第2話 クモ女と私
「夢じゃねぇぞ」
「うわァァァァ!!」
私の布団をひっぺがして顔を
「よっと、せい! ふぅ、やっと動けるようになったっつーのに、この身体じゃあ何もできやしねぇな」
ウジウジとなんとかよじ登ってベッドに上がってくるクーくん。その姿が可愛らしくて、え、可愛い……、と思ってしまった。
でも、でもでも、声がおっさんだ。こう、なんか、夜の街に居酒屋で飲み歩いてるような。行ったことないからわかんないけど!
「おーい、あやめ何ぼーっとしてんだ。相変わらずだなぁ」
「な、なんでぬいぐるみが喋ってるの……?」
「お、やぁっと話してくれる気になったか」
「しゃべ、しゃべってるぅ」
「ま、俺は普通のそんじょそこらのクマさんとは違うってわけだ」
クーくんはぽてぽて歩くと私の目の前にぽす、と座った。そんじょそこらのクマさんとは違うってどういうこと? と頭にはてなを浮かべていると、クーくんがククク、と笑った。
「俺はなぁ、ツクモガミなんだぜ」
「ツクモガミ?」
ツクモガミ、ツクモガミ。どこかで聞いたことがある気がする。
「お前さんの父ちゃんも言ってただろう? 物は大切にされ続けると、魂が宿るって」
「……そうか、お父さんが言ってたっけ」
さっきの夢のことを思い出して、ずくん、と心が痛くなる。体育座りをして、顔を膝と膝の間に埋める。すると、ポフポフとクーくんが私の頭をなでた。
「今まで、辛かったよな。遅くなって悪かった」
ぬいぐるみに頭を撫でられるなんてことは初めてで思わずびっくりして、顔をあげる。クーくんは何でも知っているんだなあ。お父さんとお母さんがいまこの家にいないことも、何でも。ふとみるとクーくんは優しく微笑んでいた。あ……表情変えられるんだね?
さっきまでの暗かった気持ちは吹き飛び、びっくりしたのと、ほんの少し、クーくんと話せて嬉しいのと、それと、まだ信じられない気持ちがごっちゃごちゃになっていてわけがわからない。
「ぬいぐるみに頭を撫でられてる……」
「ククク、やっと動けるようになったからなぁ。これからはしばらくあやめのそばにいれる」
「でも、動けるぬいぐるみなんて聞いたことないよ。おばけじゃないの!?」
「まぁ、ツクモガミは
「妖怪と神様のあいのこ?」
「精霊なんて言われたりもするな」
クーくんは、パチン、とウインクするとどこからか、紙とえんぴつを持ってきた。ツクモガミは字で書くと付と喪と神。もしくは九十九神、こう書くんだ、と書き始めた。付喪神、と書かれた方はまだ習ってない漢字もあるしよくわからなかったけど、九十九と書かれた方はなんでこんなふうに書くのか不思議になった。
「なんで九十九って書くの?」
「目の付け所がいいな、あやめ。いいか、ツクモガミっていうのはな、99年間大切にされてきた物が命を宿すって言われてる。それに、神様が100だとするだろ? だけどツクモガミは100より1歩手前の99。神様になるにはちっとばかし足りねぇってことだ」
「じゃあ、クーくんは99歳なの?」
「そうだ! まぁ、ツクモガミになったやつでもっと年をとってるモノもあるが」
「だからそんなにおじさんみたいなんだね!!」
「おじさん!?!?」
「うん、だって声低いし、なんかおじさんみたいな喋り方する」
「こんなにも、だんでぃで、せくしぃで、
「だんでぃ? せくしぃ? というか、そのもふもふしてて可愛い見た目で、その低い声は多分ねみんなびっくりすると思う。校長先生がカツラだったときくらい」
「そりゃあ相当びっくりだな!?」
「それにしゃべるクマなんていないし。私もう子供じゃないんだよ? 今も夢じゃないかって思ってるもん。それに神様なんかいるわけない。だからツクモガミもしんじない!」
クーくんはしょぼんと落ち込んだ。だって本当のことだもん。私はもう子供じゃない。こんなヘンテコな夢早く覚めてくれーなんて思っていると、クーくんがガバッと立ち上がった。
「夢じゃないぞ、夢じゃないんだからな。それにこうやって俺が出てきたのは理由があるんだ!」
「へぇー」
「興味なさそうにしないでくれ。いいか、あやめにはこれからモノノフとして活躍してもらう!」
「モノノフ?」
「モノノフ、モノノベ。昔な、この国には
ペラペラとクーくんは喋りだした。けど難しくてちっともわかんない。もののべうじってなに? 虫の名前?
「あやめ聞いてるか?」
「聞いてた聞いてたーでも全然わかんなかった」
「お前さんはもう少し興味を持ったほうがいいぜ。物事にな」
「うるさいうるさーい!」
「おうおう世間知らずのおじょうさまが叫んでら」
「くぅうううう!」
「ついには言葉も出せなくなったか、クックック」
ムカつくムカつく!! こんなクマに私の何がわかるの。いーっと威嚇すると、クーくんはやれやれ、と言って私の腕の中にすっぽり収まった。
「悪かったって。それに俺はあやめのこと、なんでも知ってるんだぜ? なにせずっと一緒にいたからなぁ」
そう言われて、ふと、昔の記憶を思い出した。確かに、クーくんとはずっと一緒にいた。あのときも。
「うぅ、それで、モノノフ? ってなにするの」
「お、信じないんじゃなかったのか」
「信じない! だって夢だもん」
「ククク、じゃあ夢じゃないって信じさせられるように頑張るさ。」
「早く説明」
「モノノフに選ばれた人は、俺たちツクモガミと力を合わせて邪悪な敵、ボウジャたちに立ち向かうんだ!」
「それどこのプ○キュア?」
ぬいぐるみと協力して戦うだなんて、幼稚園生向けのアニメみたい。それこそ夢じゃない。
「変身はしないから安心してくれ」
「そこじゃないな?」
「ボウジャっていうのは、その人のトラウマや怖いもの、悪夢なんかを見せるんだ」
「ガン無視しやがったこのクマ」
「ボウジャに襲われた人はその恐怖にとらわれて、周囲に不可思議な空間を作ってしまう。それに巻き込まれると、周囲の人にも危険が及ぶ。そんなことが繰り返されれば行方不明者が沢山でるんだぜ? それを防ぐためにモノノフとツクモガミは手を組んだんだ」
「へー」
「嘘だと思ってるだろ」
「もちろん。だってそんな話アニメでしか見たことないもん」
「はー、クマったご主人サマだ。それでな、ツクモガミとモノノフの絆や信頼関係が強ければ強いほど、ツクモガミは強くなれるんだ。だから、ちょっとは信じてくれよ、な?」
「でも私モノノフにならないよ」
「なんでだよ」
「だって頑張りたくないもん」
「マジかよ……」
そもそもなんで私がそんなめんどくさいことしなきゃいけないの。むぅ。ボウジャ? ってやつと戦うんでしょう? 痛そうだし、危険ならやりたくない。私は冒険なんてごめんだね! 安全に平凡にこのまま生きてくんだ!
チラッとクーくんの方を見ると、クーくんが腕と頭をブラン、と下げて俯いていた。
「クーくん?」
話しかけても返事はない。
「ねぇ、クーくんってば!!」
カクカク揺らしても、返事はない。まるでぬいぐるみに戻ってしまったみたいだ。
違う、この子はもともとぬいぐるみだ。喋るわけなんかなかった。やっぱり私は夢を見ていたのかな。でも、ほんの、ほんの少しだけ。
「急にだまったら寂しいじゃん」
私がそう言うと、キラッとクーくんの目が光った気がして。そして、ガバッとクーくんが立ち上がった。
「おっとあぶねぇ、消えるとこだった」
「クーくん!」
「なぁに泣きそうな顔してんだよ」
ペチン、と頭を叩かれる。いたいなぁ、と呟くとククク、と独特な笑い方をした。
「一つだけ説明し忘れていたよ。ツクモガミっていうのはなぁ、人に大切にされないと存在できねぇんだ」
「うん……」
「だから、ご主人サマがあまりにも信じてくれなくなってしまったら、俺はこうやっておしゃべりすることができなくなっちまう」
「じゃあさっき、クーくんが動かなくなったのは私が信じなかったせい……?」
「ま、そーだな」
落ち込む私に、またクーくんの手がポフポフと私の頭を撫でた。
「落ち込まないでくれ。別に俺はあやめに無理矢理モノノフになれってんじゃない。信じなくてもいいんだ。喋れなくなっても俺はずっとあやめのそばにいる」
「うぅ……」
でも信じなかったらクーくんとこうやって喋れなくなるんでしょう? これが夢だとしてもクーくんと喋れるのは嬉しいし楽しいもん。ずっと、しゃべったらいいのに、って思ってたから。
ほら、おもちゃが人間がいないとき喋りだすアニメあるでしょう? クーくんもそうなのかなって昔はこっそり思ってたもん。
「私、ツクモガミとか、モノノフとか、そういうのまだ全然わかんない。でも、クーくんとおしゃべりしてたい」
「ククク、可愛い奴め。あぁ本当に可愛い。俺のご主人サマは最高だ!」
「私可愛いなんて言われたことない」
「あやめは最高に可愛いよ。みんなに見せてまわりたいくらいだ!」
「は、恥ずかしいよ!」
「恥じらうあやめもかわいいなぁ。こりゃうまい酒が飲めそうってもんだろ」
クーくんがお酒なんて言い始めるから私はびっくりした。ぬいぐるみってお酒飲めるのかな。
「クーくんぬいぐるみだからお酒飲めないじゃん」
「ガビーン、そうだった」
「ガビーンとか聞いたことない。そこはぴえんだよ、クーくん」
「ぴえん……? ぞうの鳴き声か?」
「それはぱおん」
「ふむ、相変わらず日本語は難しいな」
ぴえん、覚えておこう、なんて真面目に言う姿は本当に人間みたいだ。というかおじさんくさい。悲しくなったとき、ぴえんってつかうんだよ、と教えればガッテン承知と返事をした。ガッテン承知ってなんだよ。
「ひとまず、俺のことを信じてくれるのか」
「信じる、けど、完全には信じられないからね」
「完全に信じさせられるように頑張るさ」
それからしばらく、クーくんと二人で昔の思い出話とか学校の話をした。クーくんは笑うとき、クククと不思議な笑い方をする。私はクーくんをポフポフしながら、昔に戻ったようにお話した。わくわくと心が弾んで楽しかった。
「あやめ! 誰と話してるの!」
「うわっ!?」
バン、と突然部屋の扉が開いたかと思えば、おばあちゃんが急に入ってきた。びっくりして、ぽーんとクーくん投げちゃったよ!
「あら、クーくんだわ! 懐かしいわねぇ」
「お、おばあちゃん……」
プニプニとクーくんを触るおばあちゃん。クーくんはピクリとも動かない。大丈夫かな、クーくん。少し心配になって、おばあちゃんに返して、というと、あらあら、と返された。
「昔もクーくん取られるとそうやってむすーって顔して返してっていってたわねぇ」
「別にムスッとなんてしてない」
「はいはい。そういえばさっき、学校から電話があったのよ。あんた水筒忘れたでしょう」
うそ! 持って帰ってきた荷物をゴソゴソと探しても水筒はやっぱり見当たらない。
「水筒の中身、腐っちゃうし、取ってきなさい」
「えー! もうすぐ五時なのに!?」
「すぐ行って帰ってくれば暗くならないうちに帰ってこれるわよ」
「一人で!?」
「おばあちゃんはお夕飯の仕度があるから……」
「うー、わかった。行ってくる」
それじゃあ気をつけてね、とおばあちゃんが部屋から出ていく。それと同時にぶはっ、とクーくんがまた動き始めた。
「相変わらずだなぁ、あの人は」
「クーくん、おばあちゃんの前で話さないの?」
「ツクモガミが正体を明かしていいのはご主人サマの前だけってなってんだ。しゃべるクマなんて普通の人間が見たらびっくりして捨てられちまうかもしれねぇだろ?」
「私もびっくりしたから捨てようかと思った」
「うそだろ……?」
私がふふ、と笑うと、クーくんが口元に手を当てて、嘘だよな? と何度も確認しようとしてきた。それが面白くてついつい、ヒーローものに出てくる悪役みたいにふふふ、と笑い続けた。
「よぉし、じゃあ水筒取りに行ってきます」
「あやめ俺も連れてってくれ」
「え、やだよ! 小学五年生がそんな大きなクマ持ってたら馬鹿にされる!」
「いいじゃねぇか、ランドセルにつっこんでけばよぅ」
やだよ! というと、クーくんがやれやれ、とアメリカの映画に出てくる男の人みたいに肩をキュ、とすくめて、首をふる。そして、ポンポンと手を叩くと、しゅん、と音がして、クーくんが消えた。
「え、クーくん!? 消えた!?」
「ここだよ」
クーくんが消えて焦ったが、声のする方を見ると、クーくんが小さめのキーホルダーになって、こちらを見上げていた。
ええええ、そんなこともできるの!?
「ククク、驚いたか? 驚いただろう!」
「す、凄い」
「よぉしこれで連れていけるよな?」
「むぅ、わかったよ」
仕方なくクーくんを手に持つ。ランドセルを背負って、支度をしたあと家から出た。外は夕焼けでオレンジ色になっていてすごく綺麗だ。オレンジと水色が混ざって、うっすらピンクになっているところもある。この色かわいいよね。学校まで足早に歩く。学校の前の横断歩道で、信号待ちしていると学校へ、誰かが入っていくところが見えた。
「え、あれ、れい兄?」
「れい兄って隣に住む?」
「うん……れい兄なんで小学校の中入っていったんだろう?」
れい兄の後ろ姿を間違えるはずがない。なんで小学校に? れい兄はもう中学三年生だ。知り合いの先生にあいに来たりしたのかな。まぁ、いっか、と青になった信号を渡る。クーくんはなぜか、すっかり黙ってしまった。
学校の中に入ると、先生たちが数人残っていて、一応忘れ物取りに来ました、と声をかける。水筒は教室で作業している担任の半そで先生が持っているらしい。
なんで半そで先生かって? そりゃあ一年中半袖だからだよ。真冬でも、雪が降っても半袖なの。でも一回も風邪引いてないし。あまりにも寒くなさそうだから男の子たちが真似したがるの。真似したお馬鹿な男子たちが、風邪を引いて学校休んだりすることもある。アホだよね。
今は春だけど、春でもまだ半そでじゃ寒い。普段昼間の明るい学校を見ているせいか、生徒が誰もいない、ガラーンとした学校はなおさら寒く感じる。それどころか少し怖い。だんだん日も落ちてきたし、早く取りに行こう。さっさと教室に入る。
「半そで先生〜?」
声をかけても半そで先生は教室にいなかった。ぽつんと置いてある水筒を手にとったその時、ぐわん、と地面がゆれた。
え、地震!? とキョロキョロすると、小さくなっていたはずのクーくんがグーンと大きくなった。
「よっこいしょういち! さぁてあやめ、初仕事だぜ」
「初仕事?」
「そうさ、モノノフとしての初仕事! めでてぇな。今夜はお赤飯を炊いてもらえよ」
「私クーくんのこと信じるけど、モノノフになるなんて一言も言ってない!」
「そうかいそうかい。でももう巻き込まれちまったなぁ?」
クーくんがそういったその瞬間、廊下の方からはシュルシュルときいたことのない音がした。ゾゾ、と身体に鳥肌が立つ。それに驚いて廊下を見るとなにか黒い棒状のものが3本くらい窓から見えた。
ガサ、ガサガサ、とよくわからない音がする。どくどくと心臓が煩い。しぃ、とクーくんが、手を口に当てる。指がないから手をくわえてるみたいになってるけど。ガサッとさらに大きな音がした。黒い棒状のものがゆっくりと移動している。それと同時にシュルシュルという音が近づいてきている。
ガサ、ガサガサ、シュル、ガサ、シュル、ガサ、シュルシュル、ガサガサガサガサ、シュルシュルシュルシュル、ガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサガサ!
「ヒッ……」
棒状のものがバラバラとうごめいている。途中で関節のあり、少しふさふさとした毛のついたそれは、
「い、いやぁぁぁぁぁっ!!」
耐えきれなくなって叫ぶと、女の真っ黒な口がニタァと笑った。ガクン、と尻もちをついてしまった。ガタガタガタガタ、と教室の扉が揺らされる。
ゴンゴンゴンゴン……パリーン。
扉についている窓ガラスを割られてしまった。
「あやめ、立て! 逃げるぞ!」
「ムリムリムリムリー!!」
「食われたいのか!」
「いやぁ!」
だったら立て! とクーくんに急かされ、必死に立ち上がる。クモ女はガサガサガサガサと激しい音を立てて扉を開けようとしてくる。怖い怖い怖い怖い! 何あれ、クモに女の人!? 何あれ!!
「いいか、タイミングを見て、後ろの扉から出るんだ!」
「うううぅ」
「大丈夫だ! 俺を信じろ!」
クーくんが私の手を引っ張って、後ろの方に連れて行き、しゃがませる。足が泥沼に入ったみたいに重い。近くに虫退治用のスプレーがあったから、必死に拾った。効果あるかわかんないけど!
ガサガサガサガサガサガサガサ、カリカリカリカリ、という音が響いてうるさい。ひぃ、ひぃ、と情けない声が口から漏れる。ついにガガガガ、と扉が開いてしまった。ガサ、ガサガサ、ガサガサガサガサ、と大きな音を立てて、ズルズルと中に入ってくる。中に入りきったかな、というところで、ピタリと音が止まった。はぁ、はぁと息が荒くなる。こわいこわい、無理だよ。
手が震える。口も震えてきた。そんな私の手をクーくんがギュ、と握ってくれる。その瞬間、パチリ、と女の真っ黒な空洞と目があった。ニチャリ、と笑う。そして、高い声で笑い始めた。
フフ、フフフ、フフフフフフフフ!
「今だ、あやめ! 逃げるぞ!!」
ガラガラ、と扉を開け、ぴしゃんとしめたあと、すぐに外に出る。どうやらクモ女は扉を開けるのが苦手らしい。ガリガリガリガリとまたひっかきはじめた。廊下に出てみると、そこにはびっしりと白い糸。クモの巣のようにそこかしこに糸がはられている。それだけで気持ち悪いのに、その糸に小さい小グモがシュルシュルと、糸を吐きながらぶら下がっている。
「ひとまず逃げるぜ!」
「うん!」
足が糸に取られないように気をつけながら必死に走る。私の教室は二階だ。一階に職員室があるから、先生たちに助けて、と言うために降りようとしたけど、クモの巣が一階の階段にかかっていて、降りられそうになかった。
「こりゃクマった! 上に行くしかなさそうだな」
こっちだ、と私の腕の中で指を指すクーくんに従いながら、上を目指す。その時ちょうど、ガシャーンと大きな音がして、フフフフフフフフフフ、という笑い声が聞こえた。あぁもう、うるさいうるさいうるさい!
「早く上がれ!」
クモ女の足がビキビキと見え始めて、シュルシュル、ガサガサ、という音と一緒に笑い声も聞こえてくる。必死に思い足を動かす。
「ムリムリムリムリ! 本当にこんなのムリだって!」
必死に上に上がるけど、下から物凄い音を立てながら追いかけてくる音がする。足がいつもより百倍ぐらい重くて、動かない。水の中にいるときみたいだ。進んでも進んでも、追いかけてくるアイツが怖くて怖くてしょうがない。誰か助けて!
「絶対許さないからね、クーくん!」
「ククク、それはクマった」
私に抱えられているだけのクーくんは随分と余裕そうだ。クモ女に投げてやろうかな。でも一人で逃げるなんて絶対無理。ギュウとクーくんを握って、逃げる逃げる。階段ダッシュとか普段からしておけばよかった!! 運動できない私には本当に無理だって!
はしれ、はしれ、はしれー! 必死に足を動かす。それはもう鬼ごっこの逃げるときなんかよりもずっと必死に。ちらりと振り返るとピキピキとクモの足を生やした女が壁やら床やらを伝って猛スピードで私達に向かって来ているのが見えた。ブルブルと震える足を叩いてスピードを落とさないようにそれはもう今まで走ったことのない速度で走る。がんばれ、私!! 追いつかれたら多分食われるー!
「ほらほら頑張れよ、あやめ!」
なんで私クマのぬいぐるみを抱えながらクモの化物に追いかけられてるの? なんでよぅ! ポフポフと私の腕を叩いて、低いおっさんの声でがんばれー、なんて言われてもちっとも頑張れない!!
どうせなら、れい兄に応援されたかったよ! そういえばれい兄これに巻き込まれたりしてないかな、大丈夫かなぁ!? そう思いながら、急に違和感に気づいた。途中で人は誰も見てない。学校なんだもん、他にも見回りの人とかいそうなのに。
そのとき、うーうー、とどこかから声が聞こえた。横を見ると白い糸の塊がある。蚕のまゆみたいなものかな。大人の人間くらいの大きさで、中から呻き声が聞こえる。
「クーくん、これってまさか!」
「あぁまずいな、人が取り込まれ始めてる。あの蜘蛛女、どんどん強くなるぜ!」
「ひぃいい、無理怖い!」
バタバタと階段を駆け上り、上の階へ行く。下の階はもうすでに蜘蛛の巣でいっぱいだった。蜘蛛の巣って気持ち悪い。ベタベタするし、テカテカしてるし。蜘蛛の巣から逃げながら、走り回っているうちに屋上に繋がる扉についた。だけど、硬い鍵がかかっていた。
「うっそ!」
「おっと、こりゃクマったクマった。最上階についちまったみてぇだなぁ」
目の前にある大きな扉をガチャガチャと鳴らしてみるが一向に開かない。鍵がかたく掛かっているようだった。
「さてはて、どうするあやめ。モノノフになるってんなら、このドアを開けてやることもできるが?」
モノノフなんて危険な仕事、小学五年生の私がなんでやらなきゃいけないの、と反論しようと思ったけれど、反論する前に下からガサガサと物凄い音がしてくる。うううぅ、嫌だけど、嫌だけど!
「ううううぅ、もうわかったよ! モノノフになる!」
その瞬間、ボフン、と大きな音と一緒に一瞬真っ白な光で何も見えなくなった。ドカン、と耳がキーンとするような音が響いて、私の体が持ち上げられ、物凄い風を感じた。
恐る恐る目を開けると、
「これからよろしく頼むぜ、ご主人サマ」
渋いおっさんの声が耳元から聞こえた。
******
昔々というほど昔でもないちょっと前のこと。ある海辺の街にやんちゃで元気いっぱいな男の子がいました。その男の子はいつも半そでで、クラスのムードメーカーでした。男の子には大切なお友達がいました。小さくて黒い髪のキレイな可愛い女の子です。その子は昔から体が弱くて、すぐ病気になってしまって学校に来れないときもありました。男の子はそんな女の子に元気になってほしくて彼女のもとによく行きました。
学校に登校できる日は一緒に登校して、帰り道は男の子の家によってこっそり棒のついたソーダのアイスを食べるのです。登校ができない日は、学校でもらってきたプリントやお手紙をたくさん持って、女の子のもとに届けます。男の子は彼女が休むといつも先生に、僕が手紙を持っていきます! と手を上げて、率先して彼女のところに行くのでした。
女の子の家につくと、学校でどんなことがあったとか昨日のテレビが面白かった、なんて話をしたり、帰り道に拾ったキレイなどんぐりをティッシュに包んで渡したりしていました。男の子が面白おかしく話してくれるので女の子は外に出れない日もいつも楽しくて笑顔でいっぱいになるのでした。
二人だけの秘密基地に探検に行ったり、家の中の屋根裏を探索したり、女の子が初めて手作りしたチョコレートを二人で食べたり、男の子の苦手なクモを使って女の子が悪戯をしたり、そんな関係性がずっと続きました。
それは中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、大人になっても、ずっとずっと変わりませんでした。男の子は女の子が病気で倒れてしまわないように心配で彼女のもとによく行き、女の子は男の子がいつ顔を出してもいいようにオシャレをしたり、美味しいお菓子を作ったりました。
やがて二人は、恋に落ち、将来は結婚しようね、と約束し合いました。婚約指輪として、男の子は自分の実家に代々伝わる指輪を彼女に渡すために準備をしていました。しかし幸せはいつまでも続かないもので。
ある日、女の子が倒れてしまいました。一命は取り留めたものの、ベッドに寝たきりになってしまい、眠り姫のように目を覚まさなくなってしまいました。男の子は絶望しました。彼女が目覚めるのは、一体いつになるんだろう。もしかしたらもう二度と目を覚まさないかもしれない。眠り姫は王子のキスで目を覚ますから、と僅かばかりの希望をかけて、試してもみましたが、ちっとも彼女のまぶたは持ち上がりませんでした。
しかし、眠っている間の彼女の顔は優しげで、病気で苦しむ姿はどこにもありません。起きているときのほうが病気で苦しんでいるんだから、寝ている方が女の子にとって幸せなのかもしれない、と男の子は思い始めました。
けど、早く起きてほしい。楽しそうに笑う彼女の姿がみたい。男の子は婚約指輪を片手にずっと願い続けました。
その願いはいつまでも届きませんでした。女の子は今も目を覚ましません。男の子はすっかり大人になってしまいました。彼女は一生目を覚まさないんじゃないか、そんなふうに思った男の子は悲しみにくれ、ひたすら仕事に打ち込むようになりました。生活もだんだん雑になって、家の中はゴミだらけ、料理もまともにしませんでした。
男の子はいつの間にか婚約指輪をなくしてしまいました。でも男の子にとって指輪なんてもうどうでも良かった。その指輪を渡したい女の子はいつまでも目覚めてくれないのだから。
今日も眠り姫はすやすや眠り、どれだけ王子がキスをしても目覚める気配はありません。彼女の指で輝くはずだった指輪がどこかでカチン、と音を鳴らしました。
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