閑話 知能の限界、スメイルの問題
ユークリッドの「原論」からも分かる通り、数学は「公理」→「推論」→「定理」と言う形で議論が進んでいくことが多い。
ここで、「推論」(厳密な推論)は正しいか?正しくないか?について考察していきたい。
(つまり、厳密な推論から得られる結果は、公理が真の場合「真」となるか?厳密な推論に妥当性があるかどうかを検証していきたい)
推論に妥当性があるかどうかを検証するには、推論を使わなければならない。
つまり、推論が妥当である場合でもそうでない場合でも、それを結果として導き出すのは「推論」である。
推論に妥当性がない→それを証明する推論にも妥当性がない、となり自己矛盾。
したがって推論は妥当である…可能性が高いが、それを導き出すのも「推論」である。
つまりこの議論は一種の「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」に陥るものである。
結果、我々は「厳密な推論は妥当である」と言う「メタ公理」を採用しなければ、議論をすることができない。
したがって、推論の限界は知能の限界の一つである。
またここで「公理」について考察していきたい。
(今回は「知能の限界」について考察しているので、ここで言う「公理」は数学に限らず、より広義のものである)
非ユークリッド幾何学の例からも分かる通り、公理は推論を経ていないため動かすことは可能である。
ただし、「推論を経ない公理」は存在する。
(参照)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054908172869/episodes/16816700426878974185
特に、数学と論理学の関係性に関して、フレーゲが「数」を論理に含めようとした所、ラッセルのパラドックスに陥った。したがって数を含む概念の全てを論理に含めること、推論に含めることは不可能である。
結論として、厳密な公理と推論の限界が、知能の限界である。
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