【恋愛】しろとあか ~そして、彼が来た理由と微笑みの意味を、彼女は知った~

 彼女は白い部屋に住んでいた。


 壁も床も天井も。椅子もテーブルも。ピアノとその鍵盤も。窓ガラスさえ、白いすりガラスになっていた。


 彼女の手足も真っ白だった。血の抜けたような、透き通るような白。


 白一色の部屋の中、そのつややかな腰まで届く髪と着ているドレス、少し吊り上がった目を縁取る睫毛まつげさえも真っ白で、小さくふっくらとした唇と大きな瞳だけは、今にも血がしたたりそうなほど真っ赤だった。


 彼女はいつも独りで、日のほとんどは眠っており、起きている間は、ピアノを弾いたり、歌を歌ったり、てのひらですりガラスに触れて外の世界に思いをせて過ごす。


 日に一度、屋敷の主が部屋を訪れる。


 その時間になると、彼女は部屋の真ん中にある大きな白銀の鳥籠の中に自ら入り、扉を閉める。かしゃんとわずかな金属の音がして、扉の錠が自動で閉まる。


 ややってから重厚なドアが静かに開き、家主が部屋に一人で入ってくる。


 豪奢な服を着た家主は、うっとりとした表情で彼女を見つめ、身の回りの出来事を一方的に話す。


 彼女は鳥籠の中央の椅子に座り、目を伏せたままじっとしている。どんな話を聞かされても、彼女は視線を上げず、その白い長い睫毛まつげの一本さえ動かすことはない。


 ひとしきり話した家主が部屋を出ていくと、かしゃんと錠が開く音がするとともに、天井から鳥籠の中に、ぽとりと赤い錠剤が落ちてくる。


 彼女はそれを口に入れ、がりがりとかみ砕き、嚥下えんげする。真っ赤な舌でぺろりと唇をなめ上げると、鳥籠を出てひんやりとした白い石床を裸足はだしで歩き、ベッドに横になる。


 そんな日をずっと繰り返してきた。何日も。何年も。


 とらわれたのはどのくらい前のことだっただろうか。




 ある日、いつものように鳥籠に入るとすぐに、部屋のドアが乱暴に開けられた。

 

 彼女の名を呼ぶ声と共に駆け込んできたのは、黒い髪を振り乱した、騎士姿の、愛しい人。まぶたの裏に思い浮かべ、毎夜夢に見た彼女の想い人。


 愛らしいほほの丸みはげ落ち、精悍せいかんな顔立ちになってはいても、強く光を宿した瞳は変わらぬままだった。


 彼女は驚きのままに椅子を蹴倒して立ち上がり、白く鈍く光る格子に取りつく。


 騎士はしかし、続いて入ってきた数本の手に捕らえられ、部屋の外に引きずり出された。


 その手を力づくで振りほどき、騎士は再び部屋に転がり込む。


 彼女はその手をつかもうと、格子の間から必死に手を伸ばした。

 

 もう少しで手が届くというところで、騎士が床へと引き倒された。


 その後ろから悠々と家主が部屋に入ってきた。残忍な笑いを顔に張り付けて。


 彼女が籠の扉を揺するも、がちゃがちゃと音が鳴るだけだ。


 騎士は彼女の名前を呼び続けている。


 彼女も騎士の名前を呼んだ。涙があふれた。


 家主の笑みを含んだ合図とともに、槍が何本も容赦ようしゃなく騎士の背中に突き立った。


 彼女の名を愛しげに呼んだ騎士が、ごぽりと口から血をこぼす。


 悲鳴のように名前を呼び続ける彼女の手は、しかしわずかに届かない。

 

 騎士は彼女を見て悲しそうに眉を下げ、そしてふわりと微笑むと、伸ばした手をぱたりと血溜ちだまりに落として息絶えた。


 彼女は叫んだ。言葉にならない何かを。


 ついぞ感情を見せることのなかった彼女が乱れるさまに、家主は見とれていた。目元を熱に浮かされたように赤くし、口には愉悦ゆえつの笑みを浮かべて。


 彼女はがくりと膝から崩れ、格子をつかんで幼い子どものようにいやいやと首を横に振った。さらりとつややかな白髪が宙に広がる。


 どうして来てしまったの。


 私は独りでもよかったのに。


 こんなことなら、死を選んでおけばよかった。


 倒れた騎士は動かない。彼女に笑いかけることも、彼女の名前を呼ぶことも、もうない。


 なぜ、なぜ、と彼女が心で問いかける。


 なぜ、来てしまったの。


 なぜ、最後に、笑ったの。


 一目会えればそれでよかったの?


 私を世界ここに置き去りにして、それで満足なの?


 涙をこぼし見つめる先で、騎士の体の下からゆっくりと血が広がっていく。


 真っ赤な血が、石床をめていく。


 白を塗りつぶしていく赤を茫然ぼうぜんと眺めていた彼女は、喪失の痛みに震える手を伸ばし、そっと指先でその赤に触れた。


 わずかに感じた温かさは、彼がつい先程まで生きていて、そしてあとは冷たい床に温もりを吸い取られていくだけなのだという事実を彼女に突きつけた。


 赤く染まった指先に優しく口づける。


 唇に移った赤を、なまめかしくねっとりと舌でめとった。


 ああ、そう、これが――彼の味。


 恋焦がれ、乞い乞われた愛しい人の命の雫。


 雷に打たれたような衝撃が走り、本能が喜びに打ち震えた。


 心は悲しみに潰れそうだというのに、自然と口角が上がる。薄く開いたくちびるから鋭い牙がちらりとのぞいた。


 そして、彼が来た理由と微笑みの意味を、彼女は知った。


 彼女の前であかをこぼすのが目的だったのだ。


 連れ出すことなどできないとわかっていたから。


 ひどい。ひどいわ。


 彼女は痛みに耐えるように目をつぶった。


 あふれた涙が、頬の筋をつたった。


 再び開いた目に涙は残っておらず、その瞳は真っ赤に光り輝いていた。


 鳥籠は、もう彼女のかせにはなりえない。


 目の前では、ようやく彼女の様子に気づいた家主が、慌てて部屋から出ようとしていた。


 愚かな人間。


 彼を見逃してくれたなら、大人しくしていてあげたのに。


 部屋を飛び出した家主の背中に、感情のこもっていない視線を向ける。


 彼がいないなら、もうどうでもいいわ。

 

 

 

 

 その日、一つの王国が、美しい一人の魔女の手によって滅びた。

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