第75話 とある昔話⑤

「…………」


 偵察と言えば聞こえはいいが、実際はただの盗み見だった。休み時間を使って少し離れた「れん」のクラスまで遠征した涼音は、開いたドア越しに教室内を一望。一部の生徒は遊びに外へ出ている様子だったが、予想通りに「れん」は椅子に座ったままだ。背もたれに体重を預けながらぱらぱらと文庫本をめくる様子は家にいるときからまったく変わらず、その排他的な雰囲気のせいか、周囲に集まるクラスメイトはいない。学校にいるからといって特別なふるまいをすることはなさそうで、そしてそれが「れん」にとって一番楽な過ごし方なんだろうなというのがわかる。


 だけれども、涼音にはそのたたずまいがどうしても寂しいものに見えてしまって。


「なに?」

「わぁ!」


 ぼうっとしていたせいで、「れん」が近くまで来ていたことに気が付かなかった。普段はなにをされても微動だにしない割に、視線には敏いらしい。涼音があわあわしながら必死にのぞき見の言い訳を考えていたところで、「れん」は言った。


「誰かに用があるなら取り次ぐけど」


 やはり、その表情には抑揚がない。そのせいもあってか、自身に後ろめたさがあるときには怒っているようにも不満があるようにも見えてしまう。本当にそうだったことはこれまでに一度もないから涼音が必要以上に身構えすぎているだけなのだが、それに関しては、明確に「れん」の欠点と言えた。泣きも笑いもせず、淡々と口を動かす様子は人よりもロボットに似ている。この人間味のなさは、人から遠ざけられる理由としてあまりにも十分すぎた。


「な、なんでもないの!」


 まくしたてながら回れ右。そのまま走って逃亡……するつもりだったが、すんでのところで考えを改めた。一つ、訊いてみたいことができたからだった。


「人と話すの、きらい?」


 はっとした表情で、しばらく沈黙する「れん」。そう悩むことでもないと思うが、それはあくまで涼音の主観。「れん」からすれば、難しい問題なのかもしれない。

 ならば答えやすいようにと、比較対象を設けることにした。


「本を読んでる方が好き?」

「……ちがうな」


 思いのほかに早く、返答があった。しかしながらそれは、涼音が想定していたものと程遠いのだと気が付くまで、あと数秒。


「別に、読書は好きでも嫌いでもない……と思う。ただ――」

「ただ?」


 そこで「れん」はしばらく冷温停止し、ふさわしい言葉を探るのに少々時間をかけてから、応じた。


「僕はただ、ページをめくり続ければいつか答えがあるんじゃないかって期待をしている。前からずっと、今この時に至るまで」

「…………?」

「答えというのは、その――」


 しかし、そこから先へは続かなかった。今度こそ言葉を失ってしまったように「れん」は動かなくなり、辛抱強く待ち続けた涼音を嘲るがごとく予鈴が校舎に鳴り響く。自然、自身のクラスに引き返さざるをえなくなるのだが、そうなってもまだ、「れん」は立ちすくんだままなにかを考え続けている。

 

「いつか、おしえてね」

「…………」


 返事はない。けれど、涼音はそのいつかを、誰より強く待ち望んでいる実感があった。

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