秘密情報部 ~ミッション:他大学にモグって身バレせずに告白を成功させる~

おかか

プロローグ

 ――午前十一時五分。東京都千代田区地下。

 時速八十キロの世界が広がるそこに、彼女はいた。


 腕時計を凝視するその目には、濃い不安の色が浮かぶ。焦りが収まらない。

 先程からずっとそわそわと体が動いているせいで周囲の注目を浴びているが、彼女にはそのことに気が付く余裕すらなかった。


 タイミングが悪すぎた。

 最初の不運を皮切りに、この短時間にこんなにも不幸が重なるなんて誰が想像できよう? 

 痛恨のミス。完全に想定外。

 今、彼女は窮地に立たされている。


 そんな彼女を助ける者はいなかった。

 これは彼女一人の闘いである。強い不安と焦燥が質量を伴って覆いかぶさってくる。しかし、ここで挫折するわけにはいかない。


 彼女は脳内で叫んだ。


 (ああ、もう! 目覚ましのセットし忘れた昨日のあたしの馬鹿馬鹿馬鹿ぁ!)


 ――午前十一時八分。

 大学で授業開始のチャイムが鳴るまで後二分となったところで、彼女を乗せた地下鉄の列車は大学最寄り駅のホームに到着した。


 二時限が始まる午前十一時十分に余裕を持って間に合うようにするには、遠方から通学する彼女は九時には家を出る必要があった。

 つまり、身支度の時間も考慮して七時半には起きていたいところであったが……


 今朝、目が覚めた時、スマホの時計は既に九時十五分を示していたのである。

 その瞬間、絶望感から視界が真っ黒になった感覚は当分忘れられそうにない。


 慌てて飛び起きてダッシュで準備、何とか時計の長針が半分回るまでには家を出られたが、当然十分に髪のセットもできていなければ朝食も取っていない。

 しかし、九時半に家を出れば駆け込みセーフであることは経験上わかっていた。背に腹は代えられない。


 初回の授業に間に合うことが第一優先だ。

 人気の授業だから、定員オーバーで選抜試験の可能性があるのだ。それを欠席することは、スタートラインに立つことすらできないことを意味する。


 髪はボサボサだし化粧もまともにしてないけど、今日だけは我慢しよう……


 吹っ切れた彼女は無我夢中で走った。

 しかし、不幸は重なるものだった。

 最悪のタイミングで、通勤・通学客の大敵、電車の遅延が襲ってきたのであった。


 何とか電車の遅延の猛攻を凌いだ彼女は、ホームに降り立つなり全力ダッシュ。

 授業開始時間には確実に間に合わないが、まだ被害は最小限に止められる可能性がある。諦めるにはまだ早かった。

 

 ICカードのタッチミスで自動改札には跳ね返され――戻ろうとして振り向きざまに後ろのおじさんに正面衝突――たり、エスカレーターの段差を踏み外してずっこけ――「いったぁ!」という悲鳴と衝撃音で隣にいた若いスーツの男性はこの世の終わりのような顔で振り返った――たりしながら、彼女はやっと地上へ這い上がった。


 太陽の下、ブラウンの髪がさっと風に靡いた。


 振り向いた彼女の視線の先には、聳え立つ大きなビルがあった。

 ビルのてっぺんの辺りには、遠くからでもよく見える大きな文字が、エンブレムのように掲げられている。

 MINATOのその文字は、そこがとある有名私立大学であることを誇らんばかりに告げている。

 

 私立湊大学。都心に堂々とキャンパスを構える名門中の名門。文系学部の集まるこのキャンパスは、地名にちなんで市谷キャンパスと呼ばれている。

 

 彼女は走りゆく。

 

 最高の青春の舞台の、その場所へ向かって。

 

 学生の数だけ、物語がある。


 表にも裏にも、色々な物語が、そこにはあるのだった――

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