第4話

 白づくめが言った言葉の意味を、私はいまいち理解できずしばし思考することになった。そもそも、白づくめの言うことは全部意味が分からないし、意味を理解するつもりも無かったが、今の言葉は今までとは違う意味で理解出来なかったのである。

――人間で有り続けようと望んだ私に人間を辞める素晴らしさを伝える。

 白づくめはそう言った。つまるところ、これが白づくめが私をバケモノにした一番の理由なのだろう。

 人間で有り続けようとした、という意味も良く分からなかった。

 そして、人間を辞める素晴らしさを伝える、というのもまったく分からなかった。

 私には白づくめが何を言おうとしているのかてんでだった。後者はさっきから言っていることと似ているようにも思えたが、前者と組み合わされると謎だ。

 少なくともこの二十数年間普通に生きてきた私とはどうも根本的に思考のレベルがずれているように感じた。人間が突然魚の価値観を教えられたかのような、そんな圧倒的な違和感があった。

 それも当然なのか。目の前の男は『バケモノ』なのだから。

「私の言っていることが分からないようだね」

 そんな私に白づくめはくすり、と笑いながら言った。私はしばし迷いながらも応えた。

「まったく。お前が言いたいことがちっとも理解できない」

「なるほど。まぁ、仕方が無いことかもしれないね。君は三ヶ月前まで人間だったのだから」

 白づくめは教師が教え子に諭すときのように言った。これは、初めからずっとだったがようやく確信した。こいつはずっと、私に敵意という者を見せていないのだ。ずっと、友人に接するかのようだ。そして、白づくめは自分の思考を晒し始めた。

「まず、私は常日頃からこの街を歩き回っている。それは、私の思う正しいことをするためだ」

「正しいこと?」

「私はなんの因果かバケモノになっている。もう、思い出せないほどずうっと昔から。そして、同じように思い出せないほど昔から自分の役割について考えてきた。そして自分の思うその役割を担ってきた。すなわち、人間を正しく導くという役回りだね」

「バケモノのお前が人間を導くだと?」

「ああ、その通りだよ。バケモノとはいえ、元は人間だ。だから、私は私なりに人間を導くことにしたんだよ。そして、人間には人間の導き方があるように、バケモノにはバケモノの導き方がある。そう、私は考えた。バケモノにしか教えられないことがあると私は考えた」

 白づくめはスッ、と人差し指を持ち上げた。ごく自然な動作で嫌味が感じられなかった。

「バケモノの私が持っていた特性は、日の光以外では死なない、変幻自在に体を変えられる、そして、他人をバケモノに変えられるというものだった。最後の特性は長い間生きているといつの間にか身についていたものだけどね。他にもいくつかあるが主立ったものはこういうところだ。私はこの特性の中から人を導く方法は無いかと考えた。そして、私が人に伝えたいバケモノとしての正しさが何かも考えた」

 白づくめは悠久の時を生きる中で、自分なりの人間との関わり方を模索していたということだろうか。そんな長生きをする怪物の思考回路は想像さえ出来ない私には、まだこいつの言わんとすることは良く分からない。

「そこで、私が思い至ったのはバケモノの素晴らしさを伝えるということだった。人間を辞めることの素晴らしさを伝えるということだった。それこそが、永い永い時を生きる私が感じた事の中で最も人間に伝えたいことだったんだ」

「なんだと....」

「人間を辞めることは素晴らしい。人間でないものに思いを馳せることは誰もが抱く自然な思考だ。なにせ、人間社会はあまりに複雑だ、あまりに理不尽だ。不必要なことばかりだ。バケモノになるというのは、それからの離脱であり解放だ。それのどこが間違っているだろうか。苦痛と不快感に満ちた場所から逃れたいと思うのはごく自然なことだろう」

 その口調は実に慈愛に満ちたものだった。このバケモノは心から人間を慈しんでいるらしかった。

「生きていればたまには、人間を辞めたくなる時もある。誰しもね。私はそういった感情を深く理解する。そういった感情に深く同情する。なにせ、彼らが望む存在そのものの私は

、その素晴らしさについて良く理解しているのだから。だから、人間で無いものになりたい、という人々を私は愛している。しかし、ごくまれに.....」

 そう言いながら、白づくめは私を指さした。これもまたそうすることが当然のようなごく自然な動きだった。そして、その顔にはさっき戦っていた時のような哀しみが表れていた。

「君のようなモノがいる。微塵もバケモノになることを望んでいない、人間こそが自分のあるべき姿と信じ、人間であることを望む存在がね」

「何か悪いのか」

「悪くは無いさ。だが、寂しくてね。こんなに素晴らしいものを理解出来ない生というものが。だから、私は夜な夜な街を歩き、そういった君みたいな存在に伝導しているというわけさ。お試しでバケモノになってもらって、バケモノの素晴らしさを知ってもらっているわけだ」

 つまり、結局のところこいつは、

「バケモノになりたいと思わない人々に、バケモノの素晴らしさを伝える。誰もが抱くありふれた願望を理解して貰う。それこそが、私が出した人間を導く方法で、私の役割というわけだよ」

 それが、白づくめが言いたいことらしかった。それこそが、白づくめが私に伝えたいことらしかった。

 白づくめの話は終わりだった。初めはまったく理解不能だったわけだが、話を聞くことでこいつの思考回路、言葉の理屈だけはなんとなく分かった。

 こいつにはこいつなりの苦労があって、たどり着いた結論があって、それに従って行動しているということなのだろう。その辺は人間と同じなのかもしれない。誰しも、自分が思ったなるべく最善の道を選んで生きているのだろうし。

 だが、全てを聞き終えて私が思ったことは『やはり分からない』だった。

 なにを言っているのだこの目の前の怪人は。

 バケモノが素晴らしいもの? それを理解出来ない存在は寂しい? そしてそういう存在にバケモノの素晴らしさを伝えるのが自分なりの役割?

 さっぱり理解出来ない。私にはこの怪人に同意出来る部分がまったく無かった。

 全然人間の思考回路とは違う。こいつは完全に怪物で、言っていることも怪物だった。自分がしていることがなんなのかさっぱり把握出来ていないようだ。

 人間を人間で無いものに変える。そんなもの悪行以外の何物でも無い。たとえ本人が望んでいたとしても悪行だ。具体的には傷害罪辺りに該当しそうに思う。

 そして、人間のため、私のためと言っているがはっきり言って私はこいつに助けて欲しいとも導いて欲しいとも微塵も思わないのである。はっきり言って大きなお世話である。私は色々足りない日常を過ごしてはいたが、概ねにおいて不幸だとは思っていなかった。高卒のフリーターで、資格もなんにも無い二十代前半のギャルだったが、まぁましな方だと思っていたのだ。

 それをこいつは自分の作った訳の分からん理屈で私の日常を破壊したのだ。しかも、本人は至って真面目に善行をしているつもりなのである。

 完全に狂っている。

 元は人間だったのかもしれないが、こいつは永い時を生きることによって体だけでなく心も完全に人間で無くなったのだ。

 私は急激に白づくめに対する恐怖が薄れていくのを感じていた。いや、圧倒的な強さに対する恐怖は依然あったが、得体の知れなさに対する方が消えていっていたのだ。

 要するにこいつは狂ったお節介野郎なのである。そう思うと随分たいしたことの無い存在に思えてきたのだ。

「お前の言っていることは意味が分からない。まったく同意出来ない。私はお前の助けなんて要らないし、導いて貰う必要も無い。私はバケモノになりたいなんて思わないし、バケモノが素晴らしいとも思わない」

「人間の世界が煩わしくないのかい。苦痛じゃ無いのかい。逃げ出したいと思わないのかい」

「もちろん煩わしいし苦痛だし逃げ出したい。でも、楽しいこともある。ここには無い面白いことがある。私は人間が良い。早く戻せ」

「ふむ」

 白づくめのその顔から、初めて笑顔が消滅した。じっと、目を細めて私を見た。顎に手を当て、思案しながら。私を何らかの価値観に当てはめながら吟味するように。

「君は異常だよ」

 そして、ぽつりと言った。

「人間の世界が素晴らしいと思うなんて。不老不死になって、色んなしがらみから逃げ出せたのにそれに一切の価値を見いださないなんて。君は普通じゃ無い。尋常じゃ無い。君は、バケモノじみている」

「お前ほどじゃない」

「ああ、私も異常だろう。それは間違いない。私はバケモノなのだから。だが、やはり君も異常だよ。なるほど、私は人間をバケモノにしたつもりで居たが、実はそうでも無かったのかも知れないな。強い心というのは、真っ直ぐな心というのは、明るい心というのは、やはり怪物的だ」

 白づくめは思案していた。白づくめなりに感じるところがあったらしい。今までとは打って変わって、その柔らかい笑みさえ消えていた。本当に難しい顔をしながら思考に埋没している様子だった。

 人を怪物呼ばわりとはひどい言いようだ。しかも、肉体のことを言っているのでは無い。白づくめは私の精神の方を言っているのである。

 人間でありたいということがそんなに異常なことだと言うのか。こんな、孤独で寂しくて苦しいことをどうして望めるというのか。一刻も早く元通りに戻りたいというのに。人間として普通に暮らしたいというのに。

 こいつは、普通を求めること、普通で無い日常に魅力を感じないことが異常だと言うのだ。それこそが普通で無いと言うのだ。

 そんなはずはない。私は異常では無い。私は普通の人間のはずだ。少なくとも今までそうやって生きてきたのだ。

「まぁ、君がそう思うのも無理の無い話だろうね」

 と、白づくめは私の心を見透かすように言った。いや、これは実際、

「相手の影に触れれば相手の思考が読める。これも私の能力のひとつだ」

 そういうことらしい。現に外灯で浮かび上がった私の影はこいつの足下にある。こいつはこの能力を使って人々の思考を読み、バケモノにするかどうか選別していたのだろう。 

「まぁ、それはさておき、だ。どうやら、君は根本的に考え方が違うようだ。どうやら、君はバケモノの素晴らしさを理解してくれないようだ」

「ああ、そうだ。私はバケモノなんて嫌だ。なにがなんでも嫌だ。もう一度言う。人間に戻せ」

「ああ、分かった」

 そして、あっさりと白づくめは言った。あまりにあっさりとしていて、私はしばし呆然とした。どうにも言われたことが信じられなかった。

 そんな私に白づくめは本当にうんざりしたように溜息をついた。

「元々バケモノのような人間にバケモノの素晴らしさなど理解できるはずも無いからね。今回は仕方が無いということだ」

 またも、ひどく愚弄されたようだった。

 しかし、どうやら白づくめは本気らしかった。態度が明らかに違った。今まではどこか期待を持っているような話し方だった。しかし、今はもう明らかに失望していた。その表情に明るさは無かった。白づくめは明らかに私に見切りを付けていたのである。

 実力行使までして敵わず、もはやこれまでと諦めていたがなんとあっさりしたことだろうか。

 結局どうやら、私にはバケモノの適性が無かったということらしい。

 それはそれで、どこか癪に障るような、なんだか自分がなにか劣っているかのようなそんな気分にさせられる。相手が怪人だろうが、落胆されるというのは気分の良い物では無い。なんだか、不愉快な終わり方である。

 しかし、そんな感覚は些末な話だ。

 人間に戻れるならそれに超したことなどあるはずが無い。

 バケモノの適正なんて高くても仕方が無い。

 そして、気付くと白づくめが目の前に立っていた。

 私は驚いて肩を震わせる。

 白づくめは三ヶ月前と同じく私の頭に右手を置いた。

「それじゃあ、さようなら。もう二度と会うことは無いよ」

 白づくめは言った。

 そして、三ヶ月前と同じように私の意識はぷっつり途切れた

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