二章7 『お情けとお風呂』

 立直(リーチ)してからの初ツモはチューソウだった。

 これで一発が消えたどころか、危険牌だ。しかも立直をした状況下では、上がり牌以外ではツモ切りしか認められない。


 ……ええい、ままよ!

 俺は固く目をつむり、チューソウを川に置いた。


 場はしんと静まり返ったままだ。

 どうやらこの牌は許されたらしい。

 緊張に締め付けられていた胸の中が緩む。


 目を開き、顔を上げた瞬間。


「――ロンよぉん」


 無慈悲なる声が浴びせかけられた。

 牌の倒されるパタンという音が響く。


 イーピン、スーピン、リャンソウ、ウーソウ、チーソウ、ハツにたった今のチューソウで構成された七対子(チートイツ)だ。


 ドラ表示牌はイーソウ、つまりリャンソウがドラ。


 二並は妖艶なる笑みに影を落とし、役の内訳を艶っぽい声で並べたてた。


「立直、七対子、ドラドラ、それに赤ドラと抜きドラ。裏ドラは……」

 細長い指が牌山のドラ表示牌に伸び、その下の牌をめくる。

 西――それは北がドラになることを指す。

 それは抜きドラにも適用される。


「んっふふふ、一翻追加で、16000点ねぇん」

 身体の中が冷え込んでいく、真冬の空気を取り込んだかのように。

 さらに立直棒を加えれば、17000の失点だ。


 やっぱり迂闊だった……、こんな上がり牌が少ない状態で、追っかけ立直なんてかけるべきじゃなかったのだ。今更後悔しても遅いが……。


 俺は震える指で点棒箱から16000点分を取り出し、彼女側へと置いた。

 さらに立直棒も手に取り、その横へと置こうとしたが――

「ああ、それはいいわよん」

 なぜか手で留められた。


「いいって、何が?」

「別にそれはいらないってことん」

「いらないって、お前……」

 ますますわけがわからず混乱する俺を面白がるように笑声を零した彼女は、こちらに項垂れたような人差し指を向けてきて言った。


「だってぇん、次にあーたから18000点を和了(あが)っちゃったら、立直がかけられなくなって、つまらないじゃない」


 ……にわかに頭に血が上るのを感じた。

「てっ、テメェ……、ざけんじゃねえッ!!」

 気が付いたら俺は、卓を叩いて立ち上がっていた。卓上の手牌も牌山も、ひっくり返ったりバラバラになっている。


「敵に情けをかけるなんて、雀士に対する最大の侮辱だぞッッッ!!!!!!」


 麻雀は運の要素も大きく、初心者が上級者に勝つことさえあるゲームだ。ゆえに将棋のような飛車角落ち、囲碁における置き石のようなハンデは基本的に存在しない。


 だからこそ、こんな『自分は絶対に負けない』という余裕を見せつけるようなお情けにはトサカが来る。


 その気持ちは、雀士なら誰でもわかってくれるはずだ。

 なのに。

「もらっておきなさい、九十九」

 あろうことか柚衣は、俺にその情けを受けろと告げてきた。

「なんでだよっ!?」

 彼女は淡々とした調子で言った。

「試験には、相手の譲歩を受け入れてはならないというルールはありません。敗北の芽を潰す可能性があるものはなんであれ、利用すべきです」

「だけどっ……!」


「冷静になりなさい」

 冷や水のような声を受け、俺は瞬間的にさっきとは違う種類の冷気を体内と心中に感じた。

「一生を左右する試合ですよ。つまらない意地でそれを無駄にすべきではありません」

 そう言われては、返す言葉なんてなかった。


「九十九」

 つかつかと、麻燐が近づいてくる。

 ああ、今の大ポカでさすがに愛想をつかされたかな。いや、んなもん最初からなかったかもしれないけど。


 自嘲的と言うか、自虐に肩を落として俯いていると。

 柔らかく小さな温もりが、そっと俺の手を包んだ。

 ゆっくりと持ち上げられる。

 それにつられるように、顔を上げると。

 穏やかな表情の麻燐が、俺のことを見やっていた。


「麻燐……」

「ねえ。一つだけ、約束してもらってもいい?」

「……約束?」

「そう、約束」


 ぎゅっと、手を握りしめられる。

 まるで、それは。

 胸の奥まで一緒に締め付けられたようだった。


 間近に迫ってくる、麻燐の顔。

 唐突に蘇る唇の感触に、まるで束縛から逃れようとするかのように、締め付けられた心臓がバクバクと暴れ出す。


 眼前の桜色の唇が割れて、言葉を紡いだ。


「試験に、合格して。絶対に――」


 その言葉はまるで涼風のように、火照った体には心地よく感じた。


 上がっていた気持ちが落ち着いてくる。

 すっと頭の中が冴え渡っていくような気がした。


 ああ、これは。

 2位と倍以上の点数を稼いだ時に感じる、あの心境に似ている。


 そう。世界に何もかもを手にしたかのような。

 ――全能感。


 森羅万象を操るかのような、神にもにた心地に。

 俺は確かな自信を持って、麻燐の手を握り返し。

 力強い声で返した。


「ああ、約束だ。絶対に試験に合格してやる」

「……うん。そうしたら――」


 何かを言いかけて、急に口をつぐむ。

 それきり口を開こうとしない。

「そうしたら、なんだよ?」

「ううん。これは……そうね、柚衣に話しておくわ」

「おいおい、俺に関わることなんだろ? 話してくれたっていいじゃないか」

「ダメよ。試合に集中できなくなっちゃうかもしれないじゃない」

 繋いでいた手を解かれ、続けざまに鼻をぴんと弾かれた。

「いった! 仮にも雀士なら、拳で語るなよ!?」

「拳じゃなくて指だもの」

「屁理屈こねやがって……」

「ふふっ。じゃあ、頑張ってね九十九」


 くるりと背を向け、柚衣に向かって言った。

「行くわよ」

「承知しました」


 出口に向かって歩き出した二人を、俺は慌てて呼び止めた。

「おいっ、ちょっと」

「何よ」

 肩越しに振り返った麻燐に、俺は言ってやった。


「こういう時は、勝ったな風呂に入ってくるって言うんだぜ」

「……はい?」

 ぽかんとした顔の麻燐。

 ふいに不安が去来し、俺は考え込む。

「あ、いや、これは負けフラグだったか? ええと、勝ちフラグは……ってそもそもそんなのあんのかよ」

 ぶつくさ言ってる俺をくすりと笑い、麻燐は一言残して去っていった。

「そうね、お風呂にも入ってくるわ。あんたとのあれで汗かいたままだったし」


 残された俺は、しばし羞恥心にもだえ苦しむことになった。

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