Odd loops

タコ君

Odd loops



 僕はなんて奇妙だと思って前に手を伸ばし、

 その手が伸びきる前に引っ込めた。


 僕は今、人生の内できっと何度か経験することになるであろう試練の真っ只中にいる。しかしなんともこれは、きっと僕が今授業をしている教師の歳になれば青春という言葉で片付けたり、たまに引っ張り出して懐かしむものに変わってしまうのだと思うと切なくもある試練である。


 彼女はそろそろ諦めたのだろうか。少々腑に落ちないがまぁいいだろう、といった顔で、黒板に勢い任せのチョークの線を引っ張るメガネの英語教師の方を向いた。なんとも健康的な彼女の手にはみどりのシャープペンシルが握られている。

「はいじゃー、もう一度確認するよ、ここがS、主語ですね!そしてこっちが…」

 いつも、はっきり大きく聞こえる教師の声が、今日に限ってどうも霧になったように掴めない。キリリキリキリと少々痛いお腹も、話が聞こえないのも僕の手が持っている物のせいだ。これは人類誰がどう見てもシャーペンだが、ただ僕の物では無い。


 これは、丁度授業が始まる前に、僕の机の上に置いてあったシャーペンである。一体全体誰がここに置いたのだろう。仮にここに置いてくれた人が、将来少々のヘマをしでかしてギリギリ地獄へ落とされようとなった時は閻魔えんまにこの功績を参照させ、せめて煉獄れんごくに送ってやりたいくらいにはよい行いである。しかし置いた机は、これの持ち主の机ではなく僕の机だった。そしてこのシャープペンシルの持ち主こそ、今一通り喋り終えたと見える教員の手を真面目に追っていた、前の席の彼女である。


「おいキミ、頭痛いの?大丈夫かー?」

「あ、いえ…大丈夫です。」

「そうか、無理するなよー。みんなも授業中体調優れなかったら無理せずに言うことね?許可を仰いで、つまりお願いしてくれれば、お茶も飲んでいいからなー。じゃあ続けるぞー?

Open your textbook to Page126!」


 あの英語教師には、どうやら僕が体調不良者だと見えたらしい。確かに、下を向いてずっと頭を押さえている僕はそう見えるかも知れない。しかし僕はいたって健康であり、ひとつだけ何かあるとすれば、未だこの手が持っているシャープペンシルを返せていない事が、夏風邪のように治ってくれない。

 ただ僕は、どうなろうと一つ、ノートを全く取っていない事に気がついた。授業の進みがいつも以上に早く、時計がもうしばらくの経過を教えていて、ようやくやっとシャーペンを、テキストの弧を描いて浮いたページの下へ忍ばせた。腕を動かしたとき一瞬ノートがへばりついてきた、それだけ動きが無かったのだろう、事実としてもうずぅっとこの姿勢だ。


 いくほどかが過ぎてから、教師は教卓へとチョークを置いたらしい、かちゃんと鳴った。

「プリント配るよ~」

 これが好機チャンスか!

 僕は心のなかで大きく叫んだ。前から送られてくるプリントを受け取った時に、[先程拾ったのだが誰の物なのか見当がつかない、知らないか]と彼女を呼び止めて返せばいいのだ。先程拾ったのだが、と断ればまず僕に、女子のシャーペンをずっと手のひらで転がした変態というレッテルは貼られまい、それに僕が拾った事にしてしまえば相手の送ってくれたありがとうは僕へ向けられたものになるはずだ。ならずともなったものとする。

 まったく僕という男はこんな事を考えて、どこまでもいつまでも愚かな大馬鹿者だ。しかし僕からしてみれば、何不自由なく飄々と異性へと声を掛けられる奴らの方が得体が知れなくて、授業中だというのに後ろの席の“彼女”とやらに話しかけてニヤニヤしているあいつの脳みそを見てやりたい。あいつならば帰り際、彼女に、まだ帰りたくないなんてセリフのBeatを鳴らせるのだろうか。


 真正面の彼女がこちらに振り向いた、プリントを差し出してくれたのでしっかり受け取った。それを後ろにさっさとまわして彼女を呼び止めよう。

「…?4枚…?」

 そこで僕は違和感を覚えた、プリントは4、後ろには3人だ。参ったことをしてくれるじゃないか教師よ。奇妙なことに僕の列以外はピッタリらしい、教室出入り口側最後列の彼は単語がズラリと踊っているこのわら半紙をふんふんなるほどな、なんて顔で眺めている。

 しょうがないので僕は余りの一枚を、黒板前のチョークの粉で白い教卓の上へ置いた。立ち上がり移動して、教師の本心かどうかわからないありがとうを受け取って戻ればそこから授業再開。僕が欲しかったのは前の席の彼女のありがとうだし、授業が再開したのでチャンスはパァである。水泡に帰すというやつだ。


 僕はチャンスを失った、だが偉い人は昔こう言ったそうだ。“チャンスは万人に等しく訪れるが、その波に乗るかどうかは本人しだいである”と。つまり先程のは波に乗るのにちょいとばっかし失敗したのだ、それだけのことである。次を探すしかない、僕は電子辞書で単語の意味を調べながら聴覚に神経を研ぎ澄ませて機会を待ちわびた、獲物を捉えようと構える虎のように。

「単語の意味はわかりましたか?確認していきますよ~っ」

 虎の耳は、しっかりと教師の声を受けとることに成功した。退屈でしょうがないときの授業よりずっといいけれど、早く返してあげないとならないと僕の心臓が急かすのでチャンスを待とう。とりあえず今は違う、わら半紙を手にとって教師のいうことを聴こう。

「それじゃあ…」

教師が話し始めた。するとどうだ、教室に別の先生が駆け込んで来た。


「はいっ…はぁ、なるほど……。ごめんみんな、ちょっと行ってくるから黒板見て確認してて~」

 駆け出して廊下を歩き行く、段々小さくなる教師の声が、教室のドアが閉まる音で消されて一秒の沈黙、そしてすぐあとに遠くから、女子がなにやらひそひそと話を始めたのが聞こえた。

 そうか、これがチャンスか。僕は再び良い機会に恵まれた。運命、運ばれてきた命と書き、運命!ここで動かずして一体いつ動けと言うのだ、今だろう!僕は目の前でいま黒板をみる彼女に直接触れては申し訳ないと思い、椅子を叩こうと手を伸ばした。

「ねぇねぇ、ちょっといい?」

 読者の皆様に断っておくがこれは僕の声ではない。じゃあ誰だというと後ろの席の友人である。全く一体どうしたんだ。僕は後ろを渋々振り返り、先程伸ばした腕を、あたかも背伸びしていたかのように見せかけるためわざと2、3回程揺らした。

「俺微妙にこっからだと黒板の下の辺見えなくてさ、わりぃけどここの二つなんて書いてあるか教えて?」

「あぁ、なるほど。えっと、一個目が“odd”、“奇妙、変な、風変わりな”って意味で、二個目が“loop”、“輪”とか、いわゆる日本語でも使うループって意味。もういい?大丈夫?」

「おっけ、さんきゅー…!」

 僕は前を向いた、そして教室の扉のドアノブががちゃんと鳴った。冗談はよしてほしいが冗談ではなく、教師は教卓へ帰ってきた。あぁなんということだ、僕がチャンスに乗ろうとしたら、決まって邪魔がなんともまぁ奇妙にやってくる。なんとも、なんとも奇妙だ!そして繰り返す。

「残り少しになっちゃったし、ここは次にやろうか?お疲れ様でした、挨拶無しで終わりにしまーす!」


 Odd loops もどかしいまま。

 奇妙な繰り返し、勇気の出ない繰り返し。

 僕はなんて奇妙だと思って前に手を伸ばし、

 その手が伸びきる前に引っ込めた。

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Odd loops タコ君 @takokun

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