが人間ではなくそれ以上の存在であることは確かだ。そして物語なんかではこういうケースで話をもってくるのはたいがい悪魔で、願いを叶えてもらっても結局魂をとられたりする。

 でも外見は悪魔っぽくない。むしろ天使。第一印象がそうだった。魂をとられたりとかいうことじゃなければ、今より悪い状況にはならないんじゃないか…。結局歴史は変えられませんでした、とかのオチだったとしても損はないし。何の見返りもなく行くことができるのなら、行かない手はない…。


「ほ、本当にあの日に戻れるんですか?」

「大丈夫ですよ。ご心配なく」

「なんで、私にそんなことをしてくれるんです?」

「いや、これは別にあなただからということではないんです。願いを口に出す人がいて、その場に我々が居合わせたら、願いを叶える。それが我々の仕事です」

「我々?他にもいるんですか。聞いたことないけど」

「けっこういますよ。ただ、誰かが願いを実際に言葉として口に出して、そこに偶然我々がいてそれを耳にする。それは確率的にはだいぶ低いですから。超高額宝くじに当たるみたいなものではあります。そして、我々の力で願いが叶っても普通はそれを言いふらしたりはしませんからね」

「それじゃあ、魂をとったりとか…」

「しませんよ。そんなこと。我々はただ条件にあった人の願いを叶えるだけです」

「見返りとか無しに?」

「ええ。出会う条件が厳しいわけですし。叶えるのは無条件です。先ほども申し上げましたが宝くじに当たったと思ってくだされば」

「そうですか…。ホントに…。私はラッキーなんだ。口にしてみるもんだなぁ。天使さま、ありがとうございます。ぜひ、お願いします」

「ではあの日に戻るということで。よろしいですね?参りますよ」

「天使さま」の身体が光り輝き、その光に彼は飲み込まれていった。


 気がつくと、彼は自分が若返っていることに気づいた。そして少し懐かしい街並。目の前には彼女がいる。あの夜だ。彼女の口が開く。

「わたし…ちょっと酔ったみたいで…。休みたいけど…。最終のバスはもうすぐ出ちゃうみたいで…」

 来た。このセリフ。彼はドキドキしながらも勇気を振り絞り、彼女の肩に手を回した。

「そ、そう。それじゃ、今日はどこかにと、泊まってゆっくりしようかかか。ま、まだ気分悪いよね。ちょっとそこで待ってて。たたたタクシー拾うから」

 彼女が顔を赤くしてコクリとうなずく。


 そして彼はギクシャクと歩きながらタクシーを拾おうとして…ポンと誰かに押された気がして…路肩にあった木の根につまずいてしまう。

 そのままト、ト、トと車道に出てしまい…ちょうどそこにやってきたバスと正対した。避けられない。間に合わない。刹那、ギギギと首を動かすと、少し微笑んでこちらを見る彼女の後ろに黒い羽の天使さまが見えた。彼は最後の瞬間に色々と思った。

「え。これ、俺の選んだ未来…?天使さま?見てるだけ?彼女?ここでオレを助けてって言えば天使さまが願いを叶えて助けて…ムリ?やっぱり?ダメ?結局天使じゃなくて…?」


 彼女は彼の最期を目の当たりにして、その場で吐いていた。

「天使さま」はフゥっとため息をつきながらその光景を見ていた。そして声をかける。

「これで、よかったんですか?」

「うぇぇ。結局、吐くんだ。変なところで歴史は変わらないのね…。誰も見てないからいいけど」

「まぁ、そうですね。飲みすぎて気分が悪かったのは変わらないですし。しかし、あなたの願いを叶えるために、彼の願いも一応叶えることになりました。彼が願いを言うまでだいぶ待ちましたが…」

「手間かけさせちゃったね。私がやり直すためには、彼が私をバスに乗せることをやめさせなきゃいけなかったの。あの、衆人環視のバスの中で吐いちゃったこと、みんなに知られてトラウマになっちゃって。彼のことも殺したいくらい嫌いになっちゃって」

「……」

「落ち込んでるときに見かねた同僚から合コンに誘われて出会ったのが夫だったの。それで結婚したけど…すぐうまくいかなくなったわ。ちょっとケンカすると『バス吐き女』と言われちゃったり。お互いギスギス。だから結婚もやり直したいし、バス吐き事件もなかったことにならないかなと…」

「あの夜に戻れたら…とつぶやいたときに私がいたわけですね」

「うん。今度も吐いたけど誰にも見られてないし、これでまた誰かとやり直せそうだわ。ありがとう、天使さま。というか、天使なの?」

「天使とか悪魔とか、そういう区別ないんですけどもね。発酵と腐敗の違いみたいなもので。羽の色もその人の見方によって違います。魂も取りません。そんなもの、本当にあるのかどうか知らないですし」

「そう。じゃ、私にとってはやっぱり天使だわ。またこれから若い時をやり直せるかと思うとドキドキするわね。あらためてありがとう。さよなら」


 彼女は救急車のサイレンを背に去っていく。

「…前向きだな。分岐点に戻ればうまくいくとは限らないのは、彼の例を見てもわかるだろうに。まぁ、もうあなたと会うこともないでしょう。これからうまくいかなくて『いつも願いごとをつぶやいて周囲を見回すヘンな人』にならないでくださいね」


 しばらくすると、物陰から男が現れて「天使さま」に声をかけた。彼女の夫だった。

「うわー。こうなるんですか。私としては彼女が元カレと結婚すれば、私と結婚しなくてすむかな、くらいに思ってたんですが」

「まぁ、人の気持ちや運命なんて定まらず変わっていくものですからね」

「そんなもんですかね。とりあえず、彼女との縁は切れたかな。私の願いを叶えるために彼女の願いを叶え、そのために元カレの願いを叶えたんですよね。お疲れさまでした。私もこれからやり直しできます。ありがとうございました。いやー、しかしあのバス吐き女と言ったら…」


「天使さま」はまだ続く夫の言葉を適当に聞きながら灰色の羽をひろげ、浮き上がりつつボソリとつぶやいた。

「みんな自分が主人公だと思ってるからなぁ。えーと。これで三人目か。あと何人の願いを連鎖させたら、一番最初の願い人の願いが叶うことになるんだっけかな…」

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