第2話 ピアノ天使
中学の卒業式を終え、高校の時間割が確定するまで、僕はピアノのレッスン時間を金曜日の夜に変えることになった。
それまではずっと土曜の夕方で、前の時間帯には兄弟で通っている小3と小1の生徒がいて、後の時間帯は大人の生徒が時々入る、といったスタイルだった。
『尊くんのレッスン後は、あまり生徒を入れたくないから、できるだけ後の方の時間帯に移動して欲しいんですよね』
僕の演奏曲が大曲になるにつれ、先生はお母さんに伝えていた。
つまり『出来あがっていない時には、少しレッスン時間を延長してでも仕上げよう』ということだ。
金曜の夜の時間も、もちろん最後に入れてくれた。
夜8時、レッスンスタジオにつくと、上質なショパンの調べが聴こえてきた。
『こんな演奏する人、いたっけ…?』
でも先生の音色ではない。昨年秋の発表会も一通り聴いているけど、こんなロマン派の演奏ができる生徒は記憶になかった。
恐る恐るレッスン室に入る。
ピアノに目をやる前に、保護者と目があった。
『優弥くんか…」
保護者の顔を見て、その演奏が誰のものか把握した。
小学校5年生の優弥くんは、お母さんはピアノに無知で、お父さんが熱心だ。
お父さん自身も小さい頃ピアノを習っていたらしく、まさにお父さんと二人三脚で頑張っている。
昨年の秋に発表会で見た姿からは、随分大人びた優弥くんがピアノを弾いていた。
これはショパンのマズルカかな。
「こんばんはー」
優弥くんの演奏が途切れた瞬間に、先生が僕に声をかけた。
「…こんばんは」
モソモソっと返答する。
先生は、来週までに直してくるところと、練習方法を伝えて優弥くんのレッスンが終わった。
「尊くんが、この後の時間に入るんですね。少しでも演奏が聴けそうで嬉しいな」
優弥くんのお父さんが先生に話しかけた。
「そうなんです、高校の時間割が出るまで暫定的なんですけどね。色んな曲が聴けるといいですね」
「お兄ちゃんの演奏聴けたらいいよね、優弥。ほら、この前の発表会のバラード1番もすごくカッコよくて。お母さんも、あの曲は知っててテンション上がってたもんな」
優弥くんに向けてお父さんが話し出す。
「フィギュアスケートでバラード1番が流れてたから知ってたってお母さんが言ってました」
優弥くんが先生に話す。
「そう、お母さん、あのフィギュアスケートの選手のファンなのかしら?イケメンで王子様みたいよね!」
はるか先生も、ちょっとミーハー気味に話し始めた。
「でも、優弥くんも保護者の皆さんから『ピアノ天使』なんて呼ばれてましたよ。この前の発表会でファンが出来たみたいで!」
「ははは!優弥!!やったな!ファン獲得だ!」
それを聞いてお父さんは上機嫌だ。
たしかに優弥くんはジャニーズ顔だ。うちのお母さんも、あの子可愛いわよね!とコンクールで会うたびに用もないのに話しかけている。
愛想もよくて、照れながらも笑顔で一生懸命話す姿も大好評で、演奏も真面目で上手、となれば、他の保護者からも注目されているんだろう。
お父さんもイケメンだから、あのまま成長すればモテる部類の男になるかもな。
優弥くんは先生の所に行き、両手を握って『ありがとうございました』と言った。
どうやら、レッスンの終わりは両手を握りあうことになっているらしい。
その時の先生を見上げる優弥くんの顔に、何か違和感を感じた。
あれは、先生のことが完全に好きなんじゃないかな。先生を見上げるあの顔には、見覚えがある。ピアノの先生が初恋、なんてベタなのかもしれないけど。
でも、発表会からほんの半年で、あんな表現豊かな演奏になるってことは、本気度が増しているのかもしれない。
「さようなら」
優弥くん親子がレッスン室を出ていき、僕のレッスンになった。
僕は先週演奏しなかったベートーヴェンのソナタを弾きながら、優弥くんの先生に向ける眼差しを、僕の記憶から消し去ることに没頭した。
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