第16話 トゥー・ビー・オア

啖呵タンカーを担架で運んでから、一週間が経過した。


あれから特に襲撃もなく、

俺たちは穏やかな時間を過ごしている。



ツカサはうちに泊まり続けるのを申し訳ないと思ったのか、

近くの図書カフェで住み込みのアルバイトを始めた。


俺が子どもの頃から店主とは馴染みが深いお陰で、

経歴不問で働かせて貰えて一安心である。



だがしかし。

この世界で日常生活を始めたツカサには、

経歴よりも深刻な問題が待ち構えていた……



「……日本語、難しすぎねぇか?」



俺は放課後になると図書カフェに立ち寄り、

ツカサの向かい側へと座った。


唸っているツカサの手元には、

小学生用の漢字ドリルが開かれている。



「漢字か平仮名かカタカナか、

 どれか一つにしろってんだ……

 それならまだ理解出来るのによ」



ツカサは日本語を読む事が出来ない。



言葉だけは通じているのが奇跡だ……

さすがは異世界転移だと、感動を覚える。


まぁ日本語が読めないだけならば、

いずれ母国に帰れさえすれば問題もないだろう。



しかしツカサの場合、更に事態は深刻だった……



「母国語すら読めなくなってる癖に、何言ってんだよ」



クラムちゃんは異世界に戻った時、

ツカサの国のみんとすを買って来てくれた。


これでツカサにハテシナの物語を読んで貰えるぞ!

と思い、俺は意気揚々とツカサにお願いしたのだが……


ツカサの記憶喪失は、

なんと母国の文字にまで及んでいたのである。


言葉はしっかりと理解出来ているというのに……


まるで文字という力そのものが、

ツカサから奪われてしまったかの様だ。



「そもそもよ、文字っていうのが難し過ぎんだよな」


「お前、一応司書なんだろ? 頑張れよ……」



流石の脳筋もこれには相当ショックだったようで、

せめて日本語を教えてくれと、俺に泣きついてきたのである。



そんな訳で俺はこの一週間、

図書カフェに通ってツカサに日本語を教えていた。


みんとすに関してはハテシナレイが興味津々だったので、

あいつに預けてある。


ツカサがこの調子では、

下手したらハテシナレイの方が読解する望みがあるかもしれない……



「ツカサちゃん、

 ちょっと本の整理を手伝ってくれないかい……?」


「あ、悪りぃばーちゃん!

 今すぐ行くわ!!」



空き時間の勉強を許されているとはいえ、今は仕事中である。

ツカサは呼ばれると、すぐにそちらへと向かった。

おばさんは優しい笑顔でツカサを迎えている。


この図書カフェを営んでいる老夫婦は、

とても仲睦まじくて素敵な人たちだ。


2人とも生粋の本好きで、

常連客とフレンドリーに会話している。


この店にはハテシナも良く来ていて、

俺はここでだけ人と笑顔で会話するハテシナを見る事が出来た。



「タクオくん、良い子を紹介してくれて助かったよ。

 私たちも歳だからね、本の移動は骨が折れていたんだ」



おじさんは、朗らかな笑顔でコーヒーを運んでくれた。

ほっとする香りが辺りに漂う。


この店の看板は本だけではない。

おじさんの淹れるブレンドコーヒーと、

おばさんの作るフレンチトーストも名物なのだ。



「こちらこそ、ツカサを雇ってくれてありがとうございます。

 でもコーヒーなんて、俺は頼んでないですよ?」


「このコーヒーね、あちらのお客さんからだよ。

 タクオくんも隅に置けないねぇ」



そう言っておじさんは、俺の事を肘で小突く。

視線の先には、黒髪を綺麗に纏めた和装の女性が座っていた。


紅い色をした切れ長の流し目が、とても官能的だ……

どことなく影を感じて、

小説に出てくる未亡人の様な雰囲気がある。


こちらの視線に気付いたのか、

黒子のある口元が俺に向かって妖艶に微笑んだ。



「……っ!!!」


その唇は、まるで誘惑しているかの様にも思える。


俺は気持ちを沈めようとして、

一気にコーヒーを飲み干してしまった。



「あちらの方、リアさんっていう名前らしいよ。

 じゃあ、ごゆっくりね」


ニヤニヤした顔でおじさんが去っていくと、

俺はどうすれば良いのか分からなくなってしまった。



今までの人生で、

女性から好意を向けられた事は当然ながら皆無である……


俺は動悸が止まらなかった。



「ねぇ、あなた……」



鼓動を落ち着ける為に目を閉じて精神統一していたら、

いつの間にかリアさんが目の前に座っていた。


戸惑っている俺の手に、ひんやりとした指先が触れる。


思わずビクリと跳ねた俺の手を、

リアさんは優しく握ってくれた……



こんなフラグは始めてだ……!!!



「あなたは私の道化に、なってくれるかしら?」



意味が分からなくて、俺はリアさんに尋ねようとした。

しかし俺の口からは、何故か声が出て来ない……



手を添えたままだったコーヒーカップが、

揺れているのが見えた。


けれどそれは、

カップがひとりでに揺れている訳ではない。



俺の手が、震えているのだ……!!!



それに気付いてしまった瞬間。


俺の頭はガクンと鉛の様に重くなり、為す術もなく机に突っ伏した。

身体を動かす事さえ出来ず、目線だけをリアさんに向ける。



リアさんは、

この世のものとは思えない、おぞましい笑みを浮かべていた……



「人間が生まれた時に泣くのはね、

 この愚かしい舞台に引きずり出されたからなんですって。

 それなら、死ぬ時はどうなのかしらね?」



俺は、先程の言葉を訂正したい……



こんな死亡フラグは、初めてだ……!!!



俺の背後から、スーツを着た1人の男が近付いて来る。

その男はこちらを見下ろすと、小さな声で呟いた。



「埋めるべきか沈めるべきか、それが問題だ……」



そんなにシェイクスピアを不穏にしないでくれ!!!



命を振り絞ったツッコミを最後に、

俺の体は一切動かなくなってしまった。

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