第64話 戦果報告

 コール音の総数は七回だった。正確には、七回目の半ばでそれは途切れ、代わりに聞き慣れたソプラノボイスの割り込みが入った。


『香月くん?』

「ああごめん、ダメもとでかけてみたらつながってちょい困惑してる」


 現在時刻は夜の八時前。夕食を食べ、シャワーを浴び、ものは試しだと芦屋へかけた電話に応答があった。コール音の総数が十を越えたらかけ直すつもりで、九割九分そうなるだろうと高をくくっていたのもあり、こちらから連絡したにもかかわらず話し出しを考えていない。


「突然で悪い。今、大丈夫?」

『問題ないわ。……待って、少し体勢を整え直すから』

「体勢とは?」

『防水とはいえ、スマホを湯船に沈めて挙動を確認したことはないから、念のため』

「……かけ直す」

『私が構っていないのに、香月くんが反応するのもおかしな話でしょう。裸体の想像ならどうぞお好きに』

「まーたそういうこと……。てか、ちょっと意外だ」

『…………?』


 よくよく耳を澄ませば、芦屋の声が反響しているのがわかる。絶賛入浴中の女の子と電話する機会はもちろん初めてで、なんというか、調子が狂う……。そもそも向こうも僕を狂わせようとしているのは明らかで、わざとしく水がちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ鳴っている。


「いや、芦屋も風呂でスマホいじったりするんだなと思って」

『行儀が悪いってこと?』

「そこまでは言わない。僕もたまにやるしな。ただ、君はそのあたりのしつけをかなりしっかりされてそうなイメージがあったから」

『そういう方針で育てられていた時期もあったにはあったけど、反動で兄がやんちゃになってしまって。それからはある程度自由ね』

「そういや兄貴いるって言ってたっけ。……人の成長の指向性を定めるのは簡単じゃないからなぁ。かと言って、放任し過ぎても僕みたいなのが生まれるから困りものだ」


 うちの両親は、別に僕に無関心というわけではない。ただ、価値観も倫理観も己のやり方で養うのを是としているらしく、よほどのことでもないと口を挟まれたりはしない。是々非々だろうが、個人的に一番生きやすいスタイルなので、親には感謝している。


「……脱線したな。君がのぼせたら困るし、本題に移っても?」

『氏家さんをどうやって説得したかについて、でしたっけ』

「そう、それ。正直、僕が彼女に悪感情を抱かれていなかったと仮定しても、そう易々と引っ張り出せるとは思えないんだよな。サッカー部のマネージャーまでやっている彼女が、自らの意思で観戦も応援もすっぽかしてたわけだろ? それを短時間で心変わりさせる方法が、僕には思いつかない」

『確かに、香月くんには無理かも。……いえ、香月くんというか、男の子にはできない方法だったわね』

「ええ……怖いんだけど。いきなり人類の約半数が実行不可能って。……それ、レーティング大丈夫か? 全年齢にお出しできる?」

『もちろん。……まあ、香月くんが考えているのと別ベクトルの恥ずかしさはあるけど』

「……と、言いますと」

『簡単よ』


 ちゃぷん、とひときわ大きな水音が聞こえた。――立ち上がったのだと理解するのと、それによって彼女がどんなあられもない姿になっているか想像してしまったのが同タイミング。黙れ、座っていろ思春期。……そう抑えつけようにも、思い浮かべた情景はなかなか頭から消えてくれない。

 狙ったのか、たまたまか。それは彼女のみぞ知ること。……ただ、今に限っては僕を茶化すでもからかうでももてあそぶでもなく、当時の状況を再現するかのように、芦屋は力強い声音で。


『男子がかっこつけようとしているのだから、それを見届けるのが女子の責務よ』


 よく通る、綺麗な声だ。……確かに、再演しろと言われたら羞恥心を伴う。ただそれだけに、正面切って言われたときの威力は絶大だろう。大見得を切ってたじろがせ、そのままなし崩しで氏家の腕を引っ張る芦屋の姿を想像するのは簡単だった。

 つくづく、頭が上がらない。僕が中途半端な心構えでしたお願いに見合うような労力じゃないだろう、それは。


「かっこいいなマジで」

『女子的に、言われてうれしいのはそれとよく似た違う言葉なんだけど』

「かっこいいしかわいいよ。学校中探したって、君を越えるような器量の女子はそうそう見つからない」

『……そこで安易に私が一番だと言わないところに、誰かへの配慮を感じる』

「主に君への配慮だよ。嫌いって言ったろ、嘘」

『こういうときくらいは機転を利かせて建前扱いにするもの』

「なんだめっちゃ都合いいなそれ」

『都合のいい女を目指しているから』

「目指すなそんなもん。……まあ、とにかく感謝だ。感謝しかない。僕にできる範囲……というとどうしても陳腐になるけど、よっぽど無理なお願いじゃなければなんでも言ってくれ。全力でなんとかするから」

『どこかで土日まとめて二人で遊び歩いても?』

「いいよ」

『ちょっとした旅行になっても?』

「あくまで学生の範囲なら」

『お泊まりは?』

「さすがにそれは僕が君の親御さんに殺されるからなし」

『…………』

「おっ、今必死に抜け道探してんな」


 優秀な脳みその使いどころをまちがっている気もするが、今日ばかりは咎めまい。僕はそれをできる立場にない。

 まあ、ちょっと遊ぶくらいで済ませてくれると言うのならなんとも良心的だ。彼女のことだからきっと、僕でも頑張れば実現可能なラインで最終調整してくれるに決まっていて、そこに不安はなかった。万事お任せで行こう。


『……ああ、そう。及川くんとは?』

 

 急に話が変わって驚く。そういえば、僕側の顛末を語っていなかったのを思い出した。


「上手くいった……と思いたいな。少なくともあいつに関しては、行きつくとこに行きついて、帰るべきとこに帰るんじゃないかって気がする。たまたま偶然、全部が上手くいった感じだ。もう一回同じことを繰り返せって言われても、正直絶対無理だけど」

『ならよかった。時の運を味方につけた香月くんの勝利ね』

「後先考えてないギャンブルだったんだが、そう言い換えてもらえるとこっちも気が楽だ。君の協力なしにどうこうできることじゃなかったから、重ねて感謝。……ほんと、ありがとな」

『お礼をもらう算段なんだから、そんなにかしこまらなくていいのよ。――それに』


 芦屋の声のトーンが一つ落ちる。なにごとかと耳を澄ます中、彼女は。


『私、あなたが思っているほど良い人じゃないのよ?』

「またまた」

『少なくとも、香月くんと比べればよっぽど……」


 芦屋は途中まで言いかけて。


『……いえ、今のはなかったことに。ダメね。ちょっと悪だくみするとこれだもの』

「君の悪だくみについてはよく知らないけど、思い悩めるってことは一定の人間性が養われている証左なんじゃないのか?」

『……本当、ものは言いようね』


 くすくすという笑い声にエコーがかかる。こちらも一緒に笑えればよかったのだが、全身を襲う筋肉痛のせいでそんなことをしようものなら腹筋が死んでしまう。「愉快だな」と言うだけに留め、体重を椅子の背もたれに預け直す。


『でも、驚いた。電話するなら、もっと遅い時間だと思っていたから』

「どうして?」

『だって、花柳さんが帰ってからでないと時間が取れないでしょう? まさか、現在彼女も入浴中ってこと?』

「そんな間男じみたことしねえよ……。でも、そうだな。そこは、僕もちょっとよくわかっていなくて」


 帰宅し、どこへともなく「ただいまー」と言ったら、珍しく「お帰り」が返ってきた。ぎょっとするとキッチンには母親が立っていて、「すずは?」と問おうものなら「すずちゃんなら今日は来てないみたいだけど?」ととぼけ顔。まあこんな日もあるかと、いつかひょっこり現れるのを待っていたのに、結局今まで姿は見えない。


「向こうも向こうでお疲れかな。今頃部屋で眠ってたりして」

『……いないの?』

「ああ。いないし、来てない。なかなか珍しいことだな」

『……………………それは』


 深刻そうに芦屋は言う。なにか知っているのかと聞こうとする僕より早く、『ねえ、香月くん』と名を呼ばれ。


『一応、見に行ってあげた方がいいかも。……ううん、見に行ってあげて?』

「……まあ、君の願いとあらば謹んで。あいつの心配って、これもこれで珍しいな」

『……ええ、まあ』


 歯切れが悪い。なにか思うところがあるのかもしれない。ただ、聞くのはすずに会ってからでも構わないだろうと考え。


「長話になっても悪いし、ここで切るよ。湯冷めしないようにな」

『……ありがとう』


 ぷつりと通話が終了し、そのままスマホをベッドに投げる。


 どうしてか、明るい話題だったはずなのに、僕の胸中にはなにか暗澹たるものが渦巻き始めていた。

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