梅雨は明けるか【湿っぽい・タイムセール・またかよ!】
アールグレイが注がれたウェッジウッドのカップの前で、甘利優香は、泣いていた。
同じテーブルの向かいにいる友達が、困ったように呆れたように、視線を投げているのが分かる。レモン色の壁紙と観葉植物がかわいらしい、爽やかなカフェの中。窓際から見える街路樹は、夏本番の太陽を跳ね返して元気いっぱいに輝いている。だが――その窓際の席で涙をこぼし続ける優香の周りにだけは、いまだ梅雨明けの遠そうな、じめじめと湿った空気が漂っていた。
「ねぇ……優香。もういいかげん、泣くのはやめようよ」
「……だって……だって」
優香の涙は止まらない。
続けたい言葉は、しゃっくりに飲み込まれる。抑えたいのにおさまらない。何か言おうとすると、それがまた涙になる。
「だって……わーーーーん」
優香は盛大に泣き声を上げながら、またテーブルに突っ伏してしまった。
「あーもう、また大泣きするし……ほら、ちょっと周りを見てよ。他のお客さんの視線が『またかよ!』って言ってるよ。さすがの私も恥ずかしいってば」
「……ごめん、ごめ……だって、だって……」
ぐすん、ぐすん。
「本当に本当に、絶対大丈夫だと思ったのに……あとほんのちょっとだったのに……」
優香の目から、またどっと涙がこぼれ落ちた。
「……私、タイムセールに、間に合わなかった……」
「タイムセールねぇ」と呟いて、友達は大きく大きく、ため息をつく。
「ねえ、何度も言っているけど、その程度のことで泣かないでよ。そんなの仕方ないじゃない、時の運なんだから」
ぐすん。ぐすん。
「タイミングだってあるし。縁だってあるし」
ひっく。ひっく。
「まだこれから機会もあるんだし。だいたいセールだからって、いい出会いがあるとは限らないんだし」
「……だけど」
優香はじっとり濡れて重くなってきたハンカチで、新しい涙を抑える。
「だけど、タイムセールは今日で終わりなの……」
友達はまた溜息をつく。――ふう。
「もっと頑張ればよかった。もっと急げばよかった」
はあ。
「チャンスだったのに、タイムセールの期間を過ぎてしまって」
ふぅぅぅー……。
「もう私には、何の未来も……」
「――あーーーっもう! う・っ・と・う・しいっっっ!」
バン! テーブルが鳴る。彼女が手のひらを叩きつけたのだ。
優香はすくむ。無関心なふりをしてこちらに注目を向けていた、周りの空気も一緒にキュンとすぼまった。
「いいかげん、『君のタイムセールは終わったね』なんてふざけたセリフを残して去っていった超失礼な男なんて忘れなさい! あんたもあんたで、『20代までが私のタイムセール。売り時よ』って、同じくらい失礼な考え方してたからそんなにダメージ受けるのよ! 30になったからって何なのよ、29歳の自分と大して変わんないじゃない。ちゃんと区切りつけて、泣くのをやめてキレイになって、もっといい人見つけてとっととヨメに行っちまえっ!」
彼女の手がすっと天に伸びた。
またテーブルを叩くのか――と優香はまたまたすくんだが、それと一緒にBGMがふっと消え、スタッフが「も、もういいですか……?」と、おずおずトレイを持ってきた。
苺と桃とブルーベリー、シャインマスカットに薄切りのりんご。
宝石のような果物をふんだんに飾ったケーキの上には、火のついた可愛いキャンドルが3本あった。
ハッピーバースディの歌が流れだす。
「……え。誕生日……私の?」
「そう。このお店、バースディサービスがあるんだよね。だから誘ったのに、あんた最初から泣いてるから……『30歳』おめでとう」
彼女は『』内を強調した。
30歳になる一日前。昨日、優香はふられた。結婚目前と――勝手に――思っていた人に。
今どき古いと言われようとも、優香は20代での駆け込み婚を目指していた。それができなくても婚約さえすればと思っていたから、昨日、彼に呼ばれたときは、プロポーズだといいなと思っていた。なのにふられて――何もかも無くした気がして。それは本当につらすぎたけれど。つらすぎたけど……。
「……私、わたし、全部無くしたわけじゃなかったんだね。今日は、本当に……あ、あ、あり……ありがーーーー」
ふたたび止められない涙がこぼれおち、優香はおいおい泣き出してしまった。
「あーもーだから、『またかよ!』て視線が来てるってば……。お酒も入ってないのに、なんでそんなに泣けるの? 泣き上戸だった?」
「……わ、わかんないけど、か、感動の涙だから、ここはゆるして……うえぇぇぇぇん」
やれやれとそっぽを向いた友達は、頬杖をつきながら小さく一言、呟いたようにみえた。
――湿っぽいの。
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