春、あなた、秋、わたし
泡海なぎさ
第1話 春、あなた、秋、わたし
【十八歳】
二〇〇二年、三月十三日。
私は、鏡の前で生まれた。
目の前に映る姿かたちは、私と全く同じ。
けれど、中身までは同じ像を結んでくれない。
温もりを持つその虚像は、私にできない表情をしてみせる。希望や期待、ありとあらゆるプラス感情に身体を漬けこんだような性格。清涼飲料のコマーシャルに抜擢されそうな弾ける笑顔。どれもこれも、眩しかった。あまりにも、眩しすぎた。
「……眩しい」
近く南中する太陽が、屋上の欄干にもたれかかって一人耽る私を刺すように照らす。三月の陽気とは思えないほどの温かさが、卒業式を迎えた十八の私たちの背を押しているようだった。あるいは、今日をもって十八となる私達を祝福しているのかもしれない。
写真を撮りあう同級生を眼下に眺めながら、喧騒から抜け出した私はもう一人の私を待っていた。
実像の私は、同じ血が流れている光に対する、影。
光の名は
春を境に分かたれた二人の名は、どうしようもなく体を表してしまった。
【七歳】
千なつとわたしは小学一ねんせいになった。にゅう学したら、さいしょに自こしょうかいをしなきゃいけないみたい。でも、あんまりたのしくない。
わたしの名まえは、ひいらぎ千ふゆです。小学一ねんせいです。すきなたべものはメロンです。きらいなたべものはトマトです。よろしくおねがいします。
たったこれだけの文しょうがいえない。みんながわたしを見てると、なんかかおがあつくなって、なにもいえなくなっちゃう。みんなはちーちゃんどうしたのって、きいてくるんだけど、しんぞうがドクドクなって、先せいが大じょうぶだよっていって、わたしのじゅんばんはおわっちゃった。でもわたしのまえに自こしょうかいした千なつは、すごかった。きんちょうもしてないみたいだったし、一かいもまちがえなかった。わたしはずっと千なつのそばにかくれて、自ぶんの上ぐつを見てたのに。千なつはすごいなぁ。
おうちにかえって、おかあさんにそのことをはなしたら、まゆげをハの字にして大じょうぶ?っていってくれた。千なつがはなしてるときはニコニコしてたのに、わたしがかなしませちゃったかもしれない。千なつはわたしのそばにいたけど、なにもいってなかった。
千なつみたいになれるようにがんばろう。なれるかな。
【十歳】
お母さんと今日、病院に行った。千夏もいっしょだった。はな水がでる時に行く耳び科とか、ねつが出た時に行くところとかは通りすぎて、見たことないところでうけつけをした。
すぐとなりのベンチには何かぶつぶつ言っている怖いおじさんがいた。でも、そばにお母さんみたいな人がいるからおじさんじゃないかもしれない。だっておじさんは大人の人だから、お母さんと病院に来たりしないと思う。でも、背中がぞわぞわするようなところだった。
「……お母さん、なんか、怖い」
「……ここはね、怖いところじゃないよ。あなたはおいしゃさんにちょっとしつ問されるだけ。お母さんがおいしゃさんのお話を聞きに来たの」
お母さんはわたしの頭をなでながら、よくわからないことを言った。ちゅうしゃとかはされないみたいで少し安心した。でも、頭をなでるお母さんの手が、いつもよりゆっくりだった。
「ひいらぎさーん、ひいらぎ千夏さーん、どうぞ」
千夏の名前がよばれて、部屋のドアが開いた。わたしの名前はよばれてなかったけど、お母さんも千夏といっしょに立ち上がったから、わたしもついていった。ベンチに一人でいるのは少し怖かった。
「こんにちは。おなまえ聞いてもいいかな?」
くるくる回るいすにすわったおじいちゃんみたいな先生が、ニコニコしながらたずねてきた。千夏はひいらぎ千夏ですって元気よく答えた。それに続いて、わたしも勇気をふりしぼって答えようとした。
「えっと……、あ…、ひっ、ひいらぎ、千冬、です……」
「千夏ちゃんと……千冬ちゃんね。わたしは、えのもとやすおです。よろしくね」
先生はたしかめるようにわたしたちの名前をくり返したあと、名前を教えてくれた。名札には木と夏と本の漢字がならんでいた。
「じゃあ千夏ちゃんに聞きたいことがあるんだけど……」
それからしばらく千夏と先生が話していた。好きな食べ物とかやってて楽しいこととか、そういう自こしょうかいみたいなことを話していた。わたしはその間、ただぼんやりしていた。いつ自分が聞かれるかとびくびくもしていた。
しばらくして、えのもと先生はわたしにしつ問をしてきた。おそるおそる好きな食べ物はメロン、きらいな食べ物はピーマンとこたえた。先生はニコニコしながらうなずいていた。
「千冬ちゃんの家ぞくを教えてもらってもいいかな?」
「……え、えっと……お母さんと、千夏、です……」
「うん。ありがとう。しつ問はこれで終わりだから、大じょう夫だよ」
そういって先生はメモをとると、今度はお母さんと話しはじめた。わたしと千夏はかんごしのお姉さんに、こっちでまっててねと言われてちがう部屋で待たされた。
向こうの部屋から何だかむずかしい言葉がいっぱい聞こえてきた。なんちゃらセイなんちゃら……なんちゃらが大事で……。
しばらくしてお母さんのところに戻って、先生の部屋を出た。千夏はお母さんと夜ごはんはシチューが良いって話をして、お母さんもニコニコしているけど、何だか目が赤くなっていた気がした。
「……お母さん、さっき先生と、むずかしい言葉で何話してたの? なんちゃらセイなんちゃらって、なに?」
千夏が話しおわったタイミングで聞いてみると、お母さんはびっくりしたような顔になったあと、笑って答えた。
「……むずかしい言葉って、もしかして、イチランセイソウセイジのこと?」
「……イチランセイソウセイジ……?」
「そう。あなたたちのこと」
お母さんはそう言うとニッコリして、わたしたちをだきしめた。
「……千夏も千冬も、どっちも大好きだからね」
千夏はお母さんにうずくまるだけだったけど、わたしは「わたしも、お母さん大好き」とめずらしく大きな声で言った。お母さんはあたたかかった。
【十八歳】
母親に裏切られた経験のある人間は少なくない。それは他愛ないことから深刻な事案まで様々だと思う。例えば、今日の晩御飯はシチューにするからねと言っていたのに食卓にでてきたのはカレーだったとか。お年玉はいつか大きくなった時に渡してあげるから今は預かっておいてあげると言われて十年、未だ手元に一銭も回ってきていないとか。
例えば、母親に存在を否定されるとか。
【十三歳】
千夏と私は中学生になった。だけど、相変わらず私は千夏のそばから離れることができていなかった。千夏は気にしていなさそうだし、私はそれに甘えてしまっている。
小学校とは大きく環境が変わった。周りの同級生は皆、まだパリパリのきれいな制服に着られているように見える。初めての授業日が終わって帰ろうとしていると、私は千夏と一緒に担任の先生に呼ばれた。連れていかれたのは職員室だった。
「ええっと……千冬さん、だよね?」
「……は、はいっ。柊、千冬です……」
「改めて、担任の杉本です。一年間よろしくね」
四十代にさしかかった男性にしては若く見えるものの、教師という仕事に誇りを持っているベテランの雰囲気を感じた。黒縁の眼鏡の奥にたたえられた瞳は、不思議と人を引き込む力を持っていた。
「緊張しないで大丈夫だよ。今日は千冬さんからちょっと話を聞きたかったからなんだ」
「……は、はい。私に……ですか」
「うん。……千冬さんは、人と話すのは苦手かな」
「え……っと……あ、う……」
「……ごめんごめん。無理しなくて大丈夫だよ。もっと違うこと話そうか」
「…………」
先生の謝罪が痛かった。悪いのはテキパキ話せない私なのに。
こういうのは千夏とやってほしいのに、先生は私に話しかけ続けた。
それから一時間ほど地獄のような時間を過ごし、ようやく私は千夏と帰った。先生は最後まで私にしか話しかけてこなかった。なぜ千夏まで呼んだのかわからなかったけど、千夏といないとまともに動けない私を知った上での、先生の配慮だったのかもしれない。
「おかえり、初めての授業どうだった?」
「う、うん……。国語が、面白かった。数学はよくわかんなかったけど……」
「あら、千冬は算数苦手だったから頑張らなきゃね」
そう言うと、お母さんはいつものように私の頭を撫でた。すると、今度は千夏が「私は国語の方が全然わかんないや!」と半分笑いながらぼやいた。千夏はお母さんの頭を撫でる手を「恥ずかしいからやめてよ~」とのけたから、心の中で思わず「あっ……」と言ってしまった。お母さんの手は温かいのに、もったいない。
それでも頭に手を伸ばそうとする母と、逃げようとする千夏。幼い頃に亡くなった父の記憶はないけれど、家族との時間は幸せに溢れていた。
家だけが私の安全地帯。私が唯一落ち着ける場所。私を認めてくれる場所。
千夏は中学で人気者になった。
明るい性格で面白いし、数学もできた。
友達もたくさんできて、晴れた休日はショッピングに行ったし、雨の日は電話で何時間もどうでもいいことを話した。
何人もの男子から告白もされた。誰とも付き合うことはなかったけど、断り方も上手だった。二回、三回と挑戦してくる男子もいた。
私は、ずっと千夏の陰でひっそりと息をしていた。
【十六歳】
私と千夏は高校生になった。二人とも同じ高校。高校ともなると双子がいるのは珍しい。でも、私は不思議と千夏と同じ高校に進学するだろうという確信があった。
千夏の中学時代の友人の姿も何人か見えた。彼女たちは千夏のことを「ちーちゃん」と呼ぶ。そしてそれは時々、私に投げかけられることがあった。性格以外は瓜二つの私達だから、いくら長い友人でも間違える時は間違える。
そして間違えられる度に、私はパニックになり、友人たちは何か察したような表情で去っていく。「ごめんね」と言っているようだった。
「……それは私のセリフ」
千夏は相変わらずクラスの輪の中心にいて、成績も悪くなかった。私と同じ顔をしているはずなのに、千夏の笑顔には人を幸せにする力があるようだった。誰もが嫌がることを自ら引き受けて、それでも媚売りだとかの僻みは一切言われない。オシャレで活発で何でもできる、笑顔が眩しい優等生。誰もが羨むスターへの道を着々と歩んでいった。
そして私は同じように、その陰で死んだように息をしていた。
それでも一度、私の生活に色がさしたことがあった。
それは、寒さが徐々に身体を締め上げ始めた十月頃。
学園祭の最終準備日、私は千夏と居残って展示物の最後の仕上げをしていた。日はとっくに暮れて校内は嘘のように静まりかえっており、電気も消えた教室は冷え切っていた。
「……ちょっと、怖いなぁ」
独り言のように呟いた言葉に、千夏は答えることなく手を動かし続けていた。高一のクラス企画は創作物の展示と決まっており、私達のクラスは木材を骨格にした大きな恐竜を作成していた。鱗が非常にリアルに出来て、男子達はみな興奮していた。
私達が最後の仕上げのニス塗りを終わらせようとしていたその時。
「お疲れ」
「ひっ……っ……!!!」
突然の背後からの声に、思わず叫ぶのも忘れて腰を抜かしてしまった。慌てて闇に目を凝らすとそこにいたのは噂のクラスの男子。西崎くんだった。
「いや、すまん。驚かすつもりは……なかったといえば嘘になるが、その、思いのほか効いちまったみたいだな……」
「…………!」
驚きと緊張とで頭が回らなくなって、しばらく再起不能になった。顔が熱い。口がピクピク痙攣する。心臓がそのまま胸を突き破る勢いでバクバクしている。
私をひとしきりなだめた後、彼はもう一度謝り、なぜかそのまま私に向かって話し始めた。
「いやー、俺もびっくりしたんだぜ? 部活帰りに忘れ物取りにきたら、こんな時間に音が聞こえるからよ」
「あ……うん……ご、ごめん」
「? なんでそんな歯切れ悪いんだ?」
「いや……その……恥ずか、しくて……」
彼はニス塗りの刷毛をいじくり回す私を覗き込んで、不思議そうにしながら作業道具が並ぶ机に腰かけた。
「恥ずかしいって、そんなビビッて女々しくなっちまったことか?」
「え……う、あう……」
どう返せばいいのかわからず言い淀んでいると、彼は笑って続けた。
「いいじゃん。誰にでも苦手なことってあるしさ。柊ってすげぇ奴だから、なんかそういう意外な部分が見えて嬉しいよ」
どうやら西崎くんは私と千夏を勘違いしているようだった。気づいたら近くに千夏の姿はなかった。私がニス塗りに夢中になっている間にトイレにでもいったのかもしれない。
「…………西崎くん……西崎も、苦手なこと、ある……?」
言葉を紡いでから、自分でも驚いた。自分から話を続けようとしたのは初めてだった。でも、千夏のフリをして話してみると、不思議と声が震えなかった。
西崎くんはこちらにチラッと目を向けた後、下を向いてポツリと話し始めた。
「……俺、兄貴がいるんだよ。昔から頭が良くて、野球も上手いんだ。小さい頃は憧れだったんだけどさ。俺も野球やり始めてから、なんていうんだろうな、辛くなっちまってさ。何をしたっていつも俺より前に兄貴がいるんだよ。どう頑張っても、兄貴がチラついちまうんだ。それから兄貴がコンプレックスっていうか、嫌いじゃないんだけど、苦手なんだろうな」
「…………」
西崎くんの横顔は、千夏のそばに隠れている私とそっくりだった。光に手を伸ばしても届かず、傍らで焼かれ続けてきた人間の目だった。
変なこと話してすまん、と言って話を切り上げると彼は立ち上がった。男子制服の銀ボタンが窓から差す月光に反射して、鈍く光った。私がボタンを見つめていると、彼は忘れ物らしい体操着を鞄にしまいながら、少し声を張って続けた。
「でもさ、俺にしかできないことだってきっとあるだろって割り切ってみたら、意外となんでもないような気がしてきたんだよ。まぁ、つまり、なんていうか、弱い部分なんて気にすることねぇよ。みんな色々抱えながら生きてるし、それがお前でいいじゃん。俺はその弱気な柊、好きだよ。なんか上から目線だけどな」
最後に見せた彼の笑顔に、ドクンと身体の中心から末端まで波が立った。思わず握っていた刷毛を取り落としてしまい、カンと軽い音が教室に響く。
「…………あの!」
「ん?」
気づけば、帰ろうとする西崎くんを呼び止めていた。なぜ呼び止めてしまったのか。何か言いたかったのか。私も同じだよとか、また話そうとか。自分でもよくわからなかったけど、口が勝手に動いていた。
「…………ありがとう」
私はずっと千夏の陰に生きてきた。彼はそこに目を向けてくれた。認められた気がした。
「? おう、じゃあ部活の友達待たせてるから先帰るわ。すまん。お疲れ」
廊下を走っていく彼を見送っている間も、千夏は戻ってこなかった。
ひんやりした空気が、今は心地いい。それくらいに身体が温かかった。
恋が何たるかは分からなかったけれど、この感情が恋だといいなと思った。
***
恋は、何の前触れもなく私のすべてを奪っていった。
ふと気がつくと、彼を目で追っていた。壊れたスピーカーのように、彼の声だけが大きく聞こえる。退屈な時間も、もし彼といればという想像だけであっという間に過ぎていった。彼と話す時間は三十分が三秒のように短く感じたし、彼に会えない土日は二、三年のように長く感じた。
だからこそ、私は忘れていたのかもしれない。
「呼び出してごめん。伝えたいことがあってさ」
派手な色をした葉が散った十二月の終わり。
校舎裏に呼び出されたのは、私の姿をした別の私。
「俺、柊が好きだ」
あの半月の夜、彼と話したのは、柊千夏だった。
まるで、冬の空に消える白い吐息のように。
恋は、あまりにも唐突に去っていった。
***
千夏、告白受けることにしたんだ。
『うん』
今まで誰とも付き合ったことなんてなかったのに。なんで?
『なんでだろう。分からないけど、心の奥の部分で無性に彼に惹かれたんだ』
へぇ、すごいね。それが運命の相手っていうのかな。
『やめてよ。恥ずかしいじゃん』
ほんと、お似合いだよ。お似合い……。私よりも、ずっと。
……どうして……どうしてあなたばっかり……
【十七歳】
私は高校二年生になった。
始業式の下駄箱前は人で溢れかえっている。新しいクラスの掲示がされていたからだ。
一学年二百七十五人、七クラスあるこの高校で、二年連続で同じ人間と同じクラスになる確率は限りなく低い。それにも関わらず、私の前には柊千夏が座っていた。
初恋が実らず、あまつさえ敗れた相手が家族という絶望から未だに立ち直れていない私は、今まで以上に暗く淀んだ世界に身を置いていた。到底同じクラスでやっていける気がしない。それでも私はこの柊千夏という存在に寄りかかっていた。自分でも歪んでいると思うが、どうしようもなかった。
一番辛かったのは、千夏と西崎の様子が目に入ることだった。
毎日一緒に登下校をし、家でも頻繁に連絡を取り合い、何度もデートを重ねた。この前は遊園地に行き、ついにキスまでたどりついた。お互いにぎこちなかったものの、伝わる熱は本物だった。日の暮れるタイミング、観覧車の中で二人きり、どこをとっても一生忘れることのない経験だろう。
私はずっとその輝きから逃れることに必死だった。
私の居場所は母と過ごす時間だけとなった。昔から母に甘える方ではあったが、この時期は特に母に助けられていた。死んだように学校から帰ると、母はいつも温かく迎えてくれた。
「おかえり、千冬」
その一言で、私は満足だった。母は私を、柊千冬を見てくれる。鏡写しのような二人にも関わらず、一度だって私と千夏を間違えたことはなかった。どれだけ辛いことがあっても、その腕で優しく包み込んでくれる。落ち込んでいる時はきまって好物のクリームシチューを作ってくれる。下手くそな私の話も、真剣に聞いてくれる。ずっと私のそばにいてくれる。
そんな母が、その年の冬に乳がんで倒れた。
また冬だ。冬が私を苦しめる。冷たく暗い冬なんて季節、なければいいのに。
診断の結果はステージⅢ。医者は「ずっと無理をなされていたようです」と、仕事の責務を果たすためだけのような淡々とした口調で私に説明した。
放射線治療と抗がん剤投与を繰り返し、その回数が増えれば増えるほど母の身体はみるみるうちに痩せていった。母は「大丈夫だよ」と気丈に振舞っていたが、二週間後には人工呼吸器をつけなければいけないほど容態が悪化してしまった。
私は可能な限りの時間を母のお見舞いに費やした。今まで支えてくれた母のために、少しでも役に立ちたい一心だった。皮肉なことに、母の身に迫る死が、その当時の柊千冬の生きる意味になっていた。
それでも病魔は着実に母の身体を蝕んでいった。一日に二、三言交わすのが精一杯になっていき、ついに意識不明の状態に陥ってから二日が経った。
母が意識を取り戻したのは午後九時を回った頃のほんの数分だった。私が傍で手を握っているとその手が糸に吊り上げられたように持ち上がり、力なく私の頭に置かれた。
「お母さん!」
「…………ごめんね。こんなに早く、お母さんまで、いなくなっちゃうなんて……」
医療機器の雑音にかき消されてしまいそうな、かすれた細い声だった。吐息に合わせてわずかに曇る呼吸器が、いっそう弱弱しさを引き立てていた。
「やめてよお母さん。まだ……」
「ううん……これが最後かなって、何となくわかるの……本当にありがとね……」
母の手は震えていた。私が涙を流しながら震えていたのかもしれない。
母は、その三時間後に息を引き取った。もう二度と頭を撫でてくれることも、私の話に笑ってくれることも、シチューを作ってくれることもない。覚悟していたとはいえ、私の拠り所であった母が完全に動かなくなってしまった事実は受け入れ難いものだった。
けれど、私はそれ以上の混乱と衝撃に呆然としていた。
母は最期に恐ろしいことを言い遺していった。
「…………本当に、ありがとね。…………千夏がいて、幸せだった……」
母の手は、冷たかった。
***
どうして、どうしていつもあなたなの?
生まれた時から同じ姿、同じ体重、同じ環境、最初は全部全部同じだったはずじゃない。
どうしてあなたは光で、私は陰にしかなれないの?
母は私を何だと思っていたの?
どうしてあなただけが、母の最期に出てくるの?
クラスメイトも西崎くんも、結局は母まで全部全部全部全部あなたが奪っていった。
私の人生はどこにあるの? 何のために生きているの?
毎日毎日毎日考えてたら、カッターだけが答えてくれた。
手首を切る時の痛み、匂い、肉を切る音、罪悪感、それを上回る満足感。
あなたは知ってる?
あぁ、私は生きてる。そう思えることの快感を、あなたは知ってる?
嬉しいことにね。私にも血が流れてるんだよ。
真っ赤でね。月明かりの下ではテラテラしてるけど、粘り気はなくて結構水っぽい。三分もすればチョコレートみたいに美味しそうな焦げ茶色になるんだよ。
あなたは、知らないよね。ねぇ、ねぇ?
ア、ハ。わたしは知ってるよ……?
……ねぇ、どうして私が血を流さなければいけないの。
あなたが目障り。私と同じ姿で、のうのうと光の世界で生きるあなたが目障り。
なんであなたがいるの。気味が悪い。気味が悪い気味が悪い。
ねぇ、どうして私がこんな思いをしなければいけないの。
どうして、あなたばっかり楽しそうに笑えるの。
どうして、どうしていつもあなたなの。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……
……あ、
私があなたになれば、わかる?
【十八歳】
「なーに? 急に屋上で話なんて」
柊千夏はいつの間にか私の横に現れていた。校舎の屋上からは私達の過ごした街が一望できる。一般的には良い景色なんだろう。もっとも、柊千冬の目には水の枯れ果てた砂漠のようにしか見えなかったが。
「うん、ちょうど区切りも良いし、最後に色々話があって」
「最後って、どういうこと?」
「今日って私達の誕生日じゃん。だから、十七の最後」
「あー、そういうことね。いいよ。まだ時間あるし」
千夏は納得した様子で、私と同じように欄干に背を預けていた。私は千夏の方を見ることなく呟く。
「……風、気持ちいいね」
「そうだねー。もう春だね」
「もうちょっと先まで進めばもっと気持ちよさそう。景色ももっと良くなると思うし」
「んー、危なくない? 大丈夫?」
「大丈夫だよ。ほら、ここ乗り越えれるよ」
私は欄干を乗り越え、フェンスの外に出っ張った段差まで進んだ。千夏もそれについてくる。高度は変わっていないのに、さっきよりも空気が薄くなった気がした。
そこで私は、何でもないことのように話し始める。
「ねぇ、私達ってさ」
「んー?」
風に乗ったソメイヨシノの香りが身体を打ち付ける。
「ほんと、そっくりだよね」
「あー、うん、そうだね」
風が強くなってきた。長い髪がバサバサと乱れる。
スッと一呼吸して、私は告げる。
「だからさ……」
風の音にかき消されないよう、はっきりと。
「入れ替わっても、バレないと思わない?」
困惑の表情を浮かべる千夏を、目一杯の力で突き飛ばした。
不意をつかれた千夏は「えっ……」と小さく残し、足場の外に吸い込まれていく。
落下していく千夏を見た瞬間、私は脳が沸騰するような感覚を覚えた。
あいつが下にいる。私より、下にいる。
私より上に、あいつはいない……!
今日は私の命日。柊千冬の命日。
そして、私の、私だけの誕生日だ……!
私は今日から、誰にも奪われることのない柊千夏として生まれ変わる。
私から全てを奪っていったのだ。命くらい奪われて当然だ。
お前は私のために、どうか柊千冬として眠ってくれ。
千夏が落ちていく光景はスローモーションのように見えた。ずっとこの光景を見ていたいと思った。上から人間を見るのはこんなにも気持ちが良いものなのだと生まれて初めて知った。千夏は私の影にその身体をうずめて小さくなっていく。
あぁ、最高だ。私は身体を埋め尽くすあらゆる感覚に浸った。
高揚感、全能感、安心感、達成感、優越感、充実感、解放感…………
…………そして、重力。
「…………えっ」
気づけば私は、経験したことのないほどの重力に身を引き込まれていた。
目に見えるのは、煤けた街の景色でも、落ちていく千夏でもない。見慣れた高校が下から上へとスライドしていく様子。
屋上に、恍惚の表情を浮かべている柊千冬の姿はない。そこには誰もいない。
確かなのは、私が千夏と同時に落下していること。
混乱する私の横をゴウゴウと風が通り過ぎていく。
コンクリートが目の前に迫った刹那、風が千夏の袖をめくった。
そこにあったのは、見覚えのある切り傷の跡。
そこで私は、十八年間気づけなかった事実を悟ってしまった。
あぁ、なんだ。柊千冬は、最初から存在していなかったのだと。
ぐしゃり
二百七十四人の卒業生名簿が、真っ赤な血で滲んだ。
春、あなた、秋、わたし 泡海なぎさ @awamirin
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