鴎撃ち

佐藤ムニエル

 静かだ、と思う。静寂が一種の音として耳の奥で鳴っているようだ。

 目の前には、青白い雪原がどこまでも広がっている。彼方で鼠色の雲が、太陽を見せては隠しを繰り返しながら忙しく流れていく。他に語るべきものは何も見当たらない。人工物も、人の姿も。

『敵機接近』頭の中で支援AIティンカーベルがわたしの声で言う。抑揚を欠いた機械の口調。『二時の方向、距離二〇〇〇、速度百八十。数は一。種別は〈鴎〉』

「方向修正」わたしは唇を結んだまま黙話する。「右に三十」

『右二十度の修正を提案します』

「却下。今は無風。陽射しを受け視認されるリスクを優先的に考慮する」

『迷彩は展開済みです』

「発射時にバレルの影ができる」

 考え込むような間が一拍あってから、頭の中の声は言う。

『了解しました。提案を取り下げます』

 自走トーチカ〈蟹〉が六本の脚をこまめに動かし、向きを変える。

 呼吸を整える。左眼に意識を集中し、電肢デバイスを狙撃モードを切り替える。〈蟹〉の砲撃システムと意識を同期する。わたしの視認する景色が、機体のカメラが捉える景色となる。

『敵機、最終防空圏を突破しました』

 わたしはトリガーに指を掛ける。

『視認可能距離まで五、四――』

 鼠色の雲の中に、黒い点が見える。点は揺れることなく移動している。こちらへ向けて、高速で。ここの空には鳥がいないから、見間違う恐れはない。敵影だ。

「目標視認」わたしは言う。

『照準補正を開始します』

 半透明のターゲットサイトが敵の機影を捉える。こちらの存在には気付いていないのだろう。相手は真っ直ぐ飛んでくる。

 わたしは息を吸い、呼吸を停める。

 トリガーに掛けた人差し指に力を込めようとした刹那、視界の端が明るく光る。

 雲が切れたのだ。運が悪い。

〈鴎〉が俄にコースを変える。気付かれた。だが、こちらのロックオンを解くには至らない。ティンカーベルが、相手の身体の振れ方から行き先を再計算する。算出結果はわたしの予想と一致する。

 トリガーを引き絞る。

 頭上で、シュッと音がする。膨らませたビニール袋を破裂させるよりも静かな音だ。

 雲の切れ間から射し込む光の中で、〈鴎〉の頭部が爆ぜる。

 悲鳴のようなものが、聞こえた気がする。

 物理音声ではない。脳内通信への干渉でもない。〈何かが聞こえた〉という実感だけだ。

 だが、それは確かに存在するように思えてならない。

「弾着」わたしは言う。

『弾着確認』ティンカーベルが言う。

〈鴎〉は黒煙を上げることもなく、最初からそのつもりだったかのように高度を落とし、地面に激突した。砂が巻き上がり、遅れて砲声のような音が響く。

『敵機、活動停止を確認。損傷率は九十パーセントの模様。回収班を手配しました』

 わたしは唇を噛む。それから言う。

「墜落した機体を確認したい」

『三尉には帰投命令が出ています』

「とどめを刺したい」

『不要です。敵機は既に行動不能です』

 頭上を黒いジャイロクラフトが飛んでいく。回収班だ。わたしの撃ち落とした獲物を、いつも横から攫っていくハイエナたち。

『三尉、帰投してください』AIが繰り返す。

 わたしは口の中で舌打ちする。

「――帰投する」

〈蟹〉が方向を変え、横向きで歩き出す。わたしは左のこめかみに指を押し当てながら、蒼白い雪原の方を――かつては幾重にも波を立てていた、氷漬けの海の彼方を見つめる。

 青みがかった白と鼠色の境界に、橙色の光の球が沈もうとしている。その光球の中に、一本の柱が立っている。沖合の岩礁に立てられた古い灯台の影だ。今ではわたしたちにとっての最前線を示す標として、また、海を渡ろうとする敵に対する監視の眼として、吹き渡る風や氷雪に晒されながら役目を果たしている。

 わたしは潮騒と海鳥の消えた浜辺から、その姿を眺める。辺りに響くのは、〈蟹〉の脚が砂を刺す音ばかりだった。

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