第36話 夜話
「しかし良いな猫。僕も将来的に何匹か飼いたい」
『香月くんのお宅はペット不可?』
「母親が猫アレルギー」
『まあ、既にいるものね。手のかかる可愛らしい生き物が』
「僕が倒錯した趣味を持っているみたいに聞こえるからやめてくれないか?」
零時を回った。なおも調子よく会話は続き、明日も学校だという事実など忘れそうになる。僕は夜型人間だから問題ないが、芦屋のことを思えば切り上げどきは考えねばならない。
『実際、ほとんど猫のようなものでしょう? 温かい。柔らかい。可愛い。喋る』
「猫は喋らない」
『ここだけの話なのだけど、猫って喋るの』
芦屋の「ねー?」という上がり調子の声が聴こえ、少し遅れて「みゃー」と鳴き声。次いで『ね?』と電話越しにもわかるどや顔で問われる。
「猫飼いは皆親バカになることがはっきりとわかった」
『うちの子は特に賢いの』
「それもみんな言う。いいよ、僕は知ってる。各家の猫がそれぞれに最強なんだって」
『違うの。香月くんだって実際会ってみれば評価を改めるに決まっているから』
「そうやってさらりと僕を君の家へ誘導する手なら食わないぞ」
『いえ、これは本当に打算抜き。花柳さんを連れてきてもらっても良い』
「マジなやつじゃん……」
それならまあ、良いか。猫好きだし。すずも小動物の画像フォルダをスマホに作るような奴だし。いつになるかわからないが、遊びの予定はいくつあっても良い。あればあるだけ、必然的に人間関係が長引く。長引かせたいと思える相手となら、積極的に実現不可能な予定を組むべきだ。
「じゃあ、いつかお邪魔するよ。猫に会いに」
『名目の上でもいいから、そこは私に会いに来て欲しい』
「気が向いたらな」
『……香月くん、最近どんどん私への扱いが蔑ろになってきてない?』
「良い兆候だろ」
こうして会話していても、さして緊張しない。同級生の美少女と深夜にマンツーマンで通話なんて本来であれば心臓破裂もののイベントだが、僕はいたって自然体。向こうがいつなにを言い出すかわからないという緊張感はあるが、芦屋みやびそのものに対する態度には、もう過不足がなくなった。
『友人止まりならそれで構わないのでしょうけど……』
「僕は止まっておくことを常々推奨しているが」
『でも、それじゃあいつまで経っても放課後おうちデートができない』
「……君、そこらへん結構ロマンチストだよな。でも、自宅デートなんて特に面白みもないだろ」
『面白みのなさすら甘酸っぱい思い出に昇華するのが思春期カップルじゃない。肩を寄せ合ってお話して、ゲームをして、気だるいままに何時間もだらだら過ごす』
「…………」
『あなたは今、毎日似たようなことしてるなぁ、と思ったわね?』
「……思ってない。断じて」
『でも、カップルはその先に特権がある。いつどんなタイミングで唇を触れ合わせるかのせめぎ合い』
「結局そこに持っていくのか……」
『下着は脱ぐのか脱がせるのか。靴下は履いたままにすべきか否か』
「下着と靴下を同格に据えるあたりに君のこだわりがちらちら垣間見えてるぞ」
性癖のモンタージュだ。彼女との会話の断片を収集することで、一度も肉体関係を持っていないのに性的嗜好の全てを理解することも可能。今日は、靴下に対する強い執着を知った。集めても仕方ないから、明日には忘れるけれど。
『……香月くん、もう少し動揺してみない?』
「初めて聞くタイプの提案だ」
『仮にも私たちはキスをした間柄じゃない。踏み込んだ話題はその下地のもとで確固たる実体を持って、香月くんの若く荒々しい妄想力を掻き立てなくてはダメなの』
「ほう」
『私の口許を見るたびにドキドキして、思わず目を逸らすのが通常の反応なの』
「なるほど」
『絵にかいたような生返事』
「いや、友人を使ってエロい妄想をするのは男子の間ではご法度とされていてな。放火と同じかそれ以上の刑罰が下ることになってるんだよ」
『……火付けって、下手をすると極刑よね。それ以上?』
「あるだろ。死より辛いこと。完全に拘束された状態で黒歴史の詰まった昔のノートを読まれるとか、苦労して手に入れた買戻し不可の限定グッズを片っ端から破壊されるとか」
『死んだ方がマシね』
「なー?」
共通の感覚のようで助かる。なんでかんで根っこの感性はだいぶ似通っているのだと、久々に思い出した。
睡眠が深くなってきたのか体からすっかり力が抜けてふにゃふにゃになったすずを長座状態の太もも上に転がして、会話続行。
『でも、当人の許可があるなら話は別じゃない?』
「そんな許可を出すな」
『香月くんに限り、私でどんなハードな妄想をするのも許可します』
「僕の性癖は極めてソフトで一般的なんだが。勝手に鬼畜設定にしないでくれ」
『純愛しかダメなタイプ?』
「イカれた質問だなあ……」
『ちなみに私は略奪愛に燃える方。NTRにはNTRだけの魅力があってね――』
「それ以上聞きたくないんだが?」
『NTRが成立するってことは、カップル間に亀裂や不和があることの証左なの。むしろ、正しい方へ導く教育的指導の側面すらあると思わない?』
「あー狂いそう。脳が破壊される……」
『でも、実は最初のカップルは女が男の財産を狙っていて、後から来た女の子は過去に男の子と結婚の約束をしていたとしたら……?』
「脳が再生していく……」
絶対に女の子としていい会話ではないのだが、向こうからネタを振ってくるのだから仕方ない。そんな大義名分を掲げ、僕はちょっと前に「ネタ振り……ネッタフリックス」とクソほどつまらないダジャレを披露して、「……それをこれからも続けるなら、悲しいけどわたしはあんたと縁を切る」とすずに冷たく告げられた過去を思い出して一人で勝手に傷を広げた。話の本筋にまったく関係ないことを考えてしまうのは、今が深夜だからなのだろう。
「でも、それって商業的なNTRの定義と路線からは逸れるだろ。言うなればNTR風純愛じゃん。本物のNTR厨は、もっと胸糞悪くて救いのない話を好むイメージだ」
『だからこその略奪愛よ。奪っているとはいえ、愛は確かにあるの』
「ご都合だなぁ」
『いいとこ取りをしたいのが人間の本懐よ』
「この話から人間の本質に迫りたくない」
腕が疲れてきたので、いい加減にスマホを持ち替える。すずが離してくれて助かった。スピーカーにしてしまえばもっと楽だが、もしも誰かに聞かれたらと思うと恐ろしくてとても無理。
『話は脱線してしまったけど、結局のところ、私は香月くんの慰み者にされたいの』
「それ最悪の破滅願望だって理解してくれよ? 僕が助けられる範囲には限度があるぞ」
『いえ、こんなことを許すのはあなただけだから……』
「美少女、あなただけ、って最強のコンビネーションが、なぜだかまるでうれしくない」
『……香月くん、私の容姿への評価高めじゃない?』
「じゃあ聞くが、君、鏡の前に立つことへの抵抗感はあるか?」
『…………?』
「それはない者の反応だ。つまり、容姿に関するコンプレックスを抱えていない」
『……香月くんはあるの?』
「それなりに。寝不足だと死人みたいになるし。……まあ、それがないってこと自体が、君の容姿が優れていることの証明になるわけだ」
「それと香月くんが思うのとはまた別問題」
『うん。完全に理論付けをミスった」
芦屋は「そう……。そっか」と何度か電話越しに頷く気配を見せて。
『香月くんから見て、私は美少女と』
「……まあ、否定しようがない。みんな言ってる。僕もその尻馬に乗る」
『なら、当然エッチな目で見ることも可能、と』
「存在しない=を召喚するな」
『アンフェアでしょう。私はあなたを性的な目で見ているのに』
「聞きたくねぇ告白~」
『いつも夢でなにをされているか聞きたい?』
「聞きたくない。だって僕が苦しむだけだから」
『人差し指の第二関節を――』
「あらぬ方向に曲げてへし折ったんだな。はい、この話終わり」
芦屋はその後も続けたが、一緒にいるときとは違って自分から聞かないように調整可能なので、僕はスピーカーを限界まで自分から離した。まだサイコ暴力野郎で終わらせた方がマシだ。
「ブレないなぁ、君は」
感心しながら呟く。これほどまでに姿勢を一貫できるのは才能だ。
「強かというか、強心臓というか」
『どうあれ、香月くんは話を拾ってくれるから』
「そこが僕の甘さなんだろうな……」
一度身内認定したら態度が激甘になる。人でも殺さない限り、僕は芦屋を優遇するし特別扱いを惜しまない。趣味の合う人間、話の合う人間というのは、それだけやって保護する価値がある。僕の一本調子な喋りは冷たい印象を与えることが多いから、それに屈しないというだけで貴重だ。
「僕らの会話、どんどんキャッチボールからは遠のいている気がしないでもないが」
『じゃあなに?』
「先行逃げ切りの一方的ぶつけ合い。競技としてはドッジボールに該当する」
『外野送りを目論んだボールを強引にキャッチしていると?』
「そうだな。ドッジって確か回避を意味する単語だったはずなんだけど」
相手がどこまで対応できるか試し合っている感じがする。限界を探って、ギリギリを攻める。それについてきてしまうものだから次回はさらに過激化するというループ。会話というよりは応酬に近い。
「……まあ、助かるよ。君と話している間は、他のことにリソース割く余裕がなくなるから」
『それ、いいこと?』
「悩みごとがあるとな。考え過ぎる性格だから、こうやって物理的にシャットしてもらえるのはありがたい」
『……及川くん?』
「ああ、まあ」
実を言うと、芦屋は僕のことを慮って通話してくれたのではないかと睨んでいる。慣れないものを見たせいで、昼間はすっかり魂が抜け落ちてしまっていたから。しかし竜也の名前を出そうものなら僕の思考が良くない方向に加速するのを予見して、肩の力を抜ける話題を提供してくれた。……さすがに訝りすぎだろうか。
『……訳アリ、かしら』
「だろうね。竜也の女性遍歴は知らないけど、たぶんどこかで引っかかってるな。あの女子、氏家さんって
言うんだけど、僕らと中学校同じなんだよ」
『それはまた』
「竜也と直接話しているところは見たことないけど、昨日今日の関わりって感じでもなさそうだったし……」
氏家繭香のことはほとんど知らない。それでも顔と名前を覚えていたのは、中学校入学当初に部活動へ勧誘されたから。サッカー部のマネージャーだった彼女は、ところかまわず手当たり次第に新入部員の獲得へ励んでいた。実際、氏家狙いで入部した奴も何人かいたから、やり方に誤りはなかったのだろう。
そして、僕はもう一つだけ決定的な情報を手に握っている。
『及川くんって、熱くなるのを忌避するタイプだとばかり思っていたの』
「……わかるよ。あいつ、めちゃくちゃ器用で、やればなんでもできちゃうから。けど、なんでもかんでも本気になると、元からその場で頑張っていた連中が絶望するだろ? そうやって蹴落とすのを、好ましく思えない性格なんだろうな」
『天才の苦悩』
「そう呼ぶにふさわしいな」
一度、聞いたことがある。本気でやって、その上で敗北を経験したことがあるかと。彼は苦笑いをまじえつつ、こう答えた。「ないかもね」それから、こうも言った。「だから、かえって真剣になるのが怖いのもあるかな。なんでもできてきた人生だったのに、本気でやって負けたら致命的な挫折になりそうで」
持っている側の思考だなぁとため息をついた。当時の僕は中学一年生。竜也と仲良くなって数か月が経った、秋の電車内。彼に連れられて目的地のない小旅行に出かけた旅路でのこと。
「世渡りの上手さで言えば、君にも通ずるところがある。何度となく、似ていると思った」
『そう?』
「ただ致命的に違うのは、君は合わせていて、あいつは折れているって点だな。能力の高い人間は総じて強い芯と我を持っているものだけど、竜也にはそれを感じない。志は簡単に曲げるし、それをなんとも思っていない節がある」
『言い方は悪いけど、風見鶏的思考ということ?』
「なら僕なんかと関わるかよ。あいつの人生において、僕はノイズ以外のなにものでもないぞ」
『変わり者?』
「そうなる。およそこちらにはうかがい知れない特殊な基準があって、それに基づいて行動してるんだろうな」
僕はどういうわけか、その選考基準を突破した。自惚れの面が大きくなるが、おそらくここ数年で竜也と一番関わっている同性は僕だ。……だからこそ、その僕でも見通せない部分の多さに、彼のミステリアスさは集約される。
「……うん、わからん。わかろうとすること自体、おこがましいのかもしれないけど」
『香月くんは、及川くんを理解したいの?』
「ああ。これからも長く付き合っていきたいと思う割に、僕は竜也のこと全然知らないから」
『なら、踏み込むべきよ。少なくとも、そうするだけの権利が香月くんにはある』
さすが現在進行形で僕のテリトリーに侵攻中の人間だけある。言葉の重みが段違い。
『与えるだけの関係も、与えられるだけの関係も、社会にはある。それもまた一つの様式なんでしょうけど、友人と呼ぶには機能不全』
「相互作用あってこそ、か」
『ええ。友達付き合いって、インタラクティブなものじゃない』
「……だよな」
僕と竜也の間に、大きな貸し借りはない。ただ、これは累計差し引きでゼロに近付いているわけではなく、過去にそれほど踏み入らなかっただけ。貸すのを恐れ、借りるのを恐れた。おっかなびっくりの付き合いの果て。
しかし、そんな表面だけなぞるような関係は、ついに終焉を迎えた。竜也はこれまで触れてこなかった僕とすずの間柄に触れ、僕は竜也の思考の一部に触れた。ならば、ブレイクスルーは今ここ、この瞬間。
「……踏ん切りついた。やるだけやってみる」
『うん、私もそれが良いと思う』
「悪いな、こんな夜中にいきなり真面目な話して」
『構わないけど、そう思うなら正しい言葉は悪いなではないわね』
「……ありがとな。助かった」
『ええ、どういたしまして』
狭苦しい場所でなんとか寝返りを打とうともがくすずの鼻を摘まみつつ、「今日にでも話してみる」と退路を断つ。早い方が良い。圧力鍋みたいに、機を逃してはならない。
『うち、来てね。いつでも構わないから』
「ああ、行くよ。夏休みも冬休みも、僕らにはとにかく時間があるんだ」
青春の彩り方は人それぞれ。その中で、僕は他人と関わる道を選ぶ。いばらの道かもしれないが、そのぶんだけリターンも多い。
『約束ね』
「ああ、約束」
こればかりは茶化すことも笑うこともなく、僕は空いている小指を一本、なんとなく立てた。向こうもそうしていると良いなと、気持ち悪いことを考えながら。
結局、僕も芦屋も寝落ちすることはなかった。一時を迎え、彼女が『そろそろ寝なくちゃ』と言うまで、延々だらだらと話し続けた。
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