ゆっくりと落ち着いて

凍龍(とうりゅう)

ゆっくりと落ち着いて

「もう少しゆっくりと落ち着いて!」


 その言葉は、子供の頃から何度も、耳にたこができるほど聞かされた。


 僕は小学生の頃から他の子達よりいわゆる〝頭の回転〟が速い子供だった。先生の説明も直感的に理解できたし、テストだっていつも、誰よりも速く書き上げた。

 ただ、それと通知表の成績が良いのはイコールじゃなかった。

 常に高評価を取っているのは、落ち着いた物静かな子だった。つまり、僕は頭の回転だけは速いが、おっちょこちょいの粗忽者というのがおおかたの評価だった。

 例えて言うなら、クロックスピードだけはやたら速いけどろくなOSの入ってない高性能コンピュータみたいな。ケアレスミスの多発に乱筆過ぎる文字のせいでテストはボロボロ。意識しなくてもそうなってしまう早口のせいで友達と上手く打ち解けることが出来ず、ひょろひょろ長い手足を理想通りうまく動かせないので体育の成績も悪い。そんなこんなが重なって、小学校から高校まで、僕はずっとクラス内で孤立していた。


「君は理解が早くて先読みもできるんだから、もう少し落ち着いて、他の人に合わせながらゆっくり慎重に物事を進める癖をつけなきゃダメだよ」


 担任の先生には口を酸っぱくして言われた。


 とにかく、その頃の僕は、思考のスピードについてこれない周囲のみんなと、何よりも自分の身体が大嫌いだった。




 ところで、君は大人になってから、一日がやけに早く過ぎるようになったなあ、と感じたことはないかい?

 子供の頃は、放課後がやけに長かったとも。成長して忙しくなって、暇な時間がなくなったから時間が速く過ぎると、そう理解している人もいると思う。

 だが、それは百点満点の答とは言えない。

 実際、人間の脳はコンピューターの頭脳〝CPU〟と似ているらしい。

 CPUと同じく、脳にもいくつもの情報処理装置が並列して動いていて、それらの協調をとって体をコントロールする基本となるのが〝クロック〟と呼ばれる同期信号だ。クロックの一ビートごとに一つの処理、CPUはそうやって動いている。

 生物にはクロックのようなしくみそのものは存在しないけど、個々の協調を取る仕組みはまた別の形で存在している。

 つまり、同じスペックの脳なら、クロックスピードが速いほうが同じ時間内に多くの判断や処理を行えるというわけ。

 余った時間が余裕として感じられるわけで、子供の頃、時間が余って仕方ないと感じていたのは単純に、大人より子供の方がクロックスピードが速いからだ。

 また、大人になってクロックが遅くなるのは別に老化だけが原因という訳じゃない。

 成長して体が大きくなると、末端まで信号を伝えるために時間がかかるようになる。神経の情報伝達速度はクロックの速度にかかわらず一定なので、人体は成長と共に自然とクロックをゆっくりめに調整しているわけだ。




 そんなわけで、僕は長いこと、自分の脳みそが空回りするからすべてが上手くいかないのだと考えていた。でも、訓練や努力でどうにか出来る話ならとっくにやっている。どうにもならないから無為に悩んでいたのだ。

 だが、大学一年の初夏、バイトである薬品メーカーの治験に参加したことで僕の悩みは一気に解消することになった。


「どうですか? 体に違和感はないですか?」


 呼びかけられて手足を動かしてみる。特に違和感はない。

 続いて受けた適性診断テストでも、まるで凪の海のように落ち着いた精神状態で回答することができた。高成績だった。

 常に何かにせき立てられるようだった僕にとって、生まれて初めての心安らぐ経験だった。

 おまけに運動能力まで向上していた。身体各部の高度な連携が必要な難しい動作にも、本当に小指の先まで神経がバッチリ行き届いているような細やかさで対応できた。これまでにない新鮮な感覚だった。


「この遺伝子治療は、頭脳と身体のアンマッチを解消するものです。同じように悩んでいた患者さんがこれで大勢救われますよ」


 白衣の男は僕に向かってそう説明した。

 なるほど。僕は病気だったのか。

 少なくとも、僕にとってこの出来事は思いがけない福音だった。




 それから数年。僕は大手保険会社で働いていた。

 若手のホープと言われ、入社二年目にしてかわいい彼女もできた。

 丁寧でわかりやすいトーク、先の先まで見据えたプランの提案が取引先にも評価されて契約成績は上々、まさに順風満帆を絵に描いたような境遇だった。

 だが、幸せは長くは続かなかった。


「ねえ、最近どうしたの?」


 その異変に最初に気づいたのは恋人だった。


「最近妙に間延びした話し方するようになったよね。それに、呼んでもなかなか返事してくれないし」


 僕は愕然とした。自分では全く自覚がなかった。


 その後すぐに破局した。彼女はいつのまにかとんでもない早口でまくし立てるようになり、僕の言葉をまったく聞いてくれなくなったからだ。

 会社もクビになった。理由は度重なる無断欠勤。夜寝て、普通に翌朝出勤したつもりなのに、二日も出社しなかったと難癖をつけられた。

 ストレスで不眠になった。でもテレビや動画は見ない。早口過ぎて聞き取れないし画面はどう設定しても早送りになってしまうから。一週間連続で眠れず。ようやく眠れたと思って次に気づいたら病院ここにいた。マンションの管理人が「人が死んでいる。息も鼓動もない」と通報したらしい。

 まったく失礼な話だ。僕はこうして生きているし、心臓だってちゃんと脈打っている。




 それにしてもここでの生活は退屈だ。

 時々影のようなものが一瞬チラつくことがあるけど、基本いつも一人だ。窓の外の風景はなぜかいつもたそがれていたし、その窓すらいつの間にか消えた。

 ベッドが一瞬のうちに変なカプセルに変わっていたのも驚いた。とにかく、早くここからで……て、も…………と………………の……………………せ…………………………い………………………………か……………………………………つ…………………………………………に……………………………………………………。



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