24、初めてのチュー


 温かくて、柔らかい何かに体温が包まれている。口からさわやかな息が吹き込まれてくる。


 ミントとか、ハーブとか、そういう感じの、とても清々しい匂いだ。


「テッちゃん!」


 それが吹き込まれるにつれて、意識が戻ってくる。そうだ、俺は春姫の水着を取ろうとしておぼれていたんだ。


 誰かが俺に人口呼吸をしている。


 どうやら俺は助かったみたいだ。


「テッちゃん、起きて!」


 春姫の叫び声が聞こえる。


 ひょっとすると、この柔らかい唇の感覚は、春……、


「テツ殿、起きましたか?」


 目を開けなければ良かったと、これほどまでに後悔したことはない。俺に人工呼吸をしていたのは、福男だった。


「うぷ」


 吐き気が倍増する。


 しかし助けてもらったのだから、文句を言う筋合いはない。


「……福男」


「救急救命講習、受けておいて良かったでござる」


 一仕事終えたという様子で、福男は額の汗をふいた。身体を少し起こすと、猪苗代や春姫はホッと安心したようだった。


 特に春姫は今にも泣き出しそうな顔で、俺を覗き込んだ。


「テッちゃん、良かった。目が覚めた……」


 しゃくり上げるような声で言って、春姫が涙を拭く。見るとちゃんと水着を回収できたようで、さっきまで俺を悩ませていたおっぱいは、布で覆われている。


 ペッと口の中に溜まった水を吐き出すと、福男や猪苗代もホッと息をついた。


「沖でおぼれていたテツ殿を、姫が助けてくれたでござるよ」


「もー、心配したんだからー」


 猪苗代は良かったという風に、肩をすくめて言った。


「春っちが助けてくれなかったら、どうなってたことか」


「ち、違うの。て、テッちゃんはね……私の水着を……」


 ボソボソと春姫が、猪苗代に事情を説明する。すると、感心したように猪苗代が言

った。


「そうだったんだ。すごいね、佐良、格好良いじゃん」


「おぼれてちゃ世話ないけどな」


「ごめんね、テッちゃん」


 春姫がすっと俺に近づく。申し訳なさそうに、言葉をこぼす。


「わたし、テッちゃんが死んだらどうしようって……」


「春姫……水着は大丈夫だったか」


「うん。テッちゃんがつかんでくれていたから」


「……あぁ、良かった」


 必死に泳いだかいがあったと言うものだ。

 笑ってみせる俺に対して、春姫は珍しく真剣な表情をしていた。彼女の瞳がキラリと光る。 

 

「それどころじゃないよ。私、本当に……」


 言葉を詰まらせながら、春姫は言った。


「無事で良かった、良かったよう……」


 春姫の瞳からポロリと涙がこぼれ落ちる。海の水滴と混じって頬から、胸の方へと垂れていく。


 こんな姿の春姫を見るのは久しぶりだった。まるで子どもに戻ったかのように春姫は涙を流していた。


「うえぇえん……」


 声をあげて泣いた彼女は、そのまま俺に抱きついた。背中に腕を回して、俺の腕の中で春姫は泣いた。よほど怖かったのか、その背中はかすかに震えていた。


「……春姫」


 そんな風に大泣きした春姫に、俺はどう反応すれば良いか分からなかった。ただぽろぽろと俺の顔に落ちていく涙は、海の水よりもずっと塩の香りがした。

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