第17話 鍵と鍵

仕事を終えても、外はまだ真っ暗だ。

街灯の少ない路地の奥は更に暗くて、より冷え込んでいるように感じる。

故郷にに比べればこちらは暖かいし、家々は密集して深夜でも早朝でも出歩いている人は多いのに、寒々しいような、寂しいような、そんな気分になる。

アパートの前に立って、自分の部屋を見上げる。

明かりの灯っていない部屋に帰るのは、どこかわびしいというか、やるせなさを覚える。

って、電気を消し忘れて家を出たのだろうか?

俺の部屋から灯りが漏れている。

「お帰りー」

玄関を開けると、暖かな空気と柔らかな声が俺を包んだ。

「ただいまー」

懐かしいような、心地よい匂いと気配。

やっぱり、一人じゃなくて二人がいいよなぁ、

「じゃねーよ! なんで当たり前のようにいるんだよ!」

「だって、合鍵持ってるし?」

「合鍵じゃなくてスペアキーだ!」

「名称は違っても用途は同じよ?」

「いいから返せ」

プクっと頬を膨らませる。

絶対に、他の誰にも見せない顔だ。

俺は、そんな葉菜の顔を幾つも知っている。

「……返すわ」

不貞腐ふてくされたように言って、机の上に鍵を差し出す。

ん? 俺の鍵じゃないが?

「って、お前の部屋の鍵じゃないか!」

「ええ、あなたが使ってた鍵よ」

初めて二人で同じ鍵を手にしたとき、何度も顔を見合わせて笑った。

二人の部屋は二人だけの世界で、その狭い世界が、二人の全てみたいに思えた。

「二度と使わないとしても、春平が持ってて」

強い口調にうながされて、俺はその鍵を握り締める。

まるで、欠けていたパズルのピースが埋まったみたいに、それは俺の手によく馴染んだ。

あれ? 結局、俺の部屋の鍵は?

葉菜は知らん顔して朝食を机の上に並べ出す。

暖かい部屋と、味噌汁の匂い。

思わずくつろいだ気分になってしまうが、俺は懐柔される気はない。

「葉菜」

語気を強める。

「……判ったわよ。でも今日は持ってきてないから今度にして」

「まあ、そういうことなら……次は忘れるなよ」

「はぁい」

葉菜が嬉しそうに笑う。

……数秒後、俺は自分のアホさ加減に気付いた。

鍵を忘れた人間が、どうしてこの部屋にいるのだ。

葉菜は笑顔のままだ。

それがあまりにいい笑顔だったので、俺は出しかけた言葉を飲み込む。

くそ、今日は勘弁してやる。


「お正月は実家に帰るでしょ?」

ひと眠りして目を覚ました俺に、葉菜は笑顔で尋ねてきた。

二人で暮らしていたときも、葉菜は俺の目覚めを笑顔で迎えていたことを思い出す。

それにしても、実家かぁ。

店で年越しだし、正月って気分でも無いしなぁ。

「お母さんも、久しぶりに春ぺ──未来の娘婿むすめむこに会いたいって言っていたわよ」

「わざわざ言い直すな! つーか、お前の両親に会ったら、俺は殺されそうな気がする」

俺と葉菜は小さい頃から親同士公認の仲みたいなところがあったし、大学進学を機に同棲することにも、反対どころか快諾かいだくしてくれた。

「うちの親は春平のことが好きよ?」

「いや、でも、娘を疵物きずものにしやがってとか思われてそうだし……」

「あら、私は元々、田舎じゃ疵モノはれモノ扱いだったじゃない」

「葉菜は疵物なんかじゃないし、腫れ物なんかでも……それはちょっとあるかな」

「だったら問題ないわ」

「いや、でも……」

「両親には、別れたこと話してないもの」

「え?」

「イチャイチャラブラブ、私はもうすぐ大学も卒業だし、就職先も決まってるし順風満帆じゅんぷうまんぱん

「……何の話だ?」

「何なら卒業したら籍を入れちゃえば、なんて言ってるわよ?」

俺が葉菜と別れたことは、俺の両親はとっくに知っている。

俺の母親と葉菜の母親は、昔から仲良しだ。

なぜ伝わってないのだろう?

「それにしても長い放置プレイよねぇ。もう二年半にもなるわよ」

「は?」

「親には放置プレイされてるって言ってるの」

「放置プレイじゃねーよ! だけどお前を見てると本当に別れ話をしたっけ、って疑問に思えてくるよ!」

「何にでも疑問を持つのはいいことだわ」

「一たす一は二に疑問なんか持ちたくねーよ!」

「春平」

「な、なんだ?」

「男女の関係は、そんな簡単なものじゃないわ」

何で俺がさとされているのか?

「……春平」

さっきとは違って、とても柔らかな響き。

「帰るか帰らないかは春平の自由だけど、お父さんには、別れたことは言わないでね」

葉菜のお父さんは、とても豪快な人だ。

そしてとても厳しい人だ。

葉菜の強さは、あの人が作り上げたと言っていい。


トランプ遊びをしていた時だった。

まだ四歳か五歳の頃だった。

俺が何度お手本を見せても、葉菜はトランプをる(切る)ことが出来ずに泣いてしまった。

俺は慰めたけれど、葉菜のお父さんはそうじゃなかった。

「泣いている暇があるなら、自分が出来ることを考えて工夫しろ!」

子供心に、なんて厳しいお父さんなんだと思った。

でも葉菜は、指使いを工夫して、やがてはそれを成し遂げる。

何でもそうだ。

葉菜は泣くことはあっても、決して屈しない。

今では俺よりも上手い手捌てさばきでトランプを扱うし、絵も字も俺より上手い。

そして葉菜のお父さんは、そんな葉菜を誰よりも褒めるのだ。

「言ったら、やっぱり殺されるのかなぁ」

厳しくても、誰よりも葉菜を愛していた人だから、俺のこともとても可愛がってくれた。

「殺されはしないけれど、泣くわよ」

「え? あのお父さんが?」

「ああ見えて涙もろいのよ? 春平と同じようにね」

確かに俺は涙もろい。

何かささやかなことを葉菜が成し遂げただけでも、俺はよく泣いてしまったりした。

毎朝コンビニに届く新聞に、ちらっと目を通して、そこに悲しい事件や事故の記事が載っていたら涙ぐんでしまうこともある。

でもきっと、あの人が泣くのは、葉菜に関することに限られるんじゃないだろうか。

「最近、歳を取ってちょっと弱気になってるのよ。もしかしてうちの娘は、放置プレイじゃなくて放置されてるだけなんじゃ、なんて心配するくらいに」

「……」

「とにかく、いずれ私の口から言うから、春平は黙ってて」

冗談なのか本気なのか判らないけど、あのお父さんを泣かせたくはないよなぁ。

かといって嘘をくのも嫌だしなぁ。

「春平」

「ん?」

「お正月は未定として、クリスマスは泊まりに来るわね」

「泊まらせるかっ!」

不服そうに頬を膨らませるコイツは、いったいどこまで本気なんだか……。

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