三章
第66話 とある昔話①
『抜け殻』という単語を理解しやすいよう人間に落とし込んだのが香月蓮だ。出会って間もないころ、花柳涼音は疑いなくそう思っていた。
一人娘が小学校に入学するという絶好のタイミングで、花柳家は念願だったマイホームの購入を決意。戸建てに手を出さなかったのは今後のフットワークを考えてのことだったが、後に振り返れば、その判断が家庭単位での大きな分岐点になっていた。当然ながら、そのときまだ幼稚園児だった涼音に大人が抱える事情はわからず、住み慣れたアパートを出ることや、近所に住んでいた仲良しの友達と離れ離れになるのが嫌で連日ゴネにゴネた。結局は自分の部屋をもらえるという甘いご褒美に折れたわけだが、転居に関してなんらポジティブなイメージを持ち合わせていなかったという事実は揺るがない。
「お隣に涼音と同い年の子が住んでるみたい」
家財道具の運び入れや隣人への挨拶を済ませた母親が言った。おそらく、通う小学校が同じになるだろうとも。これには涼音も興味を示し、「どんな子、どんな子?」と勢い強めに問い詰める。もしかしなくても、新しい友達を作る好機。これまでの友人と離れてしまう以上、次の仲良しを見つけないことには寂しくてやっていられない。涼音は一人でいるのが好きではなかったし、それゆえに幼稚園では誰かと常にくっついていた。そんな性格だったから、母からもたらされたその情報は福音以外のなにものでもなかった。
「礼儀正しくて、かわいい子だったわよね?」
「ああ、すごく大人びていたというか」
話を振られ、父親が加わる。なんでも訪ねたときにはたまたま家にその子しかいなかったらしく、なのに親の代わりにと粗品を受け取り、さらには「よろしかったらお茶でも」なんて言ってみせたらしい。さすがにそれは固辞したものの、その様子に花柳夫妻は大人物の片鱗を感じずにはいられなかった。
「そっか」
涼音は『かわいい』という形容詞から相手がどんな子なのかを考えた。それからしばらくは、遠くない邂逅を楽しみに、どうやって仲良くなろうか夢想する日々。好きなテレビ番組、好きな絵本、好きな洋服、話の種はたくさんある。それに、どんな子が相手だろうと友達になれるという確固たる自信があった。これまで友人作りに失敗したことなどなかったから、最後には絶対仲良くなれるはずだと信じていた。
そして時間は経過し、やってきた新生活初日。愛娘に最大級の驚きを届けるため、敢えてその日まで新居のお披露目はなし。その甲斐あってか、広い部屋と新しい家具に涼音は一通り新鮮な反応を示し、そしていよいよ一番楽しみだったお隣さんへの挨拶を父母にせがんだ。現代的な価値観からはズレるが、一家総出で顔見せしておくことでいざというときの助けになるかもという思惑が巡り、両親はこれを受諾。背伸びした涼音がインターホンのベルを鳴らすと、聞こえてきたのは大人の女性の声。ここの子の母親だろうなというのは涼音にもわかって、しばらく大人どうしのやり取りがあった後、鉄扉がゆっくり開いた。
「あ」
思わず、声が出た。玄関から繋がる一本道の先、目の前に立つ女性の何歩か後ろに誰かいる。涼音よりいくらか小さい背丈に、はっきりした顔立ち。肩に触れるくらいの後ろ髪を一つにくくった見るからに同世代の子が、母親にあたるだろう人物の背中をまっすぐ見つめている。その先にいる涼音たち一行に気付いているかどうかすらはっきりせず、視線の熱のなさ故か、両親の語った印象からはいささか離れているように感じた。想像していたよりもずっと抜けた人物に思える。
ただ、涼音があんまりぴょこぴょこ動き回るものだから、向こうもようやくこちらの存在を認識したらしい。だからといって特別な反応があるわけでもなく、目を合わせてからぺこりと一礼して、次の瞬間からは先ほどまでと同じ直立不動一点集中の体勢に戻った。
明らかに、今まで仲良くしてきた子たちとは毛色が異なる。大人っぽいというよりも、子どもらしくないと表現した方が的確なその様子を、当時の涼音は感覚的に理解した。未就学児のボキャブラリで言語化することこそ叶わなかったが、数メートル先に立っている人物が幼稚園でたまに見た集団からあぶれがちな子と同じなのはわかった。
刹那、涼音の視界に暗雲が立ち込める。ぜひお友達にと思ってやってきたはいいが、果たしてそれは可能なのだろうか。このままでは、独りぼっちになってしまいかねない。
「蓮、こっちにきてご挨拶」
レン。その響きを頭の中で反芻し、覚えたてのひらがなで手のひらに「れん」と書いてみる。三文字かかる自分よりも少なくて楽そうだ。
そんなことを考えている間に、当の「れん」はとことこと一定のペースで玄関口に近寄り、深々と頭を下げて言った。
『香月蓮です』『はじめまして』『よろしくお願いします』
これはこれはご丁寧に、よければウチの子と仲良くしてあげてね、腰を折って目線を下げた両親が語りかける。「れん」はそれに物怖じすることなく、はい、はい、と規則的に頷きを返していた。そのままなし崩しで一家全員でリビングに案内され、お茶やお菓子でのもてなしを受ける。しかし、すっかり自己紹介のタイミングを逸してしまった涼音は、ジュースが注がれたキャラ物のコップを握りながらどうしようどうしようと震えるしかなかった。このままではよくないという直感だけが、彼女の背中に重たくのしかかっていた。
そんなとき。
『そういえば』『名前』『まだ聞いてなかった』
救いの手は、後方から突如として差し伸べられた。リビングの壁にもたれながらテレビ番組を観ていた「れん」が、ふと思い立ったように涼音の背に立って聞いたのだ。
待ってました。ぐるりと振り向いた涼音は、少々早口に「はなやぎすずね」と言い慣れた七文字を口にする。ようやく言えてほっとするのも束の間、次の質問が「れん」から投げかけられた。
『字』『どう書くの?』
涼音は得意になって、「れん」の小さな手を引っ張る。「見ててね」と言い、その手のひらにひらがなで一文字ずつ自分の名前を書き込んでいく。ひらがなの読み書きが完璧にできる同年代の子はまだ多くなく、だから五十音を自在に扱えるのが涼音の自慢だった。
『ええと』『そうじゃなくて』
しかし、「れん」の顔は優れない。向かい合って書いたせいでわかりにくかったかなと訝る涼音だったが、問題はそこになかった。「れん」は目にかかった前髪をくるくるいじったあと、涼音の父親に向かって訊き直した。
『名前の漢字』『教えてもらえますか』
漢字? と父親は問い返す。そもそも当時の涼音は漢字という概念の存在を知らず、だから二人の会話の内容がこれっぽちもわからない。近くにあったチラシの裏にさらさらと書き流された『涼音』の二文字に見覚えこそあったものの、それが自身の名前であるとまでは理解できなかった。
『ああ』『綺麗な名前だ』
「れん」は一人得心したのか、数回首を縦に振ったきり動かなくなった。マイペースさを競う大会がああったら二位以下に圧倒的大差をつけて優勝してしまうような、あまりにも自由なふるまいだった。
しかしながら、涼音が抱いた感触は決して悪いものではなく。なにやら褒められたらしいという事実だけは飲みこめたので、どこか上機嫌に両脚をばたばた遊ばせ、そして行儀の悪さを両親に諫められた。それを見た「れん」は泣くでも笑うでもなく、ただ静かに佇み続けている。こちらに興味があるのかないのかは判然としなくて、けれど涼音の中には、既に関心が沸き起こっていた。目の前にいる捉えどころのない子を、もう少し知りたい。理解したい。そんな思いがあふれ出て、言葉になった。
「いっしょにおはなししよ?」
どんなものが好きで、どんなものが嫌いで、どんな風に考えて、どんな風に思うのか。それを徐々に知っていけたら、素敵だ。そしたらきっと、一番の友達になれる。
その歩み寄りを受けて、「れん」はにこやかに答えた。
『いや』『僕はいいかな』
それが、二人の出会い。今に連なる記憶は、順風満帆とは行き難い一幕から始まった。
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