第68話 とある昔話②

『いや』『僕はいいかな』


 言うだけ言って満足したのか、「れん」はすたすた歩いて、奥にある部屋の向こうに姿を消した。涼音には、ただただ口をあんぐり開けて、その背中を目で追うことしかできなかった。

 

 なんだ、今のは。あんなのは初めてだ。前例がない。経験がない。故に、どんな反応をすればいいかがわからない。一部始終を見物していた「れん」の母親が慌てて駆け寄ってきてごめんなさいねと頭を撫でるのも、涼音の両親に向かって「昔からこうで」とか「協調性の薄い子で」とか弁明するのも、まったく頭に入ってこない。

 不思議と、憤りはなかった。かといって悲しみが溢れたかと言われればそれもまたちがう。そこに残ったのは純度百パーセントの衝撃だけで、どう思うかという次元にまで到達していない。それほどまでに膨れ上がった、圧倒的な異物感。頭があって胴があり、そこから腕や脚が伸びている。自分と似通った形状をしていたが故に、無意識に同種の生命体だと判断を下していた。しかしながら、それは誤りであるらしい。


「あっ、ちょっと!」


 父親の制止は無視した。好奇心に突き動かされるままに「れん」の後を追い、部屋に押し入る。涼音という侵入者が現れたのを、しかしまるで気にかけることなく、「れん」はベッドに腰かけて文庫本のページをめくっていた。


「それなに」


 六歳の涼音にとっての本とは、全てが絵本のことだった。カラフルな挿絵が踊り、読みやすいひらがなが並ぶとっておきの娯楽。けれども、「れん」が小さな手で支えているそれは、本であっても絵本ではない。


『ん』『なにって』


 勝手に入ってきたことを咎められはしなかった。「れん」は手もとをずいっと覗きこんでくる涼音を認知すると、読みかけのページに栞を挟んで表紙を見せてきた。


『小説』『父さんから借りた』


 ショーセツ。その響きには覚えがある。通っているピアノ教室で、先生が時たま口にする単語だったはずだ。もちろん漢字に起こせばまるで別物なのだが、涼音は同音異義語の存在ももちろん知らない。

 

「……?」


 漢字混じりのタイトルは、なにが書いてあるかさっぱりわからない。素直に「よめない」と告白すると、「れん」が読み方を教えてくれた。それを繰り返すように発音すると、合っていると言いたげに首がこくこく縦に振られる。

 そこまでやり取りして、涼音は思う。別に、話ができないわけではないのだ。こちらの言いたいことは伝わるし、あちらの言いたいことも理解できる。ただ、そこにどうしようもない違和感が付きまとうだけで。

 その違和感とやらが顕在化したように、既に「れん」の視界から涼音は消えている。再びページをぱらぱらめくるその姿には、いっそ清々しさすらあった。――でも、面白くない。わざわざ話しかけているのだから、きちんと構って欲しい。不満とともに「れん」の隣にぴたっと座り、ずらずら連なる文字列を見やる。当然ながらなに一つとして理解は及ばない。けれど、「れん」はそれを夢中になって読みふけっている。


「よめるの?」


 もしかしたら、格好つけているだけなのかも。そんなわけがないことには薄々勘づいていたが、子どもの軽い口は思いついたそばから言葉をぽんぽん外に吐き出す。しかし、投げかけられた質問の明快さに反して、「れん」の回答は複雑なものだった。


『難しいな』『文字は読めるけど』『わからないことの方が多い』


 渾身の困り顔をお披露目する涼音だったが、「れん」はそれを気にも留めようとしない。考え事をするように俯き、しばらくぶつぶつと独り言を重ねるだけだ。その一音一音が独立した言語のようで、涼音はただただ圧倒された。


『思うに』『読めるとわかるの間には』『結構な壁がある』


 クエスチョンマークが頭の上から消えない。そもそも、「れん」は涼音の理解を欲してなんかいない様子だった。あくまで自分が納得できるように言葉を選んでいるだけで、もしかすると最初から眼中になかったのかもしれない。

 けれども、隣に居座ることを拒絶する様子もなかった。

 だから涼音はそれっきり黙りこくったまま、本を読み進める「れん」の横顔をぼんやり眺めることにした。

 まつ毛が長い。目にかかる前髪は邪魔そうなのに、ピンで留めたりしないらしい。後ろ髪の括り方は適当で、左右のバランスが悪かった。顔立ちはかわいらしいが、表情の薄さのせいで全てが台無し。なんというか、色々ともったいない。

 ふと、いたずら心が顔を出す。ゆっくりバレないように気遣ってヘアゴムをほどき、自分のポケットにたまたま入っていたゴムを追加することで、急造の二つ結びを作ってみる。それだけで足りない愛想がいくらか補えたような気がして、涼音は悦に浸る。

 それにしても、「れん」の集中は一切乱れる様子がない。これだけぺたぺた触っているのだからバレて当たり前なのに、視線はずっと本に注がれたままだ。それを良いことに、涼音はヘアアレンジを続行。とはいっても未就学児の拙い手さばきと「れん」の短髪では限界が知れているが、どれだけやったら気づいてもらえるかに焦点が移りかけていた涼音としては、出来栄え如何はどうでもよかった。

 そうこうすること数十分。読み終えたらしい本を閉じ、ベッドに横たえた「れん」は、久方ぶりに口を開いた。


『なんだ』『まだいたの』


 無視していたわけではなく、存在自体が認識されていなかったのだということを再確認する涼音。「れん」の口調に字面ほどの棘はなくて、ただ理解したことを口にしているだけに思えた。


「うん」


 涼音は、素直な肯定を返す。「れん」に特段大きなアクションはなかったものの、相変わらず拒絶も許容もなく、『そう』と、温度のない言葉を放った。


「いちゃだめなの?」


 単純な疑問。ここは「れん」の部屋だから、嫌だと言われれば素直に出ていかねばならない。そのくらいの聞き訳は涼音にもある。ただ、横にちょこんと座した「れん」は、涼音の質問に対してどう答えようかと決めあぐねている様子で。


『僕は』『どっちでもいい』

 

 じゃあ、と涼音が身を乗り出しかけたのを遮るように、「れん」は続けた。


『ただ』『僕はたぶん』『君を嫌な気持ちにさせてしまうから』


 困ったような作り笑いに、ずっと変わらない平坦な喋り調子。伸びた前髪をもてあそびながら、「れん」の視線は窓の外に注がれている。


『最初からそうわかっているのに』『わざわざ付き合う意味もないと思う』


 このときばかりは鉄面皮に思われた「れん」の顔にも儚げのようなものが見て取れた。疲れたような諦めたような、そんな表情だった。それが子どもにとってふさわしくないものであることくらい、涼音にもわかる。けれど、どうしてそんな調子なのかはいつまで経ってもわからない。

 知りたい。幼少の知的好奇心がそう叫ぶ。なにがどうしてこうなっているのか、突き止めたい。そんな思いが頭の中をぐるぐる渦巻いた結果、涼音は――


「じゃあ、いやになったらかえる」


 さっきまでの話を聞いていなかったのかと、「れん」の眉が持ち上がった。ロジックとしては明らかに破綻していて、ツッコミどころしかない。ただ、当時の彼女にとって、それこそが自然な他人との関わり方だったから。


「……君、絶対おかしいよ」


 初めて、「れん」の言葉に人間らしい温かみがこもった気がした。運命の歯車というのが存在するのなら、それはまちがいなく、この瞬間に回り始めたのだと思う。

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