第22話 芦屋みやびだった理由。

 数分間続いて、そのうえこれからもずっと続いていきそうにすら思えた沈黙を破ったのは、みやびの一言だった。


「信用されてるのね」

「…………」

「財布を躊躇なく渡せるってそういうことでしょう?」


 蓮が連れ去られてから硬直しっぱなしの涼音は、どうにかキャッチしてそれっきりの二つ折り財布を握りしめ、「えと……」とか「あの……」とか口をもごもごさせて、最終的になにも言えない自分の情けなさを恥じて俯く。

 数年前を境に、こうなってしまった。誰かからの視線や注目を感じると動悸がして、呼吸も苦しくなる。平衡感覚が失われて足場がぐにゃりと歪み、全身がぐつぐつと沸騰するような熱を持つ。

 本当は、まっすぐ前を見て、自分の言葉で話したい。しかしその意に反して、涼音の体は彼女の自由を阻害する。


「……慣れ、てる、から」


 ようやく途切れ途切れに発した言葉には覇気の欠片もなく、小さく掠れて聴きとれるかどうかも怪しい。けれど、彼女にできる精いっぱいがこれだった。首を縦か横に振って肯定か否定かだけを表していた時期に比べれば、よほどマシになったとすら言える。

 蓮を介せば会話できた相手にも、彼がいなくなればこの体たらく。いつも頼っている背中が近くにないというだけで、彼女は酷く孤独な、世界に独りぼっちで取り残されてしまったかのような錯覚に陥る。無論、そんなわけではないと頭では理解している。けれど体の方はその理解に追いつけなくて、次第に肉体には震えや痺れの症状が現れ始めていた。

 やっぱり無理だ。涼音はそう思う。変わりたいと願っても、どれだけ努力をしてみても、最後には体がついてこない。誰でもできる単純なことができない自分が酷く惨めで、涙が出そうになる。彼女ならもしかしてという思惑のもと蓮はみやびを連れてきて、実際過去にないほど違和感なく話せはした。しかし、それはあくまで連の庇護下にあるという条件があってこそ。それが失われれば、自分はこんなにも脆い。

 

 人に見られるのが嫌だ。そう思って、怯える自分を見られるのが嫌だ。そんな自分を憐れむ誰かを見るのが嫌だ。悪循環。最悪のループ。長らく抜け出せていない、無限に続く螺旋。断ち切りたくても断ち切れなくて、ずるずる今まで抱え込んだ負の遺産。


「…………」


 変わらず俯いたまま、倒れそうになるのをぐっと堪える。出先で体調を崩したら蓮の手を煩わせることになるのは明白で、それは涼音の望むところではなかった。いつまでも彼におんぶにだっこでは駄目だと思って、今日まで必死に歯を食いしばってきた。

 だから、死にたくなるような苦痛をどうにか退け、顔を上げる。その先に自分がもっとも忌み嫌う、困惑したような、それでいて嘲笑うような、最悪の表情が待ち構えていることを想像しながら……。


 しかし。

 

「……えっ」


 現実はそうならなくて。


 そもそも物理的に、目と目が合わないようにされていて。


「見たくないものを見てどうするの」


 みやびの声は、ごく当たり前の常識を説いているかのようだった。人に会ったら挨拶しろとか、ご飯の前にはいただきますを言えとか、そういうのと同列の。

 彼女は片手で涼音の目を塞いだ状態で、続けた。


「あなたの友人は、逃げや諦めを否定するような狭量な人間じゃないでしょうに」

「…………」


 それは、そうだ。涼音は過去に授けられた蓮からの励ましを思い出す。いわく『頑張らなくていい。ダメだと思ったらすぐに引き返していい。無茶して壊れるのに比べたら、逃げたり諦めたりする方がよほど建設的だ』そして極めつけに『でも、生きるのだけはやめるな。辛くても苦しくても、人生に見切りをつけることだけはするな。僕はお前の苦痛の一割も理解できないし、一分も背負えない路傍の石ころだけど、それでもお前の存在だけはなにがあろうと肯定してやるから』


 裏を返せば「お前にはなにひとつ期待していない」と言っているのと同じ。けれど涼音は、その決して器用とは言えない優しさに救われた。誰に投げかけられた美辞麗句よりずっと心に沁みて、心がいくらか軽くなった。


 だから。……だから。


「…………ふぇぇ」

「え、いや、ちょっと。私、泣かせるつもりは……」

「わたしより蓮に詳しくならないでよぉ……」

「えぇ……」

 

 一瞬でも、蓮に対する己の理解度が誰かに劣ったことが許せなかった。彼を理解するのは、自分だけの特権だと本気で思っていた。

 困惑するみやびを尻目に涼音はさめざめと涙を流し続け、一段落して冷静になったところで、ふと振り返った。


 蓮以外の人間を前にして泣くのは、いつぶりだったっけ。




********************




「落ち着いた?」

「……うん、ありがとう」


 涼音は、みやびに導かれるまま近くにあったベンチに腰かけると、これまたみやびから渡された上等そうなハンカチで目元を拭った。こういうとき、前髪が長いと助かる。腫れぼったくなった目の周りを、誰にも見られずに済むから。


「……蓮ありきだけど、芦屋さんと話せた理由がなんとなくわかった気がする」


 体の震えも熱っぽさももうない。何年ぶりかのフラットな状態で、身内以外の人間と話せている。そのことについての驚きは既になかった。自己分析が完了していた。


「理由?」

「蓮の良さをわかってくれるのが、妙に誇らしかったから」


 辛うじて竜也と話せるのも、その点が大きいのではないかと涼音は考察する。自身の理解者である蓮を理解している相手。それは、間接的に自分のことも認めてもらっているようで。……もちろん現実にそんなことはないのだけれど、接するときの心理的なハードルがいくらか低くなるのには違いなかった。


「それ、なに目線?」

 

 みやびから問われ、涼音ははたと考える。これは、物事をどの立ち位置で眺めている人間の言葉なのだろうか。

 数秒頭を動かした末に彼女が出した答えは、こう。


「一番近くであいつを見てきた人目線」


 聞いたみやびは「うわぁ」と呆れたように、しかしどこか感心したように言って、しわになるのを嫌ってか、ワンピースの裾を整えた。昼下がりのデパートには活気があって、会話の最中にもカップルだったり家族連れだったりが続々二人の前を通り過ぎる。中には視線を向けてくる人もいて、悪意がないとわかっていても、涼音はその都度緊張感で鼓動を速めた。


「わたしも大概だけど、蓮は蓮で変わってて浮くところでは浮いちゃうから。偏屈だし、意固地だし。それで愛想もないし」


 蓮は空気が読めないわけではないのに、意図して読まないときがある。それは大抵、周りの風潮が自身の主義主張や信条と逆行した局面で起こる。たとえばグループから仲間外れにされている子に平然と話しかけたり、教師がヒステリックに怒鳴り散らしているところへ割って入ったり。とにかく彼は、自分が嫌だと思うことを放っておけない人間なのだ。その性格が災いしてか彼を蛇蝎のように嫌う人間もいて、涼音としては、それが少し怖かった。


「香月くん、賢い生き方がどういうものかわかったうえで、あえて茨の道を進んでるわよね」

「『楽じゃない方が気が楽』って言ってた」

「ああ、言いそう」


 世間が思う楽な生き方をすると、かえってストレスがたまるらしい。であれば、多少困難でも我を貫いた方が結果的に清々しいと、なんてことない顔で言っていた。涼音はその面倒くさい生き方に救われてしまった身なので、一切文句をつけられない。……つけられないけれど、もっと気を抜いて生きて欲しいとは、常に思っている。


「だから、蓮のことを認めてもらえるのは正直うれしい」


 彼の不器用さに肯定的な立ち位置の人間がいると知るだけで、涼音は肩の荷が下りた気持ちになる。ただしかし、それは――


「……でも芦屋さんが男の子なら、たぶんもっとうれしかった」


 涼音の直截すぎる物言いにくすっと笑って、みやびは「嫉妬?」と問うた。しかしそれに間を置かず「嫉妬以外ありえないでしょ」と返されたのは予想外だったのか、目を見開いて一瞬硬直。


「蓮が掘り出し物だって知ってるのは、わたしだけでよかったって思っちゃう」

「……態度といい物言いといい、花柳さん、ほとんど隠す気ないわよね?」

「隠すってなにを?」

「それはもちろん、香月くんをどう思ってるかについてだけど」

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