キスマーク
凪司工房
1
冷蔵庫を開けるとドリンク用のスペースに水のペットボトルが隙間なく入っていた。その一本を手に取り、砂を呑み込んだ後のような
「ねえ、花」
大嫌いな自分の名前を呼ばれ、俺は布団に包まったままの何も身に付けていない女の頭を
「名前で呼ぶなっつっただろ」
少女漫画みたいな派手なマスカラの目は謝罪の色に染まったから、それで満足だった。
「ごめん、
「悪かったよ」
そう言ってから、彼女の薄い体に腕を回す。脂肪が少なくて皮膚がかさついているのに、胸だけはシリコンでも入れたみたいに
「する?」
「水川がしたいんだろ。昨夜やりすぎたからいい」
そっか。
ぼてっとした唇が声なく形作る。食べたくなるくらいに、そこだけを愛していた。
キスを、待っている。
けれどそれを俺が与えることはない。キスは、嫌いだ。
「一度聞きたかったんだけど、どうしてリップ塗るの?」
素肌にボタンシャツを合わせたままリップクリームでかさついた口を誤魔化している俺に、水川が背中からまとわりついてくる。
「気持ち悪いから」
その
「服着ろ。飯食い行く」
俺はボタンを留めながらクロゼットの方に歩いて、彼女の足音が遠ざかるのを待った。
「シャワー、借りても?」
振り返る。右の人差し指と親指でボタンを掴み、左の指で広げた穴に突っ込んでいく。彼女はその仕草をじっと見つめながら、俺が
不安。怯え。恐怖。それとも
永遠に続くかと思われた沈黙を素っ気なく破って「ああ」と頷くと、彼女は瞳を
そう。ただ、関わりが欲しいだけだ。
与えられるのを、いつでも待っている。水川憂芽はそんな女だ。そしてそんな女のことを俺は一ミリも愛していない。
すぐにシャワーの水音が聴こえ始め、それに愛らしい舌足らずな鼻歌が混ざった。
シャツを着終えると乱れた布団を畳んで端に寄せる。アレのときに水川が必死に掴むものだからシーツは彼女の手形が残るんじゃないかと思うくらいの
ゴミ箱に入っているティッシュには昨夜の
上着を手に取ろうとしたところで電話が鳴る。画面を見ると大学のサークルの先輩だった。
「
「いや。ほらお前テストの過去問欲しいって言ってたろ。手に入ったから、渡すわ」
電話から響く声に不機嫌さはなかった。怒らせると恐い人だからと先輩たちから注意されていたが、何故か一度もそういった経験がなかった。気に入られてるんだよ。そう言われたけれど、水川みたいな女以外に俺を気に入る人間なんてそういない。
「ああ、助かります。えっと、大学で?」
「当たり前だろ……てかお前、また休んでんのかよ。いい加減にしとかないと単位落とすぞ」
「一年の時に先生に土下座して単位貰った先輩の言葉は現実味あり過ぎです」
返事もなく通話が切れる。液晶に表示された時刻を確認すると既に十二時を少し過ぎていた。
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