喧嘩文体でいこう ~ ヘッポコ作家の作文指導
与方藤士朗
第1話 思ったことなんか過不足なく書けるはずもない
「なんじゃい、何か私に用でもできたか?」
珍しく、甥が電話をかけてきた。正確には、私の母からの電話で、私と母(甥にすれば伯父と祖母)の指示に従って、甥が電話口に出た、というわけだが。
それはともかく、この甥に最後に会ったのは確か、彼が3歳の頃。
その後は特に会っていないし、電話で話をしているわけではない。
彼はもう中2だから、10年近く会っていないことになる。
午後8時を少し回ったころで、普段なら酒の一杯でも飲んでいる頃だが、この日は原稿の仕込みに追われ、まだ夕食も食べておらず、酒も飲んでいなかった。専業作家となって数か月、おかげさまでそれなりの仕事は入ってきており、生活も少しずつ上向いている。あるノンフィクションの応募で大賞をとったことで、ノンフィクションだけでなく、かねて書いていた小説などの出版話も来ているし、また、各地の媒体でエッセイなどを書く仕事も入ってきているから、このところ、それなりに忙しくなってきた。「専業作家」となってしばらくの間は、大賞で得られた賞金もあって、いささか「解放感」に浸った時期もあったのだが、それもなくなり、この生活にも、ようやく慣れてきた矢先だ。
暦の上でそろそろ秋となる時期である。
まだ、外は暑い。日中ともなれば、肌が痛いほどの猛暑。幸い今日は、自宅に一日いたから、直射日光の襲撃を浴びずに済んではいるが、いくら自宅でもできる仕事とはいえ、外に出なければいけない日もある。
正直、たまらない。
「子どもの頃は、春が3月から5月、夏が6月から8月、秋が9月から11月、冬が12月から2月、おおむねそんな感じで四季が巡っていくものだと、誰からともなく教えられたように思うし、実際それは、気候の実情に合った分け方ではあると思います。だけどね、昔の人が、旧暦1月から12月まで、3か月ごとに春夏秋冬とあてていったのは、一見、気候の実情とずれているように思っていたけれど、年を取るにつれてね、旧暦の「季節」の分け方って、あれは正しいのだと、実感をもって感じるようになりました。昔の人はね、その季節の兆候が出始めたときから、ついにその季節の盛りに至るまでの「過程」を、ひとつの季節と区切ったのでしょう。そう考えると、昔の人の知恵というのは、実に奥深いものですな」
以前、そんなことを酒の席で大学の先輩に語ったことがあったが、このところ、少しばかりの「秋の兆候」さえも感じられるようになってきた。そこに私は、一縷の希望をもって、この猛暑をしのいでいる。幸い自宅は24時間冷房自動運転。涼しいのは確かだが、外のことを思うと、それだけで暑苦しい。
さて、甥とまともに話すのは、これが実質的に初めてである。
彼は一体、どんなようで電話をかけてきたのだろうか・・・
「作文が書けないので、書き方を教えてもらいたくて・・・」
「そりゃあ、教えられないこともないが、作文なんてものは基本的に、出来事を書いて、思ったことや感じたことを書けばええんと違うのか? 小論文になると、いささか、そうはいかない要素もあるが。学校の先生から、これまで君は、どう教わってきた?」
「確かにおじさんの言うとおり、思ったことや感じたことをうまく書けばいい、って言われてきた。そうかもしれないけど、そうしようとすればするほど、とにかく、文章が書けない・・・何とか、ならないかと・・・」
まあ、そういうことなら、喜んで協力してやろう。
私は彼が生まれたとき、私がこれまでの人生で得たノウハウはすべて彼に与えることで、私自身が生きた証拠をこの世に残せるし、それで思い残すことはないと思った。
ついに、それを実行する日が来たか・・・
それはともあれ、彼の当座の悩みは、作文、つまり文章が思ったように書けないということだな。
そうなるパターンはいくつかあるが、ここで彼に、ひとつ、質問してみた。
文書を書くことについて勘違いをしている人は、存外、多いからね。
「ところで君は、作文というのは、実際に起こったこと、実際に自分自身が、本当に、思ったことや感じたことを書けばよい、というのではなく、そのように「書かなければいけない」、とでも、思っていないかな?」
「え? そういうものじゃないの? 作文、って・・・」
やっぱり、ね。そういう固定観念というか、限りなく強迫観念みたいなものにとらわれている人は、子どもも大人も問わず、結構いるものなのだ。そこを軌道修正しない限り、小論文をはじめ「論文」なんて書けないし、下手すれば、作文だって書けないまま。つまり、文章自体を書けないまま、ということだ。たまにまぐれ当たりのようにそれなりのものが書けたりすると、これがまた、後々の精神的な足かせになってしまう。それでは決して、技術的にも精神的にも書ける力がついた、とは言えない。
「作文は思ったことや感じたことを書けばいいのかと言われれば、実のところ、必ずしも、そうとは言えない。というのは、こうだ。実際に起こったことはまあいいとして、本当に思ったことや感じたことの通りを、君、正確に、間違いなく書けるのか? 」
「言われてみれば・・・無理だよ、確かに」
「せやろ。あいつ気に入らん、殺してやりたいと思いました、なんて、思うのは構わん。思想の自由だ(爆笑)。まあこれは、私が大検に合格して大学入試に向かっている頃、ある予備校の英語の先生が冗談めかしておっしゃっていたことの受け売りなのだがね。一瞬、このオッサン、何、ゆうてんねん、って思えるほど極端な話のようだがね。でも、そうだろ。だけどな、そんなこと、作文に書いた段階で、何か、問題が起こりやせんか?」
「そりゃあ、普通、怒るよ、書かれた方が・・・ギャグで済めばいいけど」
「当人同士がギャグで済んでも、そんなもの読まされる方はたまらんだろ」
「確かに」
「つまりな、思ったことや感じたことをそのまま書け、なんてことは、土台、できっこない相談なのだよ。なぜできないかは、さっきのように人を傷つけたり、人を困惑させたりするようなこともそうだが、自分自身が本当に思ったことの通りを再現するなんてことが、そもそも、100%できるはずもないからね。どこかの場所で思ったときと、家に帰ってそれを書こうとしている時で考えてみればいい。この場合、そもそも時間もずれているし、思ったことと書いていることには嫌でもズレが出てしまうに決まっている。実際はたいしたことのない話でも、いざ書くとなったら、上手いこと書いてやろうという欲だって出るだろうし、そうなったら、なおのことだ。今の話は、確かに極端な例かもしれないが、単に極端な例として聞き流せない要素を持っているわけだ。いいかね君、仮に、思ったことや感じたことをそのまま書いたとしても、実際には、単なるありきたりになるか、あるいは奇をてらったように見られた挙句に人を呆れさせるものになるか、そんなところがオチだ。ついでに言えば、あったことを書くだけなら、業務日誌か何かと変わらん。それも立派な作文だと言われればそれまでだが、そんなもの、起こったことがよほどのことでもない限り、それだけで人が読んで面白い、ためになる、あるいは何かの役に立つ、なんて文章になんか、まずもってなりっこない」
「じゃあ、作文って、極端な話、ウソを書いてもいい、ってことなの?」
「その通りだ。逆の面から、考察してみようかね。百歩譲って君が思い、そして感じた、100%本当のことを書いたとしても、だな、それを本当のことと取るかどうかは、残念ながら、君じゃない。読む人たちだ。逆に君が幾分のウソを交えて文章を書いたとしても、それを読む人たちが、必ずしも、ウソを書いていると読み取られるわけでもない。ありそうなことであれば、それが本当のことだと取られる可能性は十分ある」
「じゃあ、作文というのは、その作文の中だけで判断されるものだ、ってこと?」
こんな疑問をぶつけてくるようなら、少なくとも、文章を書けるようになるだけの見込みはありそうだ。
意を決して、私は答えた。
その通り。国語なんかでよく問題に出ているだろう。テストでもそうだし、休み中の課題や問題集なんかで聞かれる定番があるじゃないか。例えばな、
「主人公の心情を60字以内で述べよ」
みたいな問題。大体、小説の主人公の心情なんて、本当のところは分かりっこない。そもそも架空の人物だしな。その主人公の気持ちが強いて分かっていると言えば、作者かな。その作者が、その主人公はその時こう思っていたという前提で書いていたとしても、小説のその部分だけ聞かれた問題で、作者の思っていたことと一致することを答えにしようとしたら、作者以外問題に答えられなくなるじゃないか。
それに、試験は同じ文章を今ここで読んだという前提で、それだけをもとに、問題に答えなければならない。そうしないと、平等じゃないだろ。だから、書かれている内容だけで客観的に判断しないとしょうがないし、その範囲での解答に過ぎない。ただ、その60字の中で、きちんと文章としてまとまりを持っていなければならないのだが、それはまた、いずれの機会にしっかり話そう。
さて、私が君に会ったのは、もう10年以上前だ。確かに君のお母さん、私の妹とは何度も話しているし、君のことも兼ねて聞いておる。そんな私が、いくら親族とはいえ、君が中学校でどんなことをしているか、なんてこと、わからん。
そこで君が、学校での出来事を作文で書いたとしようか。どこまでが本当でどこからが嘘か、ある程度のことは私でも判断はつく。ただ、その判断となる材料は、君が書いた作文しかないわけだ。もっとも、君の両親やおばあさんに聞くことも、私ならある程度まではできる。
君の中学校の担任で国語を教えておられる三石先生は、御存じの通り、私の大学のサークル、O大学の鉄研、つまり鉄道研究会の先輩だ。君に関するお話を聞くことも可能ではあるし、現に何度かしているよ。三石さんからも、おばあさんたちとは少し違う角度からの話も聞くことは出来よう。
だが、君のことを全く知らない人、例えば、私の知人に読んでもらうなら、どうかな?
その人にとっては、君が書いた作文の他、君がどんな人物かについては、何も判断材料はないわけね。だからこそ、作文というのは、それだけで判断をされる材料となるし、読む方は、君自身が書いたことを根拠に、君がどういう人間なのかを知るわけである。どうかね?
「今ふと思ったのだけど、ある意味、作文というのは、自分をごまかすこともできるってわけね」
甥はかなり察しの良い少年だ。こちらが言ったことから、角度を変え、品を変え、様々な質問をしてくれる。こうなると、こちらも、答え甲斐があろうというもの。
極端に触れる質問ではあるが、確かに、その通りだ。
「嘘を書いてもいい、の次は、自分をごまかすこともできる、か。何だかなとは思うが、確かに、どちらもその通りではある。読んだ人間がコロッと騙されるようなうまい文章を書く人も世の中にはいくらといるよ。いい話だとは、私も思わんがね。逆に、文章も文字も下手くそだけど、本当に、人の心を打つ文章もある。しかしいずれにしても、その文章から、その人を判断せざるを得ないのだ、読む方としてはね。逆に言えば、読む方は、その文章さえ与えられれば、書いた人が大昔の人であれ、知らない人であれ、それで判断できる材料が得られた、ということになる」
「そういわれてみれば、書いた文章というのは、書いた人とはもう別のものとして生きていくことになるってことだね」
私も、中学生の頃は、そんなことまで考えたことがなかったな。
「ほお・・・中学生にしては、よくわかったな。まったくその通り。さあ、君が今日ここで、作文を書いたとしよう。君はいずれ成長し、大人になる。そのうち、私ぐらいの年齢にもなるだろう。しかし、君が今書いた作文は、それが残っている限り、永遠に、人に読まれる可能性を持ち続けるし、その文章は、2010年代後半のある男子中学生の声として、後世の人たちが読んでくれることにもなる。大げさでも何でもなく。しかしその文章はもはや、君自身では、ない。私もね、以前本を出した時、その本を出した出版社の社長に言われたことがある。本は、出版された段階で独り歩きを始める、とね」
「本に足が生えるわけじゃないとは思うけど、それ、書いた人とは別物として存在していく、ってわけだね」
ここに気づいてくれたら、あとがやりやすい。思ったより、手ごたえありだ。
「その通り。君のお母さんも私も、それぞれ、おばあさんの娘であり、息子だ。若干、私のほうが早く生まれていて、父親も違うが、同じくおばあさんの子どもだ。だけど、私にしても君のお母さんにしても、すでにいい歳の大人だし、その大人を生み出したおばあさんの言うとおりにばかりしているわけじゃないだろ? それと一緒だ」
「おばあちゃんはいつも、ぼくが小さい頃から、酒飲みになるなと言っているよ」
確かに、そういうことを母が日ごろ言っていることは小耳にはさんでいるが、その「酒飲み」というのは、間違いなく、私のことだな、いやはや。
「でも、私はほぼ毎日、酒を飲んでいる。今日はまだ飲んでいないが、この後、飲むつもりだ。そうそう、いつだったか、おばあさんに、中ジョッキ10杯までなら酒飲みではないとか何とかいった覚えがあるけどな」
「想像もつかないけど、もしおじさんがおばあさんの言うとおりにばかりする息子だとしたら、大人しく酒を飲まない、いい年にもなって、プリキュアなんか見るなと言われれば、直ちにやめる、というか、そもそもそんなもの見ない、なんてことに・・・」
「なるのかもしれない。しかし、そうはなっていないだろう。それと、同じことだよ」
私はここで少し、甥に質問をしてみた。彼は先ほどからしきりに「書くこと」ができないと言っているが、ひょっと、「読書をする」ことに比例して「書くこと」もできるようになるとでも思っていやしないかと、思ったからだ。
実はこれ、確かにある程度連動はするものの、別の能力が必要となるのだがね。
「君は、読書はしておるか? しておるとして、どのような本を読んでいるか?」
「いろいろ、本は読んでいます。学校の図書室や、A市立図書館で、世界の地理に関する本や、科学絡みの本を借りて読むことが最近は多いです」
「それは結構。どんな分野であれ、本をたくさん読むのはいいことであるが、本を読んだからと言って、作文が書けるわけでもない。君は近頃、そのことが身にしみてわかってきただろう」
「・・・はい・・・」
「私も、そうだった。私に至っては、本当に文章が書けるようになったのは、30歳になるかならないかの頃からだ。ある小論文の先生の教材を読んでね、それで、コツがつかめた。それ以降は、まあ、かれこれ書きまくっているよ、君もご存知かとは思うがね」
「ぼくも、30歳ぐらいにならなきゃ、文章がスラスラ書けるようになれないのかなぁ・・・」
「そんなことはない。今からきちんと、そのコツをつかめば、今日に明日からでも書けるようにならないことはない。言っておくが、読むことと書くことは確かに、内容面では大きく影響し合うことかもしれないが、読んだから書けるようになるわけではないし、書けたから読めるようになるわけでもないからね。そこは、別に考えねばならん。私に至っては、十数年前に本を出したが、その本を読まれたある先輩には、文章力が自分自身の思いに追いついていない、なんてことを言われた。これこそまさに、書く力と読む力や経験が必ずしも連動しないことの、いい例だと思うがね、どうかな?」
「なるほど・・・」
「詳しくは、電話ばかりでは無理だ。今時の携帯電話は通話無料のプランもあるから別に構わんが、それでも、電話だけでは教え切れない。よかったら、うちまで来なさい。私の得たノウハウでよければ、いくらでもやるよ」
甥も、私がどんな人物か、このところ興味を持っているようだし、これはお互い、きちんと話をするいいチャンスだ。
私自身、彼が生まれたときから、そういう日を待ち望んでいたのだがね。
「それでは、今度教えていただきたいので、おじさん宅に行ってもいいでしょうか?」
「かまわんよ。来るならば、筆記用具とノートと、それから、パソコンでもあれば、尚可である。まあ、パソコンは私が持っているから、USBメモリの一つでも持ってきておけばよかろう。私も何やら書くときは、パソコンだからね。どうせいろいろ書くようになるのであれば、パソコンを使えた方がいい。君は、パソコンは打てるか?」
「それなりには、打てるけど・・・」
「ローマ字打ちがきちんとできれば、問題ない。そうそう、夏休みの課題でも持ってくればよい。こう見えて私なんかは、読書感想文なんか学校に出した試しがほとんどないけど、せっかくだから、それを利用して、文章を書く練習にすればよかろう」
この後、彼が私のところに来る日を調整し、電話を切った。ちょうどお盆の時期の、次の日曜の昼前に、彼は来ることになった。
電話で話しているうちに、午後8時半ごろになった。広島風お好み焼きの出前をとってもいいが、ちょっと遅いか。私は近くのスーパーに行き、半額の惣菜を幾分買い込み、それを夕食代わりにしてビールを何本か飲んで、しばらくゆっくりしてから寝床についた。
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