35、一番美味しいところを持っていく男


 大丈夫。

 台本の内容は頭に入っている。


 やや大きめの衣装を羽織はおり、俺はカーテンの内側へと進んだ。突如として主役が変わったことに、少し客席がざわつくのが分かる。事情を理解していない役者たちも、キョトンとした目で俺を見ている。


 ただ一人、春姫だけは全てを理解したという表情をしていた。 


「……魔法が……解けたのですね」


 台本にはないセリフ。


 手を組み、祈るように言った春姫は、見とれてしまいそうな笑顔を見せた。


 自分を照らすライトを見上げ、俺は必死に台本にあるセリフを思い起こしていた。


「『……そうだ……お前のおかげで魔女の呪いから解くことができた。お前がわたしの心の真実を見抜いてくれたからだ』」


「……いえ、わたしには結局最後まで、あなたのことが分かりませんでした」


 少し台本とセリフが違う。本来の肯定こうていするはずのセリフを、春姫は否定した。


 しかし彼女はよどみなく、言葉を続けていた。


「あなたの心の内がずっと分かりませんでした。あなたがわたしのことをどう思っているのか」


「『姫……それは』」


「でも、そんなことどうでも良かったのです」


 春姫が口を開く。


 ようやく彼女と真正面から目が合う。そこで俺は初めて、春姫の感情に触れた。


「春……」


 言葉を失う。


「あの……」


 春姫も同じように。


 緊張したように、唇を震わせて、彼女は次の言葉を探していた。


 演技ではない。

 瞳の奥の光は、物語の中ではなく、素の春姫のものだった。


「……えっと……」


 春姫は本気だ。

 そしておそらく彼女はずっと分かっていた。俺がこの舞台に立つことを知っていた。


 いや、理由は今はどうでも良い。


「……ずっと……」


 春姫が口を開いた。

 彼女の唇の動きは、スローモーションのようだった。フィルムを何倍にも引き伸ばしたように、周囲の時間が止まった。


「ず、ずっと好きだったんだから……」


 彼女はもう迷っていなかった。


「それが私の気持ち」


 ……。


 ……自分が卒倒しなかったのが、不思議だ。

 グルングルンと身体の中で、音を立てて血が巡る。恥ずかしさで顔がまともに見られない。


「『私も……』」


 言いかけて、やめる。


 頭の中から、台本のセリフを振り落とす。彼女がそうしたように。自分の気持ちを伝えるべきなんだ。


 ここを逃したら、一生言えない。

 今の今まで、ずっと伝えてこなかった感情が、ようやくこぼれ落ちてくる。


「俺も……同じ気持ちだ」


「……はい」


「愛している」


 彼女に向かって手を差し出す。


 観客席も、他の役者も気にならなかった。

 春姫が俺の手を取るまでの間、その静けさは、世界の果てまでも続いているようだった。


「テッちゃん」


 他の皆に聞こえない声で彼女がささやく。


「教室で、待ってる」


 春姫の小さな手を握ると、音楽が鳴った。遠くにいた彼女は、今は信じられないくらいに近くにいた。


 拍手の音も、幕が降りたことも気がつかないくらい、心臓がバクバクと大きな音を立てていた。

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