第7話 痴話

家に帰ると、またドアの前に葉菜が立っていた。

ボロっちぃアパートに、気品と美貌を兼ね備えた葉菜の姿は違和感がある。

いつもそでが長めの服を着ているので、それがちょっと品を損ねている気もするが。

「遅かったじゃない」

退勤時間に合わせて来たのなら、随分と待たせてしまっただろうと思う。

「すまん」

約束をしていたわけじゃないけど、待っていてくれたのは申し訳ない。

「確か早朝のシフトに、女子大生がいたわよね?」

「お前は俺のストーカーか何かなのか?」

「そんないいものじゃ無いけど」

ストーカーがいいもの!?

だったらお前は何!?

「私としては、あの女子大生は五十点なんだけど、春平としてはどうかしら?」

「そんなことより、お前、うちの店で買い物をしたのか?」

「……するわけないでしょう? ちょっと店の前を通ったついでに観察してただけよ」

そうだよな。

基本的に、葉菜は馴染みの無い店では滅多に買い物をしない。

特にコンビニなんかは避ける傾向があって、必要に迫られた時にだけ、店員を見極めた上で利用する。

コイツは一人で、何かと不自由な暮らしをしてるんじゃないだろうか。

別れるときに抱いた心配を、今になってまたしても仕方ないことだけど。

「今日は休みでしょ?」

俺の心配をよそに、葉菜は明るい口調で言う。

当然のことながら、ちゃんと休日を把握した上で来ているのだ。

休みの日はだいたい夕方まで起きているし、世間は昼型に出来ているので、雑用なども休日の日中に済ます。

「こうやっていつも部屋の前に立っているのも何だし、そろそろ合鍵くらい渡してくれてもいいんじゃない?」

「俺たち別れた! 同棲やめた! 意味ワカルカ?」

何で俺は片言になっているんだろう?

「相変わらず頭が固いわね。合鍵を渡したところで、よりを戻して同棲を始めることにはならないでしょう?」

それはその通りだが、俺の中の常識が違うと言っている。

「いいから早く入れてよ。こんなところで痴話喧嘩してたらご近所さんに迷惑よ」

「痴話でもないし喧嘩でもない」

「いいから早く、い、れ、て」

耳元で甘くささやかれるウィスパーボイス。

くっ! 喧嘩ではないが痴話になってしまった。

お互い身体の隅々まで知っている関係は、遠慮や恥じらいが無いから始末が悪い。

ましてやコイツは、プライドが高くて周囲には慳貪けんどんな態度でいるくせに、ベッドの上ではひどく乱れて甘えてくるのだ。

俺にだけ見せる姿。

その特別感に、今でも酔いたくなることがある。

……別れて二年にもなるのに、何を考えているんだ。

俺は首を振ってから、乱暴に鍵穴に鍵を突っ込み、ガチャガチャと音を立てて耳に残る甘い声を消した。


仕事から自分の部屋に帰ってくると、いつも土や葉っぱの匂いを感じる。

時には花の匂いのこともあるが、いま咲いている花は無い。

二人で暮らしていた部屋、つまり今は葉菜が一人で暮らしているマンションでも、外出から帰ってくると同じ匂いがしていた。

葉菜はその度に顔をしかめていたのを思い出す。

俺が出ていく時に全ての植物は持ち出したし、あの部屋は俺にとって殺風景なもののままだろう。

「この匂い、来る度に懐かしい気持ちになるわ」

「週に二回は来てるヤツのセリフじゃないな」

「同じ部屋で暮らして同じ学校に行っていたんだから、週に二回でも懐かしいわよ?」

土と植物の匂いの話じゃなかったっけ?

まるで俺のことを懐かしいと言っているみたいに聞こえるけれど、でもその匂いが俺と関連付けされているのなら、葉菜にとって、この匂いはそれほど嫌いでは無かったのだろうか。

対して俺は、葉菜を見てどう思っているのか。

葉菜の身体を恋しいと思う気持ちも、懐かしいと言えるのか、それともただの欲望か。

「ねえ、二年間、処理はどうしてるの?」

「処理?」

「私を何度もつらぬいた、キモくてたくましくて激しく怒張どちょう屹立きつりつした──」

「ええい、やめい!」

やっぱり全てを見せてしまった相手は始末が悪い。

けれどそれはやっぱり、どこか居心地の良さみたいなものも感じさせる。

自分を飾る必要は無く、まるで自宅の居間にいるような安心感がある。

「あなたのことだから、一人で処理をしてたんでしょう?」

「ナメるな! 俺だってそこそこモテるんだぞ!」

「知ってるわよ」

え? マジですか? だったらこの二年間の自家発電の理由は?

「一人でするなら、私を使ってよね」

「使ってとか言うなよ」

「だって、私はあなたを使っているもの」

……葉菜の指。

特別なそれは、今でも俺を雁字搦がんじがらめにしているのだろうか。

いや、違うな。

俺が、俺自身の理由でそれにとらわれているだけだ。

「我慢出来なくなったら、電話をしてくればいいのよ?」

「は?」

「私が駆け付けて、あなたを満足させるわ」

……それって、何のために別れたのか意味が解らなくなるじゃないか。

「春平は、私の指が好きでしょう?」

他の誰とも違う葉菜の指。

俺がそれを好きなのは確かなことで、だから葉菜は俺に依存する。

だから俺は、葉菜と距離を取ろうと思ったんだ。

葉菜の可能性をせばめないように、葉菜の世界がもっと広がるように。

「春平」

「なんだよ」

「この二年間、私が他の誰とも触れていないって判ってるでしょう?」

「……」

「この二十二年間、春平以外に身体を開いていないって、判ってるでしょう?」

資産家の娘で、成績優秀、類稀たぐいまれな美貌の持ち主。

但し、偏屈で気が強く、好き嫌いが激しくて社交性は皆無。

俺はといえば、実家は貧乏だし大学中退、将来の見通しは立たず友達も少ない。

葉菜に多少の問題はあっても、俺と釣り合いは取れない。

いや、釣り合いとかは抜きにして、葉菜の可能性と選択肢を、俺は潰したく無いのだ。

「想像してみて」

「何を?」

「私に彼氏が出来たとするでしょう?」

何を言う気だ?

葉菜は見せつけるように含み笑いをした。

「春平しか知らない私の全てを、その人に見せることになるのよ?」

「そ、そりゃそうだろ」

「あのときの声を聞かせるのよ?」

葉菜の、普段からは考えられない甘い声。

その声で、誰かの名前を繰り返し呼ぶなんてことは……想像したくない。

「あなたを求めたときみたいに、脚を開いて懇願こんがんするのよ?」

いや、ちょっとヤメテ!

「春平よりおっきいのぉ!」

「喧嘩売ってんのか! この狡猾こうかつなクソ女が!」

「……嫉妬してくれるの?」

「……」

葉菜が笑った。

その笑顔も、たぶん俺にしか見せないものだ。

「またメスブタって言ってしいたげればいいじゃない」

「言ったことないが!?」

「春平がどういうつもりで私と距離を取ったのか知らないけれど、春平の思惑通りにならないと思うの」

「どうして」

「私は私のままだから」

何か意味深な言葉を吐いて、葉菜はまた笑うのだ。

ちっくしょ……。

好き嫌いの激しい偏屈な葉菜は、俺にしか懐かないのだ。

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