第53話 大きな小者


「だそうよ、花柳さん」


 蓮が今しがた立ち去った旧図書室で、みやびは瞑目しながら呟く。独り言にしてはいささか余る声量。そうである以上、誰かに向けた発言ということになる。

 

「気づいてたなら言ってよ……」


 書庫の影から姿を現したのは、前髪で目元を覆った高身長の女子生徒。花柳さんと呼ばれた彼女はおびえたように周囲をきょろきょろ見回し、他に誰もいないことを念入りに確認してから、戸惑いがちにみやびの傍に腰を下ろした。


「言ったら言ったで面倒だったでしょうに」

「それは……そうかもだけど」


 涼音は上半身を前後に揺らしながら、しかしそれとこれとは別問題だとでも言いたげにうんうん唸る。確かに先ほどの会話の最中に乱入してなにができたとも思えないが、だからといって一定以上に親密な姿を見せられるのは耐えがたい。せめて心の折り合いをつけようと、涼音は蓮がタッチしていったみやびの肩を手のひらでべったり拭った。


「その行為になんの意味が……?」

「上書き」

「幼稚って言われたことは?」

「たくさん」


 まあ、これくらいは軽いジャブだ。もとより仲良しこよしというわけでもない。

 一息ついて、今度はみやびの番だった。


「どうして近くにいたのにこそこそと?」

「……エネルギー切れの蓮に話しかけるかどうか悩んでたら、後ろから人の気配がして咄嗟に」

「それが私と……。でも、おかしいじゃない。話すかどうかに頭を悩ませるような仲?」

「家と学校じゃ全然勝手が違うし。……それに、蓮が最近変なのもわかってたから」


 長い付き合いになる。おそらく自分が一番蓮を知っているという自負もある。……だからこそ、涼音の目にはこの頃の蓮の行動が奇異に映って。


「帰り遅いし、早寝早起きになってるし、ご飯いっぱい食べるし」

「さりげなくマウントを取ってない?」

「取ってないとは言わない。……でも、変なのはまちがいないもん。全身汗だくのふらふらで帰ってきた日から、人が変わったみたいになっちゃって……」

「汗だくの香月くん?」

「変なとこで反応しないでいいから。……とにかく、蓮はここ最近ずっとなにかに迫られてるみたいで、でも聞いても教えてくれなくて」


 一体なにをするために早起きしていたかは、腹の裡を探ろうとそれ以上の早起きで確かめたから知っている。まだ日も昇り切らないくらいの時間に、蓮はマンション付近をぐるぐるランニングしていた。一定のペースで、体を慣らすように。アスリートのように淡々と、時間が許す限りに。


「芦屋さんは聞いてない? 蓮にどんな心境の変化があったのか」

「うっすらとは」

「…………」

「なぜ質問に答えてあげた私が、むっとした目で見られなければならないのかしら?」

「そんな優越感たっぷりの顔で言われたら誰だってそうなるでしょ!」

「まあ確かに。香月くんは。付き合いの長いあなたにではなく。私を選んで。伝えてくれたわけだけど」

「~~~~~~~~!!!」


 焦らすように、煽るように、一節一節強調しながら話すみやび。そんなこれ以上なく安い挑発にも、涼音は軽々引っかかる。地団太を踏んで、目の端に涙をためて、しかし言い返す言葉は出ないまま、威圧感の欠片もない睨みをきかせ続ける。

 根が善良なせいもあって、いよいよみやびもこの状況に耐えられなくなってきた。はぁ、と小さく息を吐いてから、彼女は涼音に救いの手を差し伸べる。


「自分のため。……香月くんはそう言っていたわよ」

「……自分のため」


 引っかかるところが多いのか、涼音は何度ももごもご「自分のため……自分のため……」と反芻し、そのたびに首を傾げた。基本的にのんびりすることが好きで、できることなら努力と縁遠いところにいたいと言っていて、艱難辛苦への基本姿勢が逃げの一手である蓮。……けれど、逃げられないところではどうしようもないくらいに体を張って身を削る蓮。そんな彼が言う自分のためとは、一体なにか。思案しようにも答えは見えず、涼音は途方に暮れる。


「……自分のため、ね」

「え?」

「こちらの話」


 涼音のあずかり知らないことだ。少なくともみやびは、先日に彼が告げたその発言が虚勢や方便の類であることを看破している。本心を覆い隠すための見え透いた隠れ蓑であることを知っている。……ただ、この場では彼の顔を立てて、そこまでは口にしなかった。もっとも、彼女視点、蓮が言葉を捻って捩ってこねくり回してまで遂げたい思いがどういったものであるか、薄ぼんやり理解できているからというのもあるにはあるが。というか、彼が無理を通すとしたらそれが自分本位の思いからくるものではないことくらい、少し考えればわかりそうなものだけれど。――しかし、塩を送り過ぎてもなんら己の特にはならない。それを踏まえて、みやびは言った。


「花柳さんはさもツーカーだとか阿吽の呼吸であるとかいう風にふるまっているけど……一番肝心なところで歯車が噛み合ってないわよね?」

「よくわかんないけど挑発よねそれ?」


 オンラインゲーマーとしての血が、煽りに対してあまりに俊敏な反応を見せた。表情と声のトーンだけで相手方の感情を推察し、次こそは言葉尻でもなんでも捉えて反撃してやろうと身構えて。


「……なんというか、最高にぎこちなくて、最上に愛らしい」

「憐れみ……?」


 一切毒気なく繰り出されたみやびの言葉に、涼音の牙もすっかり抜かれる。はるか高みから寸評されているようで癪なことには変わりないが、ここで騒ごうにも暴れようにも、全て相手の手のひらの上な気がしてしまってよろしくない。ここはひとつ大人の対応で矛を収め、お上品に座り直してみる。


「まあ、私たちのキャットファイトを長引かせるだけ時間の無駄でしょう。……それに、あなたにしか聞けないこともあるし」

「わたしにしか……?」

「そう、あなたにしか」


 みやびは頷き、拳で体を浮かせて涼音と向かい合う姿勢を取る。


「香月くんって、結局何者なの? いくら参加者がほとんど素人のお遊戯的な大会とはいえ、二試合で七ゴールという数字がおかしいことくらい私にもわかる」

「七……?」

「知らなかったの? 香月くん、現在進行形で八面六臂の大活躍中よ?」


 蓮がサッカーに参加することは知っていた。彼がなにやら噂になっていることも理解していて、しかしそれは素人にしては~くらいのものだとばかりに高をくくっていた。

 しかし、聞いた限りでは、いくらなんでもやり過ぎで……。そこに最近の奇行が関係している確率は疑う余地のない百パーセントで……。


「香月くんの経歴、教えてもらえる?」

「…………」


 極力、触れないようにしてきた過去。他人どころか当人どうしでも語らないことが半ば不文律と化していた過去。……それを口にするのであれば、当然言葉を選ぶ必要性が生まれてきて。


「――あいつは」


 ここで押し黙る選択肢が浮かばなかったのは……もしかすると、涼音の中で本人にも知られず芽吹いていた同族意識ゆえかもしれなかった。


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